8 青と白の頭上と地上
ふと顔をあげて上を見ると、木の葉の隙間から青い空が覗いていた。風に合わせて木漏れ日が揺れる。葉擦れの音はどこまでも軽快で、土の上に積もって残ったままの朽葉が踏みしめるたびに湿った感触を伝えてくる。歩き慣れない森の中を昨日の記憶と郁夜との掛け合いとを頼りにしばらく進んでいくと、やがてひらけた場所に辿りついた。
そこにあったのはひとつの泉だ。蒼く澄んだ水が陽光を白く照り返しており、その光が近くの木の葉の裏に水面の網目を映している。大きな溝に水が溜まっただけの、大きな水たまり。水は濁っていて、微生物の死骸が所狭しと浮かんでいて汚い。泉や湖と呼ばれるものは、所詮その程度のものだと思っていた。しかし水溜まりとは、ここまで幻想的で美しいものだっただろうか。
ラウの森は木が多いもののそれほど深くなく、昼間であれば暗さなどはほとんど感じられない。地面はでこぼこしていて歩きにくいが、それは単に、礼にとってこの道が慣れない道だからというだけで、数日でもここに入り浸って遊んでいればすぐになんとも思わなくなるだろう。
泉のほとりに自分たちよりもひとまわり小さな背中がうずくまっているのが見えた。黒髪に黒い服を着たそのうしろ姿に、いつもロアの近くにいるジオ・ベルヴラッドという少年の姿が脳裏をよぎる。隣を歩いていた郁夜が前に出て、その少年の肩にぽんと手を置いた。
*
「おや、彼はまたなにか解決したみたいだね」
ロアが報道誌を広げながら言う。視線の先にある見出しには、長らく未解決のままで迷宮入りしかけていた殺人事件が、一人の名探偵の活躍によって完結を迎えたことを報せる旨が記されている。
「おい、てめえ仕事はどうした」
「おあいにくさま、自分のノルマは終わらせたよ。お前の政治も君主制をやめれば今より仕事が減って楽ができるぜ」
「ロアさん、報道誌に気になる記事でもあった?」
ダウナが問い、ああそうそう、とロアは再び紙面に目を落とす。
「ほら、探偵だよ。彼のことは君たちも知っているだろう? 中央大陸のあたりでまた、かの名探偵が難事件を解決したそうだ」
探偵とは、その名の通り探偵業を生業としている男だ。世界中を練り歩いては行く先々で起こった事件や、未解決のまま捜査が難航している事件などを解決してまわっている。いつからこうして報道誌に顔を出すようになったのかは覚えていないが、つい最近のことでないのはたしかである。
「なるほどね。たしかその人、前にうちの近くに来てたみたいなんだ」
「それも記事になっていたね。偶然事件現場に居合わせて、警備隊が到着するより先に容易く解決してあくびをしながら去っていったそうじゃないか」
「うん。半年前のベアム国での猟奇殺人の一件なんて、警備隊が三か月かけて調べていたのに、彼はたった二日で犯人を暴いてしまったそうだよ」
「すさまじい解決率だね」
「そういや俺んとこにも何度か来てたの見たな。話したことはねえが」
「性格は結構キツイって有名だけど、実際はどんな人なんだろう」
「口が悪いんだってな」
「人のことを言えた口かい?」
「それに目つきも悪い」
セレイアが別の報道誌を開いて言う。そちらの記事に添付された写真には、目線自体はカメラに向いているものの、鋭く刺すようなまなざしでこちらを睨んでいる探偵の姿がある。
「そうかい? なかなか男前じゃないか。君より上品な顔立ちだ」
冗談めかして言うと、セレイアは鼻で笑って仕事に戻る。
「それにしても……世界中あちこちいろんなところに行って、いろいろな人々と関わる仕事というのも楽しそうだよなあ」
ひとりごとのように呟いてからロアはダウナのほうを見た。
「そういえばダウナ、スーリガは元気だったかい? 帰ってきているんだろう」
「あ、うん。部屋をちゃんと片付けろって叱られたよ」
「間に合わなかったか……」
*
今日は一日晴天で、夜空には雲ひとつなく、大きな月と無数の星々がその輝きをこれでもかと地上に知らしめていた。常夜灯がなくとも月光と星明かりだけで十分に周囲の状況を把握できるため、一昨日の晩よりも足取りはいっそうスタスタと迷いがなく、移動時間がわずかばかり短縮されていた。
丘の上は相変わらず風が吹いている。
いつもどおりに石碑の前に座り込むと、すっかり丸くなった墓石に触れた。冷たく硬い石はロアを迎え入れるように、なじみのある感触を手のひらに伝える。
「一昨日ぶりだね。今日は散々な一日だったんだ。結局またセレイアのバカと会う羽目になったんだ。しばらく会わなくていいと思っていたのに……」
ロアはため息をこぼす。
「まあ、さすがに私たちも昔のように顔を合わせるだけで剣を抜いたりはしなくなった。あいつが嫌いなのは今も昔も同じだが、こう……いつの間にか、まったく話せない相手でもなくなっているのだから不思議なものだな。これは人間も同じなのかい?」
大戦時代に決着をつけたのが大きいのだろうな――口には出さなかったがそう思った。実際、ロアがセレイアに抱いていた憎悪や嫌悪の一部は、かつての大戦でセレイア・キルギスを打ち破った際にある程度は清算されたのだ。今もロアがセレイアを嫌っているのは、単純に反りが合わないからだと感じている。
「なあ、君はたしかセレイアとも仲良くしていたよな。正直、私にはあれと友好的に接していた君の気持がわからないよ。あれはただの暴虐の化身だ。息をするように悪逆をなしてきた、無慈悲な悪だ。善たる君とは相性が悪いはずなのに」
神妙な顔つきでロアは目の前の石碑を見つめる。
「君は……それでもあいつを友人だと思うのかい」
答えがないことなどわかっていながら、ロアは問いかけた。風の音だけが中空に渦巻いて、その声を遠い彼方へさらっていく。
「寛容すぎるのも考えものだぜ、君。あんなのに優しくする必要なんてなかったんだ。どうして君は」
答えはない。
答えなどないのだ。




