不思議の国の
-おはようございます、調子はどうですか。
「おはようございます。近頃もよく眠れていますよ。では、よろしくお願いします」
-よろしくお願いします。しかし外はずいぶん暑そうですね。
「暑いですよ、今日は。今年初めての三十度越えらしいです」
-今年の東京は梅雨が来ないまま夏になってしまうんでしょうか。
「今年に限ったことじゃないですけど、最近は変な天気が続いているように思いますね」
-やっぱり、地球温暖化が関係しているんでしょうかねえ。
「どうなんでしょう。どこまで温暖化が進んでいるかも判らないし、それについての節を全部把握している訳でもないですし。知ってます? 地球温暖化って、人間のせいなのかも判らないそうですよ」
-へえ、そうなんですか?
「地球の環境そのものの転換期だという説もあれば、太陽が関係しているっていう説もあるそうですよ。でも人間が空気や海を汚しているのは明白なので、エコやらが流行っているんでしょうね。汚したことで何が起こるかも判らないそうですし、判らないものだらけですね」
-確かにテレビなどでは、決めつけではないですけれども、物事を断定的に言っている印象は受けますよ。やっぱり、人は簡単に答えが出てくるものを選ぶんでしょうね。
「僕もその通りだと思います。やっぱり仕事柄、そう思うんですか?」
-そうですね、ここに来られる人は特に、どうしても簡単な答えに直行してしまいますから。主観ですけれども、これは人間全般に言えることだと思います。
「なるほどなるほど」
-さて、ちょっといくつかの質問をしてもいいですか?
「どうぞ」
-はい。ではまず、この一か月間の様子について聞きますね。この一か月間、いつも通りでしたか?
「そうですね。いつも通りでした。そうだ、大学で何人か新しい感じの人を見かけました。少し驚きましたが、目立つ事柄といえばその程度ですね。昨日の朝食は食パンとコーヒー。昼食はコーヒーのみで、夕食はチャーハンと味噌汁だったかな」
-はい、ありがとうございます。相変わらず受け答えがしっかりしていますね。混乱もしていないようですし。
「そうですね。この状態を少し楽しんでいるというのが本音かもしれません」
-楽しんでいる、ですか。それはすごい。良いことなのか悪いことなのかは判らないですけれども。
「はは、確かにそうですね。ああ、でもちょっと語弊があるかもしれないです。少し楽しんでいる反面、やっぱりそれなりに恐怖感はありますよ。昔の頃に比べれば余裕は生まれていますが」
-彼らは、何かしら変わってきていますか?
「うーん、そうですね。少し変わってきました。形がよりはっきりとしてきたという感じでしょうか。なんというか、今までおぼろげだった表情がよく見えるというか」
-ちょっと難しいですね。もう少し聞かせてもらってもいいですか?
「言葉にするのが難しいんですよね」
-簡単な言葉でいいんです。
「ええと、そうですね。今までは相手が何なのかほとんど分からなかったのですが、今はちょっと分かるようになった感じですか。私が相手を真っ直ぐ見ることができるようになったからかもしれません」
-その結果、彼らの表情や感情が分かるようになった?
「そうですね。彼らの感情が、いえ、それよりも彼らの特徴が明確になったのかと思います。一人一人違う特徴が」
-なるほど。じゃあ次の質問です。やっぱり彼らはどんどん増えていますか?
「はい。じわじわと増えていると思います。数が、というより、質が、と言った方が正しいかもしれません。もう既にほとんどそうですからね。これは前にも言ったと思いますが」
-そうでしたね。思い出しました。
「正直、よくなっている気配は全くと言っていいほどありません」
-ふむ。
「すいません。今日はちょっと早いですけど終わりにしてもいいですか? 用事があるので、そっちに行かないと」
-分かりました。では今回も少し違う薬を混ぜてお出ししますね。何かありましたら、またおいでください。
「ありがとうございました。またよろしくお願いします」
-こちらこそ。ではまた来月、お待ちしています。
四年前までは全く変わっていなかった懐かしい駅はすっかりその形を変えていた。
たった一つしかなかったぼろぼろのホームは、いつの間にか高架線の真新しい駅になっていたようだ。戸惑いながらも、急行電車からゆっくりと降りた久川栄吉はぐるりと辺りを見回した。どうやら降りる駅は間違えていないらしい。
どうせなら、もっと早く変わってくれればよかったのに。
そう思いながらも久川はしばらくきょろきょろともの珍しそうに周りを見ていたが、何かを思い出したのかそそくさと改札へと向かっていった。
改札を出てすぐの待ち合わせ場所に着くと、辺りは閑散としていた。駅前の店は既にシャッターを下ろしており、改札を通り過ぎていくのは疲れた顔をした会社員だけだ。時間が時間だからだろう。もう夜の十一時を五分過ぎている。
銀色に鈍く光る時計を外し、汗ばんだ手首を軽く回す。これでビール一杯分ゲットだな、そんなことを考えながら待っていると、改札から出てきた背の高い黒髪の若い男が目に留まった。黒いジーパンを履き、茶色のパーカーを羽織っている。パーカーは閉じずに開け放ち、そこからは海外の絵本に出てくる犬の絵がのぞいている。
「おう久川。悪い、遅くなった」
つかつかと近寄ってきたその若い男はにこやかにそう言うと、肩に背負っていた荷物をどすんと置いた。一瞬誰だか判らなかったが、すぐさま理解する。
「鹿山か」
「鹿山ですよ。栄吉くん」
鹿山はにやにやしながら久川の驚いた顔をうかがっている。久川よりも頭一個分ほど背が高い。昔の姿からは、鹿山を見上げることなんて想像できなかった。
「いや驚いた。どうしたんだ、小鹿。こんなに背ぇ高くなっちゃって」
鹿山は一瞬きょとんとした顔になったが、すぐさま納得がいった表情になった。
「懐かしいね、そのニックネーム。久しぶりに聞いた」
少し照れくさそうな、嬉しそうな顔をしながら「成長期って怖いよ」と笑って付け加えた。
変わっていない。体の大きさや声こそすっかり大人びたものの、雰囲気は昔のままだ。高校時代の学生服に身を包んだ鹿山の姿が頭に浮かぶ。そこには小さい体でちょろちょろと机の間を走り回っていた鹿山がいた。
「予定よりもちょっと遅れるってもう連絡してあるから。さっさと行こう」
大きく伸びをしている鹿山に向かってそう告げる。
「あれ、サノは待たないの?」
「佐乃原は今日来れるかどうか分からないらしい」
「なんだ、久しぶりに会えるかと思ったのに」
鹿山は残念そうにぶつくさ言いながら、地面に置いてある大きな荷物をひょいと担ぎなおした。
「小鹿は相変わらず重そうな荷物を持ってるなぁ。昔を思い出すよ」
「二日がかりのバイト帰りだからね。もう眠くて眠くて」
そう言うと鹿山は大口を開けてあくびをした。久川はつい顔を背ける。
「あ、遅刻してきたからビール一杯奢りで」
気を取り直して笑いながらそう伝える。
「なんだよ。容赦ねえなあ」
鹿山はバツの悪そうな顔でぼやいた。
「メールで自分から言ってきた癖に、何をいまさら」
「まあ、奢るよ奢るよ。そういえば、居酒屋はすぐ近くなんだっけ?」
鹿山は観念したように両手を上げると、思い出したように質問をした。
-彼の手は、やけに大きく見えるね
鹿山の声を聞きながら、急にそんな声が耳元でふっと聞こえてきた。その落ち着いた口調を聞いたのは、もうずっと昔のことのように思える。
「ああ、確かこっちだ」
たわいのないおしゃべりをしながら、旧友が集まっているだろう居酒屋へ向かう。
しかしいくらおしゃべりに華を咲かせても、さっきの懐かしい声が頭の中で鐘のように繰り返されていた。
「栄吉い、久しぶりだなおい」
「小鹿でかくなりすぎでしょー」
「栄吉、小鹿、いいからこっち来いよ!」
遅れて到着した久川と鹿山の二人はあっという間に酔っ払い達の話のネタとなった。まだ始まって1時間程しか経っていないのに、彼らはすっかり出来上がっているようだ。あちこちから鹿山と久川を呼ぶ声が聞こえてくる。そのやけくそな声に久川は軽く返事を返すと、慌てながら荷物の置き場を探している鹿山にその場を任せ、さっさと靴を脱いでから空いている座敷に腰掛けた。
隣に座っていた昔のクラスメートが「遅かったな、久川あ。まぁ飲め飲め」と言いながら、半ば強引にグラスを手渡してくる。随分酔っているようで手元がふらふらと危なっかしい。ひんやりとした瓶を持つ彼の手を補助しながら、ビールをゆっくりとグラスに注ぐ。
彼はもう一つの自分のグラスを手に取ると「かんぱーい」と怒声のような声を上げ、久川が半分も飲まないうちにそれを一気に飲み干してしまった。
少し心配になって様子を見ていたが、彼はにやにやとしながらろれつの回らない言葉を口にすると、空のグラスを持ってふらふらと別の席へ移動していった。もうこの席の酒はあらかた飲み干してしまったのだろう。肩をとんとんと叩かれ、「久しぶり」とまたもにやけた女が声をかけてくる。離れた席でかんぱーいという怒声に似た声を背景に、久川は女に返事をしながらその名前を頭の中で探していく。
天井から吊り下げられた電球が、その淡い赤色で懐かしい顔ぶれを照らしている。久川は酔いの回った頭で彼らの顔をぼんやりと見回していた。次々に声をかけてくる旧友たちの相手をしていたらすっかり酔いが回ってしまったらしい。最近は連日忙しいので疲れているのも災いしたのだろう。身動きを取ることすら辛く、ついうとうととしてしまう。
「なあなあ、知ってる?相川のこと」
綿でも詰められたような耳が、すぐ後ろの座席からの会話を何故かしっかりと捕まえていた。後ろで話しかけている男が大きな声をしていたからかもしれないが、今の久川の耳は音の強弱すら上手く聞こえていない。
「ああ、相川。懐かしいなあ。今どこにいるのかも知らないけど、彼女、元気でやってるかな」
どうやら応じているのは鹿山のようだ。酔ってはいるものの、しっかりとした口調で答えている。そういえば、相川と鹿山はなんだかんだと仲が良かった。
ふと懐かしい景色が頭に浮かんでくる。
ざわざわとうるさい教室の中で電子音のようなチャイムが響く。先生が何か言っているようだが、生徒たちは水を得たように騒ぎながら教室を後にする。うつむきながらさっさと帰ろうとする相川に、早口で話しかける鹿山。
相川を俺に紹介してきたのも鹿山だった。久川は焦点の合わない頭でおぼろげに考えていた。
「相川さ、どこだったか、ともかく外国、そこで死んだらしいよ。自殺だって。いつのことかは分からないけど」
鹿山が凍りついたように絶句していた。「は?」と間の抜けた声が聞こえてくる。
「もっかい言って。死んだって?」
誰が聞いても判るほど鹿山は困惑していた。声を荒げないように必死に声のトーンを落としている。後ろの座席の男も少し後悔した口調でそれに答えていた。さすがに酔っぱらっていても、昔相川と仲の良かった鹿山にこういう場所で伝えるべきではなかったと思っているのだろう。
しかし久川の心は奇妙なほど落ち着いていた。
ああ、そうか。やっぱりそうなったか。ようやく、抜け出せたのか。
久川は霞がかかった視界がゆるやかに暗闇の中に落ちていくのを感じていた。そこには寂しさと羨ましさが少しずつ存在しているように思えた。
「久川さあ、最近ずいぶん相川と仲良いみたいじゃない」
授業の終わりを伝えるチャイムの音を背景に、坊主頭の鹿山が話しかけてきた。俺はずっと引き締めていた気を決して緩めないように鹿山へ向き直った。
「ああ、仲が良いっていうか」
なんて伝えるべきか言葉に詰まった。背丈に合わない大きさの鞄を背負った鹿山がきょとんとした顔で続きを待つ。
「うん、よく話すだけだよ」
別に否定することなかったな、そう思い返した。
「なんだよ、やっぱり仲が良いってことじゃん」
鹿山は子供のような無邪気な顔でけらけら笑う。
自分は高校三年生の中では平均くらいの身長だろうが、鹿山はその自分の肩ほどしか身長がない。この高校の学生服を着ていなければ、近所の中学生と間違えられても不思議ではないだろう。
底がぼろぼろになった藍色の学生鞄に教科書を詰め、今日も休んでいる相川の席をちらと見てから教室を後にした。就業のチャイムが鳴ると学校はどこもざわざわしてどうも落ち着かない。後ろから鹿山が早足でてけてけとついてくるのを感じる。
「今日も学校終わったなあ。とにかく眠い」
鹿山が自分の横に立つのを待ってから、久川は独り言のように言った。
「もう中間試験まですぐだっていうのに、まだバイト三昧なわけ?」
鹿山は半ば呆れながら言う。その口調は柔らかい。
「いいんだよ。色々とやりたいことあるんだから」
「相川とデートですか。お熱いねえ」
「そういうんじゃないって」
どうやら勘違いをしている鹿山に笑いながら言い返す。鹿山は「引き合わせた甲斐があるってもんだ」とにやにやしながら呟いた。
いつも通りに雑談を交わしながら、生徒でごった返している階段をさっさと下っていく。階段を下りると、古い靴箱のある生徒玄関から黒い学生服が次々に吐き出されていた。一人で帰る人も友人と帰る人も、皆どこか急いでいるように見える。試験間近になるたびに見てきた風景だ。
「じゃあ。また明日」
「おう。じゃあな」
そう笑いながら返すと、鹿山はにっこりと手を振って、足早に駐輪場へと歩いて行った。その後ろ姿をちらと見届け、自分も駅に続く道を歩いていく。
相川、か。
駅へと向かう学生はまばらだが、あえて人通りの少ない路地から駅へと向かう。
久川は薄暗い曇り空に向けてほっと安心の溜息を吐きながら、相川との会話をぼんやりと思い返していた。
「彼の手は、やけに大きく見えるね」
駅へと向かう途中、相川は前を向いたまま淡々とそう告げた。少し低く、穏やかな声。
「ああ、鹿山?」
「そう。彼、人をよく引きつけたり動かしたりするからかな」
「そうだね。あいつはよく人を見てる」
二人でいる時の、彼女との会話はいつもこんな感じだ。互いに互いの顔すら見ずに、ただ前を向いてとつとつと話す。
「最近、時々同じ夢を見るんだ」
「へえ」
時々、同じ夢を見る。そこは俺が見たこともないマンションだった。
そのマンションは、雑草が暴力的なほど伸び放題になっている広場にたった一つだけ、ぼつんと建っていた。元々真っ白であっただろう壁はすっかりひび割れて灰色に汚れている。もう夕方だというのに、目の前のマンションだけでなく他の建物にも灯りは無い。
俺はゆっくりとそのマンションの中へと入っていく。妙にひんやりとしているそのマンションの廊下を進んでいっても人の気配は無い。
薄暗い廊下を進むと目指している部屋がある。いつの間にか自分の中でストーリーを決め、ゆっくりとその中を進んでいく、夢とはそういったものなのだろう。自分はその部屋に進まなければならないことを確信している。
ぎぎっときしむ金属の扉を開けると、まず玄関があり、その先に細く真っ暗な廊下がある。俺はその廊下のところどころにある扉が開かないことを知っているから、そのまま奥にある寝室へと進んでいく。その寝室のドアは開け放され、やけに広い。二十畳はありそうな部屋だが、その割にはベッドやタンスといった家財道具が一つもない。どこからかぼんやりとした明かりが足元を照らし、テンポの良いかすかな音楽が流れているだけだ。
その寝室の中央で、紳士服に身を包んだ男が一人踊っている。俺はその男をよく見つめなければならないのだが、暗闇に溶け込んだ男を上手く見ることができない。男がくるくると踊っているのはワルツだろうか。音楽はブツブツと途切れているが、男はゆっくりとよどみなく踊り続けている。
俺は踊り続ける彼をただぼんやりと見つめる他ないのだが、しばらくすると暗闇に目が慣れてくる。そして男の足元から体まで見て取ることができ、そして顔の下半分が見えてくる。
彼は笑っている。口を見るに満面の笑みを浮かべている。そして、そのことに気付いた途端に目が覚めるのだ。
「それ、前に私が話した内容に似てる」
「うん。相川の話を聞いたからかもしれない。でもほんとに最近よく見るんだ」
そこで一旦会話は途切れる。そして、こういう話をした後はたいてい日常的な会話になっていくのだ。
学校の授業や来月の試験の話。今流行っているテレビ番組や新手のお笑い芸人の話。家で飼っている猫の話。やんちゃ盛りの彼女の弟のこと。クラスの友人たちのこと。
そういった、いわゆる普通の話の時は、二人とも口調はぶっきらぼうなままであるが、互いに言葉の端々で反応を伺いながら話すことが暗黙の了解となっていた。
相川とこうして帰るようになったのは高校二年生の秋からだ。その頃は違うクラスだった鹿山がいきなり引き合わせてきたのがきっかけだった。
「なんか久川に似たやつがいるんだよ」
夏も終わり半袖では肌寒くなってきたある日、一年生の頃から仲の良い友人たちと昼食を食べていると、隣に座る鹿山が弁当の肉団子を頬張りながら話しかけてきた。
「なんだ、いきなり」
たわいのないおしゃべりをしている中で唐突にそう告げられた俺は、あっけにとられて鹿山を見た。目の前に座る友人はその両隣の連中と話の華を咲かせているようで気付いていない。
「そう、そんな感じのやつがさ。まあ今度会わせるよ」
頼んでもいないのに、けろりとした顔でそう断言した鹿山は、すぐさま向かいの友人たちとのおしゃべりに入っていった。その時に詳しく聞いてもよかったのだが、気にはなりながらもそのままいつもの昼食を終えることとなった。
その放課後、一緒に帰ろうと言ってきた鹿山の脇に見知らぬ女の子が立っていた。肩口ほどの黒髪で薄いフレームの眼鏡をかけているその子は一見おとなしそうに見えたが、話してみると明るく活発で、人付き合いの良い、いわゆる年相応の元気な女の子だった。
ただ時々見せる、小さな口をきっと結んでどこか我慢をしているような表情が印象的だった。
どうやら彼女も俺と同じように電車通学をしている少数派のようだ。元々はこの高校近くに住んでいたようだが、高校入学の直前に少し離れた所へ引っ越してしまったらしい。鹿山を含めた大部分の生徒は家が近所ということでこの高校を選んでおり、当たり前のように自転車通学だったので、鹿山と別れた後はしょうがなく彼女と二人並んで駅へと向かうことになった。
明るく人付き合いの良い彼女。同じく人付き合いをよくしようと心がけている自分。
主に相川が中心となった会話はほとんど途切れることなく続いた。しかし、その会話には、なんとなく感じる違和感が油のようにぬめりと残っていたように思う。
「変に思うだろうけどさ、なんかさ、昔からさ、人が変なものに見えるんだよね」
初めて会ってから二ヶ月ほど経った時だった。俺は何故このことを相川に話したのか分からなかった。気にしないようにすればするほど、じくじくと自分の心を蝕んでいく寂しさと恐怖の感情がそうさせたのかもしれない。
ただその言葉を聞いた彼女の能面のような笑顔には、明らかに驚愕と困惑の表情が混じり込んでいた。
いつの頃からなのだろうか。物心ついた時からなのか、それとも自分が生まれた時からそうだったのか。自分が見ているものは人のそれとは違うようだった。
覚えているその一番古い記憶は、小学生の頃に友達の家へ遊びに行った時だと思う。
「あらあ、いらっしゃい。よく来たわね」
そう言いながらにこやかに話す友達のお母さんを見た時、あれ、と思ったことをよく覚えている。おばさんの頬の一部分にぽっかりと穴が空いているように見えたのだ。その穴は五百円玉程の大きさだったが、友人達もおばさん自身も全く気が付いていないようだった。
くるくると皆のお世話をするおばさんの頬にある穴を目で追いかけていると、何故か次第に気味が悪くなってくる。最初、おばさんのその穴は真っ暗で何も見えないのだが、次第にぴんと張った赤い筋がぼんやりと見えてくる。そしてその筋の奥をよくよく見ると、おばさんの顔の中身がどろりとした真っ黒な液体に満たされているように見えていった。
私はだんだんと見てはいけないものを見た気がして、なるべくおばさんを見ないように心がけた。それ以来、その優しそうなおばさんの顔を見ることが怖くなった。
そして次第にどんな人の中にも似たようなものを見るようになった。中学生にもなるとそれが顕著であったように思う。
例えば、授業をしている先生だ。国語の教師だった彼の話はとても面白く、彼の授業だけは居眠りをする人が少なかったほどだった。
目をきらきらさせながら楽しそうに話をするその先生の授業は、話を聞いている私たちも不思議と楽しくなってくるものであったが、私はそのうち彼の両目にぶよぶよとした肉のようなものが覆いかぶさっているのを見つけるようになった。
そしてそれを前兆として、彼の体の変化が始まる。生徒たちに話を聞かせながらぶんぶんと振り回している彼の腕はあっという間に長くなっていき、その先についている掌も顔の倍ほどの大きさになっていった。同時に、興奮して喋り続けている彼の口もじわじわと裂けていくように大きくなり、最後には顔の半分を占める大きさになっていった。
そのような変化は、友人達やすれ違う人、家族にもよく表れるようになった。
ぶよぶよとした肉のようなものが顔中にへばり付いている人、ぶつぶつと顔に無数の穴が空いている人、腕や指がいやに長い人、手足が顔をはるかに超える大きさになっている人、口が太い糸のようなもので縫い付けられている人、やけに口が尖っている人、目が額まで極端に吊り上っている人、仮面のようなものを被り涙を流している人、顔の半分ほどもある巨大な口でいつも笑っている人、顔の皮がおじいさんのように垂れ下がっている人・・・。
その姿は私が年齢を重ねる毎に、より複雑に、よりグロテスクになっていった。そしてそれに比例するかのように、彼らが変わっていくスピードも、それらに対する恐怖心や好奇心も次第に増していった。
彼らはいつもそのような形をしているのではなく、自分が彼らと会話をしたり、じっと様子を見ている内に変化していくようだった。何かがいつの間にか彼らにそっと取り付き、じわじわとその体を侵食していくかのように見えた。私は鏡をじっと見ていると自分の顔もおかしくなっていく気がして、次第に最低限の回数しか鏡を見なくなっていった。
私はそれらを見る恐怖と常に戦わなければ、そして逃れる方法を探さなければならなかった。高校生になると家庭の事情もありバタバタと過ごすようになったが、それでも人が近くにいるのなら気を抜いて生活する訳にはいかなかった。
高校一年生の夏、友人と話していたことを思い出す。連日の暑さとじめじめした湿気。そして満足に寝ることもできない家の状況も重なってか、疲労はピークに達していた。
「だいじょぶ?顔色悪いけど」
休み時間のざわついた教室の中、目の前に座っているその友人は心配そうな声で聞いた。
いつの間にか疲労が顔に出ていたのだろう。座っているとそのままうつぶせになりたくなる。じっとりとかいた冷や汗をハンカチでぬぐい、目にかかった髪をかきあげて返事をしようとした。
「ごめん、ちょっと疲れててさ。大丈」
疲れた顔をあげて返事をしようとした私はつい正面から彼女を見つめてしまっていた。中途半端な言葉が不自然に途切れる。そこには顔の上半分に無数の大きな目が散りばめられ、ギョロギョロと周りの様子を窺っている友人の姿があった。
「うわうっ」
恐怖に駆られた私は奇妙な声を出しながら後ずさりをした。急に席を立ったために、椅子がガタッと後ろの机にぶつかる。悲鳴に近い声と椅子の激しくぶつかる無機質な音を聞きとがめたクラスメートが、何かあったのかとこちらに注目している。目の前に座る友人の異様な顔はあっという間に元通りに戻っていった。
「あ、ごめん。なんか、その、夢でも見てたみたいで」
自分のうわずった声を聞きながら、出来うる限りのにこやかな笑顔でそう言った。きょとんとしていた友人は「えー、ほんと大丈夫?」ともう一度心配そうな顔をしていたが、私はもう目を合わせることが出来ずに俯きがちに頷いた。
それからは、自分の中に新しいルールを付け加えた。
出来る限り人の顔を見ないこと。常に気を張り続け、弱みを見せないようにすること。
これ以上彼らを見つめ続け、そして彼らに見つめられることは無理だと悟った私は、可能な限り彼らを見続けないように努めた。
彼らを見ないようにする。それでいて活発に。表面的には人付き合いを続け、不自然さを際立たせないように。
私はなんとなく、この先の自分の未来のことを考えた。この先、私はいずれ耐えられなくなるだろう。そう確信しながらも、私は恐怖から逃れる方法を自ら決め付け、ただただそれに従っていくのだった。
「この前さ、長崎にちょっと出かけてきたんだ。干拓の里っていう場所なんだけどね」
「へえ、また旅行? 今回の試験はずいぶんと余裕だったんだね」
相川はくすくすと笑いながら話の続きを待っている。
俺と相川はファミリーレストランの奥まったテーブル席に向かい合って座っていた。学校の中間試験が今日で全て終わったので、早めの夕食を取りに来たのだった。今日は土曜日なだけあって店内には着々と人が増えてきている。子供のはしゃぎ声と店員の歓迎の声が重なり合って随分と騒がしい。
「お待たせいたしました、スペシャルドリアでございます」と彼女の前に注文していたドリアが届けられた。
「ワラスボって知ってる? 『エイリアン』のモデルになった魚なんだけど、ワラスボの料理があったから食べてきたんだよ」
湯気の立つドリアを美味しそうに食べていた相川が答える。
「そんなのいるんだ。エイリアンってあのエイリアン?」
相川は興味を持ったようにこちらをちらりと見た。しかしその仕草以外には、相変わらず目を合わせようとしない。
俺は気にせずに彼女の顔を見て続ける。
「そうそう、あのエイリアン。ワラスボってたいてい有明海で取れる魚らしいんだけど、見た目がまんまエイリアンで深海魚みたいな形してるんだよ」
たらこのかかったスパゲティをもぐもぐと食べる。それを飲み込んでから、こんな大きさだった、と両手の指で5センチほどの形を作った。
「へえ。深海魚っていうと骨ばっかりなイメージがあるけど、美味しかったんだ?」
「干物だったけどおいしかったよ。バリバリと丸ごと食べたから骨はあんまり気にならなかったなあ」
「日本人がそんな魚をバリバリ食べてる姿を見たら、また外国人の持つ日本人の印象が改まるわね。ええと、『エイリアン』の監督はリドリー・スコットだったっけ。彼もさぞかしびっくりしたんだろうな」
「そうだね。食用の魚を異星人にしちゃうんだから。見た目はともかく食べてみると結構美味しい魚だし、きっと『エイリアン』の監督はワラスボを食べなかったんだろうね」
「好き嫌いは人それぞれってことか。でも食わず嫌いでエイリアン扱いはどうかなあ」
淡々とこんな話をつづけながら食事を続ける。
ドリアを途中まで食べた彼女はスプーンをかちゃりと置いて、水を一口飲んだ。
「ねえ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
たらこスパゲティを食べ終えてデザートでも頼もうかとメニューを見ていた俺に、相川が神妙な顔で言った。
「何?」
そう言って彼女を見ると、彼女は口をきっと横に結んで真っ直ぐにこちらを見つめていた。彼女がこういう風に目を見て話すのは珍しい。
「なんで私たちだけ人を変に見なくちゃいけないの?」
眼鏡の奥の深く強い瞳がこちらを見つめていた。俯かず、目を逸らさずにじっと俺の目を見据えている。それは俺の考えや意識を見逃さずに捉えようとしているように見えた。
「わからない」
今はそうとしか答えられなかった。なんとなく自分にとっての答えは考えついていたが、それをこの場で伝えるべきなのかは今の自分には分からなかったのだ。
彼女はしばらくじっと俺の目を見続けていたが、そのうち何でもないことだったかのように頭の後ろで指を組み天井を仰いだ。
「わからない、かあ。私もどうすればいいのか、わからないなあ」
彼女はゆっくりと笑いながら独り言のようにそう言った。
相川が家庭の都合で引っ越していったのは、それからわずか一週間ほど経ってからだった。
それから相川とは一度も連絡が取れていない。
教師にそれとなく引っ越し先を聞いても「遠い場所だ」としか答えなかった。彼女が口止めでもしたのだろうか。しかしどちらにしても、俺は理由どころかその真偽すら確かめる術を持ってはいなかった。仲の良かった鹿山でさえ彼女の行方を知らず、むしろ俺がそれを知らないことに驚いていた様子だった。
そうして、相川は出来る限り痕跡を残さずに俺達の学生生活から消えていった。
一時は心無い噂がクラスの中で飛び交っていたが、少し時が経つとクラスメートたちは大学受験に追われて彼女のことなどあっという間に忘れていったようだった。
-私もどうすればいいのか、わからないなあ
無事に大学の入学を終えても、彼女の言葉は太い棘のように頭の片隅に残っている。
俺が彼女に何かしてあげることはできたのだろうか。彼女は一体何と言って欲しかったのか。怪物なんていないと優しく言い聞かせれば良かったのか。ただ話を聞いて受け入れればよかったのか。
彼女のことだ。俺がこれらのことに気付いているのであれば、彼女も当たり前のように気付いていたことだろう。そして、そんなことには何の意味もないと、それらが単なる気休めでしかないと、きっとそう気付いていたに違いない。
いや、そもそも俺は、彼女と同じものが本当に見えていたのだろうか。
彼女はただ怖かっただけだったのではないか。
それなら何か行動に起こすべきだったのだろうか。
この感情は後悔なのだろうか、それとも安堵なのだろうか。
淡い赤色に包まれたがやがやと騒がしい座敷の中、閉じた目の内側は急速に黒色の中へと落ち込んでいく。
古びたマンションの灰色の壁。きしむ扉をゆっくりと開けると、どろりとした暗闇の奥から、ほのかな明かりと、途切れ途切れでテンポの良い音楽が聞こえてくる。
その薄明りの中の女性は、相変わらずとても嬉しそうな口元でただ一人くるくると踊り続けている。
しかし彼女の決して見ることができない顔の上半分は、ただただ音も無く泣いているように見えた。