11 白鳥の園④
ファロス歴1011年、葡萄月。皇太子との成婚という最大の栄誉に沸き立つダイグル公爵家の一角は嘘のように静まりかえっていた。
誰もがこそこそと囁き合い、極力近寄ろうとしないそこは公爵令嬢デルフィーヌの部屋だった。皇太子ルイ・アレクサンドルとの婚約が白紙に戻されてから錯乱状態が続いている彼女の『療養』場所に、公爵家の領地の中で最も辺鄙な北限の塔が選ばれたことを誰もが知っていた。
その部屋の扉をノックするのは公爵家の一員になって間もない者だった。シャルロット・ダイグル。つい先日、ダイグル公爵令嬢として正式に皇太子妃に決定した彼女は、怯える侍女を宥めながら義姉の部屋に入った。
「お義姉様、ご機嫌いかが?」
可憐な新公爵令嬢は、広いベッドで一人膝を抱えているデルフィーヌに近づいた。
「まあ、お支度がまだなのね」
寝間着から着替えてもいないデルフィーヌは、ぼんやりと華やかな義妹を見た。シャルロットは溜め息をつくと、小声で言った。
「張り合いのない女ね。でも、今日であんたとはお別れよ。この家の娘はあたし一人で充分なんだから。お元気でね、お義姉様」
デルフィーヌの青い瞳に光が甦った。彼女は痩せた手でベッド脇のテーブル上のペーパーナイフを掴み、シャルロットに斬りつけようとした。侍女が悲鳴を上げた。
すぐに使用人がなだれ込み、暴れるデルフィーヌを押さえつけた。恐ろしそうに顔を覆いながら、シャルロットは肩を震わせ指の隙間から義姉を見た。二人の視線がぶつかり、互いに底知れない憎悪を向けて彼女たちは別れた。
* *
朝の光の中で目を開け、シャルロットは溜め息をついた。
「また、あの頃の夢…」
自分が北限の塔に幽閉される日の、最後にシャルロットと会った時の夢だった。夢という形で冷静に回想できたせいか、〈デルフィーヌ〉は腑に落ちない点に気付いた。
――あの頃は本など読める状態ではなかったのに、何故あそこにペーパーナイフがあったの?
考えられるのはシャルロットが自分で持ち込んだ可能性だ。
――やりかねないわね、あの女なら。丁寧に私にとどめを刺して公爵家から影すら消した訳ね。
昨日の対決から、〈デルフィーヌ〉は今後のことを何度も考えた。ここに来ると決まった時は、職について男爵家から疎遠になることを望んだ。だが、同じ学園にあのシャルロット・ロシニョールがいるなら、今度は公爵家の権力を使ってでも自分を潰しに来るだろう。
――前世では勉強より学院の男子生徒を取り巻きにすることに熱心だったけど、高位貴族令嬢としての教養は身についているのかしら。
優秀な侍女が付いていればある程度は誤魔化せるが、記憶にあるシャルロット・ロシニョールが真面目に家庭教師に師事したとは思えない。
――前世の彼女は下位貴族なのに平民にも劣る立ち振る舞いだったわ。
それを取り巻きたちとどれほど馬鹿にしたか分からない。所詮貧民街出身の庶子だと。
かつての自分の行いに忸怩たるものを覚えながら、シャルロットは着替え始めた。
数日後、授業が終わり寮に戻ると、シャルロットは寮監のエミリー・ゴージュに呼び出された。
寮監室には副監のサラ・パンソンもいた。
「ごめんなさい、いきなり呼びつけて」
エミリーは最初に詫びると、椅子に座ったシャルロットに尋ねた。
「最近、あなたが教室で一人でいるようだと聞いて、何が事情があるならと思って」
シャルロットは苦笑した。
「実は私の迂闊な行動でモワイヨン様に叱責されてしまいました。私と一緒にいることであの方に目を付けられるのを防ごうと、みんなにお願いしたんです」
エミリーとサラは顔を見合わせて頷いた。彼女たちにはある程度予想できた回答のようだった。
「そうなの。なら、しばらくはおとなしくする必要があるわね。あちらのご令嬢がたは全員あなたを非難したの?」
「いえ、ディロンデル様は反省文を出すだけでいいとおっしゃってくださいました」
シャルロットの答えにエミリーは頷いた。
「さすがに公爵家の方は寛大ね。まあ、ダイグル派の令嬢が先走ったのもあるでしょうけど」
「ゴーシュ様はあの方たちをよくご存じなのですか?」
「祖母が伯爵家だから、たまに宮廷に連れて行ってくださるの。二大派閥にピリピリしてて、あまり楽しくなかったわ」
エミリーの飾らない感想にサラが笑った。
「そういうのを聞くと、平民で良かったと思うわ」
「あなたの家はそこらの貴族なんか目じゃないでしょ? 毎年叙爵の噂が出るし」
「あいにく、父も貴族なんて柄じゃないと自覚してるわ。好きな時に乗馬も車の運転も出来ないなんて、どうやって生活すればいいの」
後輩が話題に置き去りにされているのに気付き、二人は謝った。
「ごめんなさいね、状況を確認したかっただけなの」
「いえ、気に掛けていただいて嬉しいです」
礼を言ってシャルロットは静かに寮監室を出て行った。二人きりになると行儀悪く机に足を乗せ、エミリーが呟いた。
「ユージェニー様のおっしゃる通りね。身なりを除けばとても男爵令嬢に見えないわ」
「目立たないようで寮の人気者になっているし」
「とにかく、問題が起こらないように気をつけるしかないわね」
彼女たちはそう結論づけて院長への定期報告書に取りかかった。
週末の九曜日になると静かな寮は賑わいを見せる。生徒の家族親戚が面会に訪れるためだった。
誰も来ないことが分かっているシャルロットは、自分宛に届いた郵便物を読み返した。
差出人はマダム・モワノがほとんどだった。男爵夫人の律儀な侍女は定期的に夫人と男爵家の状況を報告してきた。
『奥様は伯爵領の静養地で健やかにお過ごしです。母君と一緒の生活が体調の安定に繋がっているようです。男爵はまた事業を広げられたようでほとんど邸に帰ってこないとか』
シャルロットはレターセットを取り出し、自分の近況を書いた。勉強に励んでいることや、機会があれば精神の病気に効果のある療養を調べてみようと思っていることなど簡潔にしたため、彼女は手紙を出すために寮の受付に行った。
寮の食堂が時間外なのに賑やかなのに彼女は気付いた。
「どうしたの?」
同級生に尋ねると、少女たちは窓際に手招いた。
「ほら、高位貴族の令嬢たちのご家族が面会に見えてるの」
中庭がよく見える位置のようだ。懐かしさも手伝って〈デルフィーヌ〉はかつての知人たちを確認した。
――コロンブ伯爵、ファコン侯爵、メサンジュ伯爵、ベカシー子爵、ミラン侯爵…変わりないわね。
新たに正門を通ってきた馬車は鷲の紋章があった。ダイグル公爵家だ。当然のように降りてきたアンセルム・ダイグルを見て〈デルフィーヌ〉は戸惑った。
――入寮だけでなく面会日までお父様が?
前世での公爵は一度もここを訪れなかった。兄も同様で、母のみがごくまれに会いに来てくれたことがある。おそらく愛人との逢瀬の時間までの暇つぶしだったろうが。
それが今は娘を愛情込めて抱擁し、親しげに語り合っている。目の前の光景は、〈デルフィーヌ〉の中で既視感を伴って記憶を引き出した。
前世で毎週、面会に訪れていたのはロシニョール男爵だった。今のダイグル公爵親子のように、いやもっと露骨にべったりと面会を楽しんでいた。それを眺めながら殿方に媚びを売るのだけは一級品だと取り巻きとあざ笑った。
ダイグル公爵は娘を馬車に乗せると修道院から出て行った。付き添いと事前申告があれば外出や外泊が許される。
――これも毎週のように見たわ。
まるで恋人のように父親にしなだれかかり、何かをおねだりするように甘えるシャルロット・ロシニョール。それを人物を替えて再現したようなダイグル親子。
非常に不快な疑惑がデルフィーヌの中を駆け抜けた。




