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千年世界録  作者: 氷室冬彦
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9 黒と緑と再会に傷

「それは災難だったね。少なくともロアさんにとっては」


 うんざりした様子で昨日の出来事を話すロアに、相変わらずの柔和な笑顔でセルが言う。特別談話室にはセルとリーズがやって来ていた。


「セレイアくんもダウナくんも、ときどきそういうところがあるからね。ダウナくんはただのうっかりだし、セレイアくんは忙しくての見落としだから、二人ともスケジュール管理を手伝ってくれる秘書の人でもいればね」


「たしかセレイアさんは以前に少しの間だけ秘書さんを雇っていましたよね。長くは続かなかったみたいですが」


 そう思い出すリーズにセルが首をかしげる。


「どうして続かなかったの?」


「情報漏洩未遂があったんですよ。機密事項ではなかったことや、すぐに気付いて情報が外部に渡る前に対処できたので、大ごとにはならなかったのですが、それで人間はやっぱり信用できないと……」


「セレイア国はなんだってあんなに物騒なんだ? 人界の悪意をすべて寄り集めたかのように悪いことばかり起こるじゃないか」


「仕方ないよ、化身がああだもの。みんな大なり小なり化身それに似てるんじゃないかな。でもセレイアくんも大変だよね。いつも思うけど働きすぎだよ」


「いつも暇してる私や君と比べればね。最近はセルーシャも落ち着いているのかい?」


「そうだね。ここしばらくは天候も安定しているし、僕が動かないといけないほど緊急を要する報告はあがってないかな」


「セルーシャさんのところも、セレイアさんのところとは違った意味で物騒ですよね」


「うちで起こる事件や事故は魔獣の被害と自然災害とがほとんどだね。セレイアくんやリーズくんのところみたいに大きなテロが起きたりはしないから、人間が起こした事件の報告は少ないんだけど」


「僕のところって、他のみなさんと比べてテロ事件が多いんですか?」


「特別多いとは思わないよ。ただ、私やセルのところではほとんど起こらないからそう思うんだろう。他国にまで聞こえるほどの大きな事件がそれ以外ではほとんど起きていないということさ」


「普段は平和なのに、ときどき溜まっていたものが爆発するみたいに過激な事件が起こるよね」


「人間のみなさんって極端な人が多くないですか?」


「それはきっと国民性なんだよ」


化身きみに似たんだろ」


「ぼ、僕ってそんなに極端ですか?」


「極端というか、ときどき急に思い切ったことをするね、リーズくんは。見ていておもしろいから君にはそのままでいてほしいな」


「それが国内の治安に関わるのなら、そういうわけにもいきませんよ……」


 そのまましばらく談笑していると、あるとき遠くのほうでリンの声が聞こえた。開けたままにしてあった部屋の扉の向こう、どこかあわてたような声だ。ぱたぱたと走りまわる足音も聞こえ、なにかあったのかと立ち上がり廊下に出る。


 ちょうどそのとき、廊下を走ってきた郁夜がロアにぶつかった。


「うわっ」


 衝撃でうしろに転倒しそうになる郁夜の右手を掴んだ瞬間、ロアは眉をひそめた。郁夜の手は濡れており、覚えのあるぬめりを持っていた。郁夜は左手で押さえた頬から首、襟、胸のあたりまで赤く染まっており、両手ともべっとりと血で汚れている。


「郁、それはどうしたんだい」


「あ――う、わっ」


 ロアを見て郁夜がうろたえる。今までおとなしくじっとしている印象だった彼は、明らかに動揺しながらあとずさった。


「怪我をしたんだね、すぐに手当てを――」


 言い終えるより先に郁夜はロアの脇を走り抜けて逃げていった。ロアは一度談話室に戻り、リーズとダウナに一声かけてからあとを追う。


「ジオ」


 呼びかけに応じたジオが隣に現れる。


「郁はどこに?」


「――三階だ。リンが手当てに必要なものを取りに行っている」


「わかった」


 三階までひと息に駆けあがる。郁夜はすぐに見つかった。ロアの走る速度は郁夜より数倍速い。郁夜が礼の部屋に駆け込んでいくのが見える。ロアとジオが部屋の前に到着したとき、部屋の内側で鍵のかかる音がした。


「郁、その怪我はどうしたんだい? 礼、いるんだろう。鍵をかけても無駄だよ。無理矢理入られたくなければ自分から開けなさい」


 ロアであれば扉を蹴破ることは容易く、ジオであれば空間転移で直接部屋に入れる。二人の――とくにジオの前では鍵など無意味だ。部屋の中でばたばたとあわただしい物音が聞こえるが、返事はない。ジオが扉の鍵穴に手をかざすと、内側でカシャンと鍵のまわる音がした。鍵穴内部の空気を操って開錠したのだ。


 扉を開けると、礼と郁夜がうしろになにかを隠すようにして立っていた。足の隙間から二人の背後にあるものがわずかに見えている。引っ張り出したベッドシーツをなにかにかぶせているらしく、そのなにかがシーツの中でもぞもぞと動いているのがわかる。


 救急キットを抱えたリンがうしろから追いついた。


「ちょっと郁! あんたその怪我はどうしたのよ!」


「い、いや、これは……」


「話の前に手当てを。リン、頼めるかい」


「わ、わかったわ。血が結構出てるみたいだし、縫わなきゃいけないかもね。ちょっとジオ邪魔よ、どいて! 突っ立ってないで水と布でも持ってきなさいよ!」


 前に立っていたジオの背中を叩いて押しのけながらリンが郁夜に駆け寄る。すると、礼と郁夜の背後でうごめいていたシーツの下から小さな子どもの手が覗いた。その手は自分自身を覆っていたシーツをわずらわしそうに引きはがす。


 中から出てきたのはパーカー姿の黒髪の少年だった。礼と郁夜がわあ、と声をあげながら少年にシーツをかぶせて隠そうとする。しかし少年は大急ぎで二人のうしろを飛び出すと、一目散にジオに駆け寄ってしがみついた。


「お兄ちゃん!」


 ロアとリンは顔を見合わせ、そして同時にジオを見る。二人の声が重なった。


「……お兄ちゃん?」


 ジオは困ったようにため息をついて頭を掻いていた。

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