吸血鬼
「くく、ふふふ、やった、ついにやった」
ご主人様の胸部を貫いて抉り取った心臓を握り潰すことに成功した彼は、耐え切れず笑声を零す。
「やってやったんだ! 俺をこんな化け物に貶めた主をついぞ殺してやった!」
今までずっと俺の心を染め上げていた憎悪一色が、歓喜に上塗りされていく。
長かった。
己が化け物に落とされてから五百年。
この時をーーこの瞬間だけを狙っていた。
彼は地べたに転がる主の頭を踏み付けて、そのまま頭蓋を踏み砕く。ぐちゃりと崩れた豆腐のように頭蓋は潰れる。
今踏み砕いた女の頭は、彼の元主人だった吸血鬼であり、同時に彼をこのような化け物にーー吸血鬼にした忌むべき存在である。
「はは……ははは……終わったんだ」
彼の心は暫しの歓喜に満たされていたが、その歓喜は直ぐに消え、次に虚しさが押し寄せてくる。
主との主従の契約はなくなり、眷属ではなくなった。だからこの身はもう自由だ。
しかし、今の彼には自由という状況には一片たりとも興味が無い。
「これで死ねる」
唯一ある彼の自由意志による願望はそれだけ。
五百年前に人間として死んだあの瞬間に、彼が望んでいたこと。
主を殺し、自らも殺すこと。
それだけが彼が抱いていた願望だった。
彼は主人様の胸に突き立てた十字の刃を掴み、そっと自分の胸に押し当てる。
「……やっと死ねる」
そして、そのまま自分の胸に突き立てて、心臓を貫いた。
「ぐふっ!」
激痛に襲われて、血を吐いた。が、それだけだった。
結論から言うと彼は死ぬことができなかった。
自刃を躊躇ったわけでもない。
むしろ自刃には一切の躊躇いはなく、喜悦をもって突き刺した。
にも関わらず死ぬことができない。
「な、に……まさか」
胸に突き立てた刃を抜き、その傷口を触って確かめてみる。
が、そこには傷などない。
自刃するという行為が幻想だったかのように、まるで何事もなく彼は生き長らえている。
「な、んで……どういうことだ」
吸血鬼は不死の存在である、と一般的に言われているが実際は違う。今彼のやったように心臓を貫けば死ぬ。
にも関わらず今こうして心臓を貫いた彼は、何故か死ぬことは無く生きている。
そのことに彼は絶望する。
「死ねない……、そんな馬鹿な。馬鹿げている」
彼はもう一度胸に刃を突き立てるも痛みだけはあるけど、一向に意識が停止することはない。
「クソ……、クソ女! この俺に何をしやがった!」
彼は憤りのあまり既に息絶えた主の死体に跨り、その腸を抉るように刃を突き立てる。
ザシュザシュと何度も何度も刺突し、主の返り血に塗れながらも彼は怒りのままに主の体を刻んでいった。
「完全な不死だと……、貴様は……この俺を……死んでなおまだ苦しめるか!」
彼は吠える。返り血に塗れ、月夜の微光に照らされながら全ての苦痛を吐き出すように吠えた。
そこで彼は目を覚ます。
「……夢か」
懐かしい夢である。
百年ほど前の話だったと彼は記憶しているが、そこら辺はもはや曖昧。吸血鬼として生み出されてから六百年程度、彼は月日の計算をほぼしてはいない。
途方もない時を生きる吸血鬼にとって、時の計算をすることなどは精神衛生上よろしくはない。
なので彼は、吸血鬼としての記憶はあるもののそれが何年の何月何日に起きたかどうかまでは記憶には止めてはいない。
彼は棺桶の蓋を開けて、起き上がる。と、目の前には阿鼻叫喚の地獄の荒野が広がっていた。
見上げれば黒い雲に覆われた空、見下げれば膨大に溢れる死の数々。
そこは戦場だった。
死に満ちた戦場だった。
「羨ましい限りだ」
目の前のその光景を見た感想である。
とても羨ましい。
互いに狂ったように殺し合い、命の奪われる限りに闘い続ける。
そんなこと彼にはできない。
今の彼に出来るのはただ一つ。
「俺もそろそろ混ざるか」
目の前のそれらを雑草でも踏みつけるかのように惨殺することだけ。
自分の実力と拮抗し、命尽き果てるその瞬間まで闘うということが物理的にできなくなった彼は、少しでも死の近い場所にいることだけが楽しみになったのである。
たんと棺桶の中から飛び出して、荒野を駆け、彼は戦場へと突っ込んだ。
一方的な虐殺が今始まった。
死神。
戦場を駆け抜け、戦争に跋扈する彼のような死を齎すだけの存在を指し示すのにこれ以上最適な呼び名があるだろうか。いや、他にはない。
無論、彼は一介の吸血鬼に過ぎず、神などと大層なものでは決してない。
「あははははーーーーっ」
笑いながら彼はその爪と牙を使い、死を量産していく。
時折、明後日の方向から炎の塊が降り注ぎ、彼の元で弾けるも、しかし彼の命を奪うには全く足りず、一片のダメージすらなく、ただ爆炎だけを巻き上げるに終わる。
人体ならば間違いなく吹き飛んでいるはずのダメージですら足止めにもならないそのどうしようもない現実に、とうとう戦意を喪失するものまで出てきた。
「……化け物」
ぽつりと誰かがそう言った。
その通りである。
彼は身も心も化け物に成り果てた。
「ああ、その通りだ。だが、悪いのは貴様らだ。貴様ら人間がもっと強ければ俺は既に死んでいたはずだ」
完全な八つ当たりである。
自らの主を殺した後に自らが死ぬ事ができないのだと悟った彼は、この百年余り死を求めて戦争をさまよった。
それはまるで無垢な子供が母の温もりを求めて右往左往するかのようにただただ戦争の中に身を投じ続けた。
その結果が今の彼である。
「俺を殺す事のできないゴミ共に生きてる価値なし」
彼は言い、近くの兵士の首を掴み、引きちぎり、それを喰らった。
その姿は人間のようではあるが、やはり人間ではなかった。