第一章 旅立ちは突然に
「旅をしてみたい」
このような夢を持ち、どのようにすれば旅立てるか思い、実際に飛びだしてみた人間というのはどんな気持ちだったのだろうか。
国境にそびえる山岳地帯、そこにへばりつくように存在する人の村、空気は薄く作物も育たず、牧畜と薬草の栽培を行い、ふもとの村へ持ち込み食料と交換して山へ戻る。そんな世界もあるだろう。
果てしない海を眺める海岸地帯、そこにしがみつくように存在する人の営み、漁師として生計を立てる人々だっているかもしれない。
そのような夢想を抱きながらも日常を繰り返す者の多くは、身の丈に合わぬと淡々と仕事をこなすことだろう。しかし、それでも無謀な夢をみるものはいるのである。
第一章 旅立ちは突然に
「なぜ、旅をしているのか?そんな質問を受けたのは初めてじゃが・・・特に目的があってのことではなかったのぅ」
そういうと老人は遠くを眺めるように、過去を思い出そうとしていた。
「生まれたときからすでに旅をしておったようなものじゃからのぉ・・・幼い時はまだ、この国は戦後間もなかったし、それにこの容姿じゃ、色々と迫害も受けてきておるからな・・一ヶ所にとどまるということもできんかった」
それを聞いて私は改めて老人の顔を見る。大きな鼻、茶色の瞳、白銀の髪に白い髭、手足は大きいが身長はそれほど高くはない。現代人から見れば特には違和感はないが、当時の人たちから見れば大きな驚きと恐怖であっただろう。
今は髪や瞳の色なんぞスプレーやカラーコンタクトでどうにでもなる時代だ。黒目・黒髪じゃなければ日本人ではないなんて言えはしない。
「生きるだけで精一杯の時代じゃからの・・・お主たちにはわかるまい・・しかも、儂の場合は四分の一ロシア人、つまりはクォーターというやつじゃな」
老人はそう言うと酒瓶を取り出しチビチビの飲みだした。
「普段はあまり飲まんのじゃが、聞いてくれるならそれもまた嬉しいこと。人は孤独な生き物ではあるが、友ができればそれはまた素晴らしいことじゃよ・・・そうそう、儂の祖母がロシア人でな、遠い北の国・・・凍てつく大地、吹雪の山から嫁いで来たらしい・・・この暑い南の国へ」
老人は目を閉じ、深く深く自分のルーツを探っているようにゆらゆらと揺れていた。
「儂が物心ついた頃には祖父と祖母は別離しておったからな・・・詳しくは知らん。じゃが多分戦争のせいじゃろう、母国が敵同士になってしまった以上一緒におることは危険が伴うからの・・・戦が本格的になる前に強制退去か自主避難か、そんなところじゃろうて・・・」
老人はため息をつき、過去の思いを馳せていた。
「何をどうやって生きてきたのか・・・全くわからん時代じゃった。多くのものが親を失い、路上には浮浪者が溢れそこかしこで貧困と苦しみ、悲しみが渦巻いておった」
老人はうっすらと目を開け私に微笑み、うなずきながら語りかけた。
「じゃから儂は旅をしておるんじゃと思うよ」
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「ありがとうございました。色々とお話を聞けて楽しかったです」
僕はそう言うとその老人にお辞儀をした。
老人は立ち上がり、握手を求めてきた。
「儂の話を聞いてくれてありがとうよ・・・楽しい時間を過ごせたのは私も同じ、いつか君の旅の話を儂にも聞かせてくれるのを楽しみにしているよ」
深い皺に刻まれた眼がまっすぐと僕を見つめてくる。
僕はその目をまっすぐに見つめ、こう答えた。
「もちろんです、僕はもう、旅人ですから」
そのときぼくらは固い握手をし、そして僕は旅人になった。