3.ザーハネスの森
アルクトッデ国の中でも、人が入り込めず野獣などの住処と知られるザーハネスの森。
巨大な木々に空は覆われ、昼間でも森の中は薄暗い。危険な野獣がごろごろといるため地元に住人などは決して足を踏み入れないが、森には貴重な薬草や魔力の回復する泉があるといわれ、それを求めて入り込む冒険者たちは後を絶たない。森に入った半数は無事では帰らないと言われる森に、今日も無謀な冒険者が一人、野獣の気配を巧みに避けながら森の奥へ入り込んでいた。
薄汚れたローブを頭からかぶり、あたりを警戒しながらゆっくりと進んでいく。ローブには隠匿の魔法がかけられているものの、野獣たちには感が良いものもいるので安心することはできないのだ。冒険者は何かを確認するようにゆっくりとあたりを伺う。そしてこのあたりでも一番大きな巨木へと向かっていった。その根元には、薄いピンク色の花が咲き乱れていた。調合すれば魔力が回復すると言われる効果を持つ花は、この森に入って三日、ようやく見つけることができた。冒険者は花の部分だけをいくつか採取し、根などを決して傷つけないよう細心の注意を払う。この場所を覚えておけば、また花が咲くころに取りに来ることができる。
(しかし、三日か………この森の危険度を考えると決して効率の良い方法ではないな)
だが、金銭的に余裕がない懐では、薬草や魔力を回復する薬は自前で作らねばならない。幸い宿に泊まるお金はあるので、徹夜をして薬を作ればいくつか薬屋へ売りにいくこともできるかもしれない。
(やれやれ、実入りが目的のこれしかなかったことも痛いが仕方がない。さっさと撤収するか)
もしかしたら、別の効果のある薬草なども見つかるかもしれないと思っていたが、現実は甘くない。野獣たちと出会わない幸運に守られている中、森を出ようと来た道へ歩き出そうとしたときだった。一瞬だが、魔力の気配を感じた。とっさに野獣かと身構えたが、それらしき気配や声が近づいてくる気配もなく、森は静寂に包まれている。
(今のは………?)
かさりと風に揺られ、足元の草がカサリとなった。
自分が安全ではない森の中にいることを思い出し、足を動かそうと思ったが、どうしたことか足は先ほどの魔力を感じた方向へと行こうとしている。命と好奇心を天秤にかけるきかっ! と内心突っ込むも好奇心は勝手に体を動かしていく。なるべく音をたてずに歩いたつもりだったが、思った以上にがさりと音が鳴った。それに驚いたのは相手も同じだったらしい。
服だけでなく、顔にも土をつけて呆然とこちらを見ている子供。震える手には、護身のつもりなのだろうか、木の枝を握りしめていた。みたところ、森に入る装備は何も身に着けておらず、まるで死ぬためにこの森に入ったようにも見えた。しかし、死ぬためなら、あんな枝をいつまでも持ってはいないだろう。怯えながらも、睨みつけたりしないだろう。
お互いを見据える緊張感を、獣の鳴き声が破る。はっと身構えた冒険者の前に、数頭の獣の姿が見えた。この森に住み着いている野獣は、獲物が増えたと喜んでいるようだったが、彼らの餌になる気は毛頭ない。ローブの中から取り出した杖を構え、冒険者は風の言葉を紡いだ。
◇◇◇
(一体何が起こっているの?)
司は小刻みに震える拳を反対の手で隠すように握りしめながら、獣たちと相対する人物を見ていた。
彼が、言葉を発した声から男性と察する人物が杖のようなものを突き出すと、それまで音のなかった森がざわめきだす。自分をいたぶるように追いかけていた獣たちはいっせいに警戒態勢をとり、喉の中で唸り声を発しながらも近づいてこようとしなくなった。一体何が起ころうとしているのか、司には全くわからなかったが、助かる可能性があることだけはなんとなくわかった。
気が付けばこんな見知らぬ森で、見知らぬ場所で、おまけに何が起こったのか全くわからない状態で死ぬのだけは絶対にいやだった。自分をかばうように立っている彼が味方なのかはわからない、ただ今は助かる可能性にすがるしかなかった。
バシィンと空気が鳴るような音が響き、それに獣たちは驚き散っていく。司がほっと息を吐いたが、突然男の手が彼女の肩を掴んだ。
「逃げるぞ!!」
「へ?」
「あいつらが戻ってくる前に、とっととここから離れる!!」
奴らを追い払ったんではなかったんですかい!?
そんな問いかけをする前に、彼はあっという間に司の視界から消えようとしていた。
「ま、待ってよ!!」
こんなところでおいていかれるなど、とんでもない。司はわけもわからぬまま、一度も振り返らず森の中へ消えようとしている男の背を必死で追いかけて行った。だが、慣れない森の中、今まで逃げていた疲労感からか、足がうまく動いてくれず、男の背はどんどん遠くなっていく。
(待って……!! おいて行かないでよ!!)
司は必死に走った。
もつれる足を必死に動かし、こんなに走ったことのない体を叱咤しながら。しかし、彼女の意思とは裏腹に、体は限界の悲鳴を上げ司は木の根に足を取られ全身を地面に打ち付けるように転んでしまう。
「いっ……!!」
胸に木の幹があたり、呼吸が止まりそうになるほど苦しかった。
なんで自分がこんな目にあっているのだろう、こんなところにいるのだろう。それはこの森を目にしてからつねに抱いている疑問だが、それに応えてくれる声はない。
ざわざわと暗い森が不気味に鳴る。今は、虫がたてる羽音やどこからか聞こえる鳥の声さえ恐ろしい。
怖い、怖い、怖い。
溢れだしそうになる涙を必死でこらえながら、顔についた泥をぬぐうことさえ忘れて、司はその場に座り込んでいた。早くこの森から出なくてはいけない。しかし、ずっと獣から逃げ続け、精神的にも限界にきていた司の体は彼女の意思とは別物になったかのように動いてくれなかった。
「なんで……」
私がこんな目に合うの?
私が何をしたの?
こんなところで自分は死ぬのだろうか。こんな場所で、こんな何もないところで。
「おい! 怪我でもしたのか?!」
「え……」
突然肩を引かれ驚いた司が見上げると、そこには先ほど見失った男が戻ってきていた。何故彼がこんなところにいるのかわからず呆然と見上げていると、男は苛立ったように司の体を容赦ない力で引き上げる。
「いっ……」
「怪我がひどくないなら、我慢して走れ。走れなくてもできるだけ早く歩け。この森に住む獣たちに喰われたくなければ足を止めるな!」
男の厳しい言葉に司は歩けないという弱音を飲み込んだ。もともとの負けず嫌いの性格が、動かなくなっていたはずの体を再び奮い立たせる。
(こんなところで……誰が死ぬかっ!!)
司の目をみて安心したのか、男は彼女の腕から手をはずし急ぎ足で歩いていく。司は足元をふらつかせながらも今度は男において行かれまいと必死に彼について行った。やがて木の根が岩のように地面から突き出し、普通に歩くのが困難な場所に出たところで男の歩みが止まる。
「ここまで来たら大丈夫だろう。しばらく休むぞ」
男の言葉を聞いた途端一気に気が抜け、司は自分の体から力だけでなく気力もすべてなくなってしまうのを感じながら、その意識は闇の中へと消えていった。