雨女考察1
学校に着いた。ぐっしょりと濡れた靴を脱いでも靴下まで濡れているせいで、屋根の下に入っても気分は晴れなかった。
仕方なく靴下も脱いでから上履きを履いたはいいが、やっぱり気持ち悪い。
「はっはっは。見ろよ達巳。俺が歩いた後には余すこと無く軌跡が描かれているぜ。まあ水溜まりだが」
だがしかしどちらかというと剛志のほうが気持ち悪いが。生理的な意味で。
「水も滴る良い男……てのまさに今の俺のためにある言葉だな」
「水が滴れば良い男、という意味ならな。だが残念ながらそれは誤用だ」
水が滴っていても良い男は良い男、という意味が正しかったはずたから、基本的に水が滴るのは良い事では無い。つまり良い男では無い剛志がやっても意味が無い。
まさに無い無い尽くし。あるのは筋肉だけだろう。
「つれないこと言うなっつうの」
剛志はひとつニヤァと笑い、
「この筋肉があるなら、俺はそれで十分だろう?」
「すまん。吐いてきていいか?」
脳みそ筋肉野郎とはこいつのためにある言葉だな。
「吐く前にこの肉体美を見ていけ」
ガシッと俺の腕を掴む剛志。同時に大量の水滴が腕にまとわりついて「っあ!?」背筋がゾッとした。
「悲鳴を上げる程雨に濡れるのが嫌なのかよおい。だが、安心しろ。2割ぐらいは俺の汗だ」
「ぎゃあああぁあ!!」
「悲鳴が本気になった! そこまで嫌なのかよ!」
当たり前だ! 汗ってっ。汗って!
なんとか剛志の腕を振りほどいて、ズボンで水を拭いた。
「……お前、今日はなんでそんなにテンションが高いんだ」
雨の中傘も差さずに登校したり、いつも以上に気持ち悪いぞ。こいつ。
「あー? んー、そういやお前昨日ホームルームでも寝てたな」
「? 昨日、良い事でもあったのか?」
「いんや、今日もしかしたら良い事があるかもしれない、と昨日知らされたって感じだ」
「…………」
ホームルーム。知らされた。つまり教師の話になにかあったのか。
テンションが上がる。生徒が喜ぶ事では無く喜ぶかもしれない事。
喜ぶかもしれない。しかし現状剛志はテンションを上げている。つまり、喜ばしくてもそうでなくても悪い事では無い事になる。
「……まさか、転校生とかか?」
いや、流石にそれは無いか。段階を飛ばしておかしな事を言ってしまった、と思ったが
「おいおい探偵さんよ。ヒントも無しに当てるんじゃねぇよ。実は昨日起きてたんじゃねぇのか?」
まさか本当に当たるとはな。
「いや、起きてはいなかったが……しかし転校生、ねぇ」
こんな半端な時期になんて、本当にあるんだな。
「そこでだ、探偵さんよ。お前さんの推理とカンで、その転校生が可愛いかどうかを教えてくれ」
「俺は探偵じゃないし、それは探偵の領分を越えてる」
完全に未来予知だろ、それは。
「だが、そうだな。俺のカンでは、というより確率的な話をするなら、美人では無いかもしれないな」
「…………」
「なんで黙る?」
剛志が聞いたから俺なりに答えたのに、そんな意外そうな顔をしないで欲しい。
「いや、なんつうかよー」
どうやら俺が答えない事を予想していたらしい剛志は、困ったような様子で頭を掻く。
「なんで、美人じゃあねぇと思ったんだ?」
それもそうか。理屈も解らない状態で信じられる言葉なんて無い。
俺は廊下の外に目をやり、梅雨真っ盛りを越して異常気象とも思えるような程続いている雨に向かって嘆息する。
「まず断っておくが、俺が言った美人っていうのは、性格等も考慮した考えだからな」
念のために前置きをして、続ける。
「今は夏休み前だ。しかもあと一ヶ月で学期のキリも良くなる。成績を付けるにおいても生活環境を整えるのにも、夏休みに入ってから転校する、というのが普通だ。例え2学期制の学校であったとしても、それは変わらないだろう」
つまり、転校するにしては不自然過ぎるということだ。
「ならば何故、こんな時期に転校することになったのか。親の仕事の都合、というのが最も現実的だし、この場合では性格の予想なんて出来ない」
しかし、と、俺は教室の扉を開けた。
「――転校が親の都合なんかではないとしたら、成績不足による処分を受けたか、素行不良が考えられる」
退学させられる前に、学校を変えて前の学校での事を無かった事にした。そんなズル賢いやつだとしたら、性格が良いとは思えないしな。
説明を終えると、剛志はポカーンと口を開けて、餌も無いのに餌を待つ雛鳥のようなアホ面を提げていた。
「? どうしたんだ、剛志?」
「いんやぁ、なんつうかもう、流石だなお前さんの推理は。俺には微塵も理解出来なかったぜー」
つまり全ての説明が無駄だったと……?
「一応言っておくが、俺はあくまで可能性の話をしただけであって、当然例外もある。不確定要素が多すぎる。流石に転校生は女子だというだけではなんとも言えない」
自分の席に座って、気持ち悪い具合に上履きを脱いだ。
そしたら剛志も俺の隣に座って、
「解ってるっつうの」
と、何が楽しかったのか解らないが、豪快に笑った。
その時だった。
「転校生って女の子なの?」
後ろから声がした。もうホームルームが始まる5分前だから、他の生徒も結構居るのだ。
「……川崎か。おはよう」
「うん。おはよう梶原。ところでさっきの話、本当?」
小さい身体を机に乗せる勢いで身を乗り出しているのは川崎結愛。活発そうな短髪と小さな頭を揺らして顔を近付けてくるのは、知りたがり精神の表れか。
「転校生が女子って話か? こいつが言ってたんだ」
情報の真偽については情報提供者に責任転嫁するのが一番。というわけで、俺は剛志を指差した。
「あ、おはよう田井な……なんでびしょ濡れ?」
あ、忘れてた。
雨に濡れておきながら着替えもせず平然と座っていた剛志は、なにを今更、と言いたげに鼻で笑い、やはりびしょ濡れの、ボウズがそのまま伸びたみたいなツンツンヘアーをかきあげた。
「雨が、俺を呼んでいたからだぜ」
こいつさっきと言ってる事が違うぞ。
「ジャージに着替えるためにわざと濡れたんだろ。なら早く着替えろ」
そのままでは風邪も引くだろうし、なにより目障りだ。しかもこのびしょ濡れ具合で2割が汗だというのだから最悪。
しかし剛志は立ち上がろうともせず、むしろここ一番の決め顔で言った。
「――ジャージ、部室だった」
もう駄目だこいつ。本能でしか動かないから自滅した。
「田井中、あんた、まさか……」
剛志の馬鹿さ加減に呆れたのか、川崎はその顔に戦慄の色を浮かべ、
「――雨の声が、聞こえるの?」
駄目だ。こいつも馬鹿だった。
「雨は意思なんて宿してないんだからそもそもの感情が無い。だから何かを呼んだりなんてするわけないだろ。それはこいつの冗談だ」
わざとだろうとは解っていたが、ここで突っ込まなければどうせ文句を言われるだろうから、先手を打つ。
「ばっか達巳お前ロマンがねぇなぁ。ロマンもなければ夢も無い。無い無い尽くしの人生だぜ」
ロマンと夢の違いについて俺は聞きたい。
「学力も無ければ教師からの信頼も無いお前からは言われたくない」
「なにを言ってやがる。俺にはこの筋肉がある。それだけあれば……十分だろう?」
「すまん、吐いてきていいか?」
「なあ、本当に青ざめられたら冗談になんねぇわけだが」
冗談のつもりは無かったし、なによりそのドヤ顔がイラッと来る。
「吐く必要なんて無いわよ梶原」
川崎はなんでもなさそうに剛志を指差し、
「嘔吐物ならもうここにあるじゃない」
あ、本当だ。
「嘔吐物!? まさかの嘔吐物扱い!? つうか達巳、お前さんは深く頷き過ぎだ!!」
「いや、しかし成分は違うが汗も嘔吐物も同じ排泄物だ。似たようなものだろう」
「似てねぇよ! 似て非なるとかっていうレベルでは無く純粋に全く似てねぇ!」
「そんな事はどうでもいいんだ、剛志」
「いやどうでもよくねぇよかなり大事だ重要事項だ!」
食い下がる剛志を見て、やばい、少し弄り過ぎたな、と反省して、
「ああ、そうだな。かなり大事だ」
と譲歩する。やはり、主張を認めるというのは必要な事だ。
「というわけで話を戻すが」「その流れダウトォォオオ!!」
……やり過ごすのは失敗だったか。
「でも田井中。あんたね、ぶっちゃけ今汚いって事は事実なんだから、早くなんとかしなさいよ。それにそこ、あんたの席じゃないし」
俺の変わりに面倒な正論を突き付ける川崎。剛志は落ち込むどころか親指をグッと立てて、
「大丈夫だ問題ねぇ。この席の主である斎藤ねは俺が土下座しとくから」
謝るという段階をすっ飛ばす辺り、自分が今汚いという自覚はあるようだ。ならばあと少し、土下座をする必要があるという時点で全く大丈夫では無いという自覚もして欲しいな。
取り敢えず弄り過ぎたという点は素直に謝罪し――とはいえ簡単に、だが――ようやく話を戻した。
「転校生が女子だ、という話だ。お前が言ってたんだから、お前が説明しろ」
「いんや、無理」
殴っていいかな、いいよな。
「おーい達巳、無言で拳を振り上げるのはやめてくれ、なんか本気っぽいから」
割と本気だが。
「説明出来ない、とはどういう事だ」
まさか、という嫌な予感のせいで、振り上げた拳はそのまま待機させた。
すると剛志はニヘヘ、と悪戯な笑みを浮かべて、
「転校生は女子だっつう話なんか聞いてなかったっつう事なんだよなぁ、これが」
取り敢えず殴っておいた。
「いっ、てぇ……」
普段から鍛えてる剛志には大したダメージでは無いだろうが、剛志は大袈裟にうずくまり、
「そりゃあ俺だって健全な高校生男子なんだぜぇ? 転校生とくりゃあ女子であって欲しいと願う、なんて、当たり前じゃねぇか」
こんなわけの解らん主張のために、俺はさっき脳をフル回転させたんだ。そう思うとムショーにやるせない気分になった。
その後、登校してきた斎藤という女子生徒が涙目になりながら、土下座している剛志を怒鳴り散らしていた。だがその騒がしさが雨の音を遮ってくれたおかげで、気分はそこまで悪く無かった。
朝のホームルームが始まる頃にはしっかりと睡魔が訪れてきて、机に突っ伏して視界を閉ざす。
徐々に薄れ行く意識は、上映が始まる映画館のフェードアウトする灯りに似ていた。
土下座事件というネタと転校生への期待が合わさって生じたのであろう高揚感は、俺には無いが確かに教室を包んでいる。
そのおかげで落ち着きの無いクラスの雰囲気は、雨の憂鬱を知らんぷりするには最高の立地で、
「では、昨日言ってた転校生を紹介する。おい雨宮、入ってこい」
朧気な意識の中入ってきた担任のその合図は、右耳から入ってきて吐息と共に出ていった。
「雨宮雫です」
閉ざされた視界で、意識を手放している俺にとって、情報体としてはあまりに無意味な言葉という音。その声は鈴を転がしたように綺麗で、あまりにも無機質で、静かだった。
だからこそ、俺の眠気はピークに達する。
「早速で申し訳ありませんが、皆様にひとつだけ、お願いがあります」
薄れる意識。ここに意識があるということさえ忘れられそうなその感覚は、俺を別世界へ連れて行こうとしているようだ。
だからこそ俺は、その別世界に手を伸ばした。
そして手を伸ばす事に必至だった俺は、その別世界の入り口で、懐かしいと思える言葉を聞いた。
「――どうか私に関わらないで下さい」
違和感は無かった。
夢へと突入した俺の脳が、少し前に自分が言った台詞を思い出したのだと思う事に、疑いさえも芽生えずに。
だからこそ聞き逃した彼女の悲鳴。
取り戻しつつあった平穏を瞬く間にうち壊す始まりの合図は、俺には届かなかった。
◇◆◇◆◇◆
夢を見た。
そこは、一目見ただけで夢と解るような空間で、つまり現実ではあり得ない世界だったということだ。
雨。そして屋上。それ以外の物は何も存在しない。
空さえも無い。屋上の外側には空白という景色がどこまでも広がっていた。
雨が冷たく身体を冷やしていく。だというのに、雨が身体に当たっている感覚も感じない。
――ああ、来てくれたんだね。
声がした。
視線が勝手に動いて、忘れたいと願うあまりに忘れられない姿を捉える。
――君なら来てくれるって、君だけが来てくれるって、信じてたよ。
そいつは笑った。
楽しそうに、悲しそうに、左右で異なる感情を写しながら、やり遂げたよ、と達成感に満ちた口調で。
――おれが出来る唯一の、君達への抵抗だよ。これはおれの、身勝手な呪い。それを今から、君達に掛ける。
呪いだの、魔法だのなんてものを俺は信じない。だが、彼の成そうとしていることとその言葉の真意を、理解してしまった。
彼は空を見上げた。空なんてものさえ存在しない世界で、それでも降りしきる強烈な雨の弾丸をその身に浴びせて。
――どうか、裁きを受けてくれ。君が呪われてくれたなら、おれも少しは報われる。
そして、彼は、この屋上から身を乗り出して、雨の雫と共に、
――さよならだ。この別れを、その記憶に焼き付けろ。
「……つみ。おーい、達巳」
「…………」
動けなかった。にも拘わらず世界は変わって、平穏な教室で生徒達が慌ただしく何かの支度をしていた。
「……そういえば、夢だったな」
呟きながら嘆息して、身体を起こす。
「……体育、か」
「おうよ毎度お楽しみ皆大好き体育の時間だぜー」
剛志はその手に体操着袋を持っていた。のだが、服装は既にジャージだった。
「……今は、何時間目だ?」
「3時間目さんだぜ」
「……いつの間に着替えたんだ?」
あのびしょ濡れの制服。ジャージは部室だと言っていたのに。
「2時間目の授業中だぜー。先生が許可してくれてよー」
「だったらついでに体操着に着替えればよかったのにな」
「おまっ、それを先に言えよ」
寝てたから無理だ。
「取り敢えずさっさと起きやがれよ達巳。遅れるぜー」
「ああ、解った」
気だるい身体を起こして、窓の外を見た。
さっきよりは弱まっているが、雨は未だに降り続いていて、じっとりと嫌な湿気を産み出している。それにさっきから、少し変な臭いもするし……いや、これは雨のせいじゃないな。
「剛志。お前、汗臭いぞ」
「うはっ、ストレートに言われるとショックだな。体育が終わったら拭くから、勘弁してくれ」
「そうか、解った。なら俺は少し吐いてくるから、先に支度しててくれ」
「あいよ。んじゃあ俺はちょっくら泣いてくるぜ」
そして、俺はトイレへ、剛志は雨降るベランダへと出ていった。
体育館にて始まった体育の授業。
体育委員である剛志を先頭にアップのランニングをして、いつも通り死にそうになり床に倒れ込む。剛志のやつ、殆んど全力疾走だからな。
次に筋トレだ。筋トレ、といってもアップの一環だから、腕立て伏せと腹筋を男子は20回、女子は10回こなすだけだ。
ランニングの時同様、無茶苦茶なペースでやらされるんじゃないか、という心配は、筋トレなら存在しない。
「いち、いち、にっ、にっ、さん、さんっ」
解るだろうか。ペースメーカーたる剛志は重度の筋肉馬鹿で、20回やそこらじゃアップにすらならないのだ。だからって倍速は引くよな。
「よし次腕立てー!」
せめて息切れぐらいはして欲しいよな。あいつの半分しかやってないのに息を切らしている俺達がおかしいみたいじゃないか。
「はい、んじゃあチーム分けー!」
溌剌と、本当に楽しそうに進行していく剛志。雨のせいで女子と合同だというのに、なにもかもがいつも通りだ。
休みの人間もいなかったから、チーム分けもいつも通り。
男子も女子もやるのはバスケだ。
そして、
「だあらっしゃあぁぁあ!!」
筋骨隆々の大男、剛志による強烈なダンクが、バスケ部員を弾き飛ばす。
「ぐっ……つよしぃ……っ!」
歯軋りを立てるバスケ部員。
「はっはっは! どうだ、見たかこの肉体から織り成される華麗な活躍を!」
「プッシングは初心者だから見逃してやるが、トラベリングは見逃せるレベルじゃ無いぞ!」
「そう言うなよなー木下。細かい事ばかり気にしていちゃあ、俺のようなマッチョになれねぇぜー」
「なりたくねぇよ!」
憐れ木下。
「ところで木下よー、トラベリングってなんだ?」
「今更!?」
授業とはいえ試合中だというのに、気楽過ぎるだろあいつらは。
対して、俺の脚は鉛みたいに重かった。
雨の音が響くから、体育館もあまり好きでは無いのだ。
ふと、目眩がして俯いた。どうやら昨日から寝過ぎたらしい、貧血かもしれない。
この木目の床に倒れ込めたらどれだけラクなのだろうか。
いつも通りの授業。いつも通りの雰囲気。
なにもかもがいつも通り。
そう。
転校生が、どこにも居ない。
「っ! 達巳危ねぇ!!」
瞬間、頭部に強い衝撃を感じた。
身体の重みが急激に増す。いや、違う。立ち上がろうとする力が抜けたんだ。
意識が奪われる。
念願だった体育館の床に倒れるという願望は、全く望まない形で叶った。
目が覚めると、そこは廊下だった。
剛志と木下に両側から支えられているようだ。
「状況からして、保健室に向かってるところか?」
「そうだ」
木下が頷く。
「よかったぜぇ、目が覚めたか」
剛志は安堵の溜め息を吐きながら俺の背中を押してきた。
「俺の投げたボールが後頭部直撃だったからよー。マジで焦ったぜー?」
犯人はお前か。
「ああ、わるいな。もう1人で歩けるからお前らは授業に戻ってくれ」
「言われなくてもそのつもりだよ」
相変わらずのドライ木下。
「こいつへの借りも返さないといけないからな」
「おっ、いいじゃねぇかその意気込み。木下よ。果たしてお前に、俺のこの筋肉を越えられるかな?」
一触即発なのは構わないが、俺を挟んだままでというのは勘弁して欲しい。というか剛志が臭いのをなによりなんとかしてくれないだろうか。
「バスケは筋肉なんかじゃ左右されないということを教えてやるっ!」
「なら俺は筋肉で解決出来ない問題はねぇって事を教えてやるぜ」
「っつあ!?」
放り投げられた。俺を犠牲にしながら一触即発になるのもやめて欲しかった。
「この筋肉馬鹿がっ」
「はっはっは。馬も鹿も実は結構筋肉があるからなぁ。最高の誉め言葉だぜ」
「そういう問題なのか!? お前はそれでいいのか!?」
なんかよく解らないテンションのまま体育館へ戻っていく2人を見送って、俺は保健室に向かった。
あの剛志の一撃を喰らったのだから当然コブくらいは出来ているだろう。
湿布を貼るのと、あったら頭痛薬も貰うとしよう。
だが今は授業中で、果たして保健室に先生が居るかどうか。居なくても自分で応急措置ぐらい出来るが、保険医が居ない場合は保健室が開いていない可能性がある。
廊下を一人で歩きながら、さっきよりも弱まった雨に向かい、どうか帰りには止んでいてくれと願う。でも、こんな願いに意味が無い事ぐらい承知しているし。思念に力は無いのだから当然だ。
「開いてる……」
保健室は開いていた。しかし、中に人は居ない。灯りさえも付けず暗い室内は、外の雨と共鳴しているかのように、雨音が強く鳴っていた。
「無用心だな」
入り口だけではなく窓まで開いているのだ。
カーテンが揺れて、床も濡れていた。その景色は雨を歓迎しているように見えて、どうしようもない居心地の悪さを感じた。
仕方がないから応急措置は後回しにして、雨風ウェルカムのその窓を閉めようとした。そしたらどうやら死角になっていたらしい場所に人が居て「うおあ!?」豪快に飛び退いてしまった。
「きゃっ!?」
そしたら向こうも俺が入ってきていた事に気付かなかったらしく、いきなりの大声に驚いたのだろう、小さな悲鳴を上げる。
「…………」
驚き過ぎて声が出なかった、というのもあった。でもそれより、見惚れてしまった、と言ったほうがしっくりした。
ベッドに腰掛けていたらしい彼女はシーツを握りしめて脅えているようだが、その仕種は小動物のような可愛らしさがあった。
長く艶やかな黒髪は、この湿気に負けず真っ直ぐで綺麗だった。
肌は髪と相反して不健康に思える程白く、しかし細すぎないどころか出るところは出て括れるところは括れて、清楚を売りにしているモデルか何かかと思ったが、この学校の体操着を着ていたから、そんな妄想はすぐに振り払った。
「…………」
美少女と言うに相応しいその少女は、出来立てのキャンバスに黒曜石を嵌め込んだんだみたいな瞳を潤わせる。
「……えっ、と。よう、転校生」
「…………」
名前は解らないが、今、体操着を着ていて俺に見覚えが無いのだから、おそらく間違い無いだろう。
しかしいきなり過ぎたのか、逆に警戒心を強めた彼女は、ギリッと歯を鳴らして唇を噛む。
「あなたは……っ」
変質者だと思われたら困る。何か誤解される前になんとかしなければならない。
「ま、待て、そんな邪険な目はやめて、少し落ち着け 」
「!? じ、邪険な目なんてしていません!」
否定しながらもシーツで顔を隠す辺り、しっかり鵜呑みにしてるんじゃないか。
だが事実、彼女は邪険な目なんてしていなかった。どちらかと言えば殺気の籠った目だった。気を使って柔らかい言い方にしたのだが無駄だったらしい。
「あ、いや、今のは、違っ、えっと……口調を間違えました。言い直して良いですか」
えっ、口調を間違えるって何? 間違えたようには聞こえなかったけど。
「あ、ああ、いいぞ」
しかし別段断る理由も無いしな。
彼女は深く深呼吸し、そして覚悟を決めたように息を吐く。
「――邪険? はっ、なにを言っていやがるのかしらこの馬鹿は。この私がそんなはしたない目をするわけが無い」
一緒に強烈な毒まで吐いてきた。どこからツッコミを入れたらいいのか俺には解りません。だから放置するよ、ツッコミが出来る人は勝手にツッコミしてくれ。
「そ、そうだな。そんな目はしていなかった」
「だったら最初から言わなければよかったのにね、この、えっと、この脳足リンがっ」
毒が。毒がつ俺の心を蝕んでいくっ!
「…………えっと、なんというか、すまん」
相手の事も知らない現状では言い返す事も出来ない。
「あっ、いや、そんな謝ら――謝られたって許しはしませんわよ!」
「さっきから口調が継ぎ接ぎなんだが」
「〃…〇―“|ヾ〆々」
「言葉になってないんだが」
息を切らして顔を真っ赤にする少女。
ああ、成る程。
「取り敢えず、落ち着け」
俺も気を取り直して、湿布探しを始める。
「その後に、いくらでも毒を吐けばいい 」
「…………」
途端に、彼女は黙った。
転校生、か。どうやら俺の予想は当たったらしい。
そう、性格に問題があるかもしれない、という予想が。
おそらく初対面では妥当であろう敬語を取り消してまで毒を良しとした。その根源にある理由。つまり動機は何か。そんなのはひとつしか無い。自分を偽ったのだ。彼女は。
しかし、敬語という妥当な対応はせず毒を吐くような性格を演じる理由はなんだ? 正直、そんな性格の人間にメリットがあるとは思えない。初対面の人間を無差別で傷つけるのは、どんな理由があろうと正しい事では無いはずだ。少なくとも俺はそう思う。
「毒を吐くのが好きなら、毒を吐かれても平気なやつを教えてやる。だから、そんな警戒しなくてもいい」
頭を打った時に挫いたらしい首に湿布を貼って、ボールが直撃した頭部をアイシングする。
「適材適所だ。すまんか俺は、毒を吐かれるのにあまり耐性が無いからな。変わりのやつを用意してやる、という意味だが、どうだ?」
その提案に、彼女は黙った。余計なお世話だったかな、と思いつつ後悔はしない。余計なお世話なら余計なお世話だと断ってくれればいいだけだ。
だが、彼女は言った。
「結構です」
その静かな口調のほうがしっくりしたから、おそらくこっちが、彼女の素なのだろう。
そして、
「君は、雨は好きですか?」
と、今にも止みそうな程小降りになった雨を見ながら問う。
俺は彼女と同じように少しだけ空を見て、しかしすぐに耐えきれなくなって、室内に視線を戻す。
「好きじゃないな。雨が降ったから学校を休もう、と思ってしまうぐらいには交換を抱いている」
「つまり、嫌いなんですね」
俺の卑屈と共鳴するように、彼女は空っぽの笑いを溢した。
「そうですね。では私はこう答えましょう、私は雨が大嫌いです。このままずっと降り続いてくれたら良い。そう願ってしまうぐらいには」
つまり好きなんじゃないか。
「雨が嫌いなら、君は私を嫌いになるでしょう」
暗喩じみた口調の彼女はやはり空っぽに笑う。
「なにせ、私は雨女ですから」
暗喩から暗号へ。彼女の言葉は現実味を失い、俺の思考を停止させる。
「私が悲しむと、苦しむと、雨が降る。そういうシステムらしいんです」
「何を言っている? そんな事あるわけが」
「あるんです」
俺の否定を遮った彼女は、初めて、空っぽじゃない感情を表に出した。
「だって、ずっとそうでしたから。私が悲しむと、苦しむと、いつも雨が降った」
そして、と彼女は、空っぽ以上に虚しい笑みを浮かべ、
「私はこの体質で、人を殺しました」
「っ!?」
息が止まった。人を、殺した?
殺人? だとしたら事件じゃないか。警察沙汰だ。
「でも、私の感情次第で雨が降るというこの体質は、警察の人には認めて貰えず、私は裁きを受けられませんでした。人を殺して起きながら、無罪という事になったんです」
おかしな話でしょう? と言った彼女の、あまりにも冷たい口調。
雨が雪に変わるんじゃないか、とあり得ない事を考えてしまうほどの寒気がした。
「解りますか? いえ、解っていなくても、理解して下さい」
そんな彼女の口調には、あり得ない事もあり得そうだと思わせるには充分な重みがあり、そしてそれは俺を押し潰そうとのし掛かってくる。
「私は人を不幸にします。大切な人を殺してしまうほどに、最悪な存在なんです」
その重さのせいで、俺は何も言えなかった。
「だからどうか、お願いします。どうか、どうか、私に関わらないで下さい」
彼女の悲鳴が聞こえた瞬間、止みかけていた雨が強さを増した。