救う世界がない勇者たちへ、焼きたてのパンを
私の村には、転生者が落ちてくる。
落ちてくる、というのは比喩ではない。
春なら麦畑へ。
夏なら井戸の中へ。
秋なら教会の屋根へ。
冬なら村長の寝室へ。
だいたい白い光に包まれて現れ、だいたい第一声はこうだ。
「ここは……異世界か?」
そして、だいたい三日以内に自分の力を確認する。
炎を出す者。
剣を振るだけで岩を割る者。
薬草を握れば万能薬に変える者。
私たちは彼らを総称して、「空から来た人」と呼んでいる。
昔は、村中が大騒ぎだったらしい。
最初の転生者は、魔王を倒した。
二人目は、王国を救った。
三人目は、隣国の姫と結婚した。
四人目は、古代竜を従えた。
五人目は、税制を改革した。
そこまではよかった。
問題は、六人目以降だった。
魔王はもう倒されている。
古代竜もすでに誰かに懐いている。
姫は全員、歴代の勇者や賢者や聖女と婚約済みだ。
税制は完璧になりすぎて、役人ですら理解できなくなった。
それでも、転生者は落ちてくる。
彼らはみんな、自分が主人公だと信じていた。
だから、何も起こらないこの村で、少しずつ壊れていった。
「おかしいだろ!」
昨日落ちてきた少年が、私のパン屋の前で叫んだ。
黒髪、黒い瞳、見慣れない服。年は十六くらい。名前はユウトと言った。
「俺には鑑定スキルがあるんだぞ! なのに、なんでスライム一匹いないんだ!」
私は焼きたての丸パンを棚に並べながら答えた。
「スライムは三年前に絶滅しました。第127勇者様が、経験値効率のために狩り尽くしましたので。」
「じゃあゴブリンは?」
「労働組合を作って、王都に移住しました。」
「魔王軍は?」
「解散しました。今は輸送会社です。」
「じゃあ俺は何をすればいいんだよ!」
その声に驚いたのか、窓際で眠っていた黒猫が、片目を開けた。
名前はノワール。
私の店に住み着いている、年寄りの黒猫だ。右耳が少し欠けていて、尻尾の先だけが白い。いつからいるのか、村の誰も知らない。ただ、昔からパン窯のそばにいて、焼き上がりの時間だけは誰よりも正確だった。
私は丸パンを一つ取り、ユウトに差し出した。
「食べますか?」
「いらない。」
ユウトはそう言ったが、腹が鳴った。
ノワールが短く鳴いた。
ユウトは顔を赤くして、結局パンを受け取った。一口かじる。怒ったまま噛んで、怒ったまま飲み込んで、それから泣いた。
転生者は、よく泣く。
初日は怒る。
二日目は暴れる。
三日目に泣く。
自分が特別だと信じていた人ほど、何も起こらない日常に耐えられない。
ユウトもそうだった。
彼は鑑定スキルを使って、村中のものを調べた。
井戸水は、「普通の水」。
鶏は、「普通の鶏」。
私のパンは、「普通のパン」。
私は、「普通の村娘」。
その結果に、彼はひどく傷ついた顔をした。
「普通って、そんなに悪いことですか。」
私が尋ねると、ユウトは首を振った。
「悪くはない。でも、俺は普通が嫌で死んだんだ。」
その夜、ユウトは店の裏口に座り込んで、自分の世界の話をした。
学校で目立たなかったこと。
誰にも期待されなかったこと。
家族にも友人にも、たぶん嫌われてはいなかったが、必要ともされていなかったこと。
最後の日、横断歩道で子どもを助けようとしたこと。
けれど、子どもは無事で、自分だけが死んだこと。
「だから、次は選ばれると思ったんだ。」
ユウトは膝を抱えた。
「神様が俺をここに呼んだなら、何か意味があるんだって。」
私は黙って聞いていた。
空から来た人は、みんな似たようなことを言う。
意味がほしい。
役目がほしい。
物語がほしい。
けれど、この世界はもう何度も救われていた。
勇者の剣は博物館にある。
聖女の泉は観光地になった。
魔王城は結婚式場として人気だ。
世界は平和で、あまりにも退屈だった。
「私の父も、空から来た人でした。」
私がそう言うと、ユウトは顔を上げた。
「え?」
「第121勇者です。能力は、どんな敵にも必ず勝つ力でした。」
「すごいじゃないか。」
「すごかったそうです。でも、父が来たときには、もう強い敵が残っていませんでした。」
父は、何も倒せなかった勇者だった。
倒すべき魔王も、救うべき姫も、暴くべき陰謀もなかった。
それでも父は、自分の力を証明しようとして、村の外へ出た。
山賊を探し、怪物を探し、戦争を探した。
そして最後には、自分より強い相手を探すため、かつての勇者たちに決闘を申し込んだ。
父は全員に勝った。
勝ち続けた。
勝つことしかできなかった。
ある日、母に言ったらしい。
「俺は、この世界に必要なかった。」
その翌朝、父はいなくなった。
死んだのか、別の世界へ行ったのか、誰も知らない。
残ったのは、母と私と、父が一度も使わなかったパン窯だった。
「父は戦うことしかできませんでした。でも母は、パンを焼けました。」
私は窯の火を見た。
「だから私は、パン屋になりました。」
ユウトはしばらく黙っていた。
その足元で、ノワールが欠伸をした。人間の苦しみなど、もう何百年も見飽きたという顔だった。
「でも、俺はパンなんか焼けない。」
「焼けますよ。」
「鑑定しかできないんだぞ。」
「なら、よい小麦を選べます。」
私は袋から麦を一握り出した。
ユウトは反射的にそれを見た。
「これは……水分が多い。保存には向かない。」
「では、こちらは?」
「香りがいい。でも少し硬い。」
「では、混ぜましょう。」
ユウトは戸惑った顔で私を見た。
「それだけ?」
「それだけです。」
「それだけのために、俺は死んだのか?」
その問いに、私はすぐには答えられなかった。
人は、ときどき大きな理由がないと生きてはいけないような気になる。
けれど本当は、大きな理由のために死んだ人ほど、小さな理由でしか生き直せないのかもしれない。
翌朝から、ユウトはパン屋で働き始めた。
最初は不満そうだった。
「俺の鑑定スキル、もっとすごい使い方があるはずなんだけど。」
と言いながら、焦げたパンを作った。
三日後には、小麦粉の違いを語り始めた。
十日後には、村人の好みに合わせて焼き加減を変えた。
一か月後には、通りかかった商人が言った。
「このパン、王都で売れるぞ。」
ユウトはその日、一晩中眠れなかったらしい。
朝、目の下にくまを作って、私に聞いた。
「俺、これでいいのかな。」
「何がですか。」
「魔王も倒してない。姫も助けてない。チートで無双もしてない。ただパンを焼いてるだけだ。」
「でも、昨日、村長が泣いていましたよ。」
「なんで。」
「亡くなった奥様が焼いていたパンと同じ味だったそうです。」
ユウトは黙った。
その顔は、初めてこの村に落ちてきた日の顔とは違っていた。
自分のために意味を探していた少年が、誰かの朝食になるものを見ていた。
その頃から、ユウトはノワールを気にするようになった。
「なあ、あの猫、変じゃないか。」
「猫はだいたい変です。」
「そうじゃなくて、鑑定できないんだ。」
「壊れているのでは?」
「俺のスキルは壊れてない。」
ユウトは真剣な顔で、窓際の黒猫を見た。
「村人も、井戸も、鶏も、パンも見える。でも、あの猫だけ何も出ない。名前も、種族も、年齢も、何も。」
ノワールは尻尾を一度だけ振った。
私は答えなかった。
数日後、ユウトは勝手口でノワールにパンの欠片をやっていた。
「お前、何なんだよ。」
黒猫はパンを食べなかった。
ただ、ユウトをじっと見ていた。
その瞬間、ユウトの顔色が変わった。
「見えた。」
私は手を止めた。
「何がですか。」
ユウトは震える声で言った。
「元魔王。」
店の中が静まり返った。
窯の火が、ぱちりと鳴った。
「ノワールの鑑定結果に、そう出たのですか。」
「ああ。元魔王。世界を滅ぼす力を持っていたもの。現在、老猫。」
ノワールは退屈そうに顔を洗った。
私は小さく息を吐いた。
「見えてしまいましたか。」
「知ってたのか?」
「母から聞いていました。」
ノワールは、かつて魔王だった。
最初の転生者に敗れたあと、本当なら殺されるはずだった。
けれど勇者は、剣を振り下ろせなかった。
最後の戦いの前夜、魔王は戦場近くの村で一匹の子猫を拾っていた。雨に濡れ、目も開かず、震えていた子猫だった。
魔王はその子猫を温めるため、夜明けまで火を絶やさなかった。
世界を滅ぼすはずだった夜に、彼は小さな命が冷えないよう、ただ火を見張っていた。
勇者が玉座の間に着いたとき、魔王は子猫を懐に入れたまま眠っていたという。
勇者は剣を構えた。
けれど、振り下ろせなかった。
世界を滅ぼす者が、世界の片隅にいる一匹を捨てられなかったからだ。
「それで、勇者は魔王を殺さなかったのか。」
「はい。」
「甘すぎるだろ。」
「そうかもしれません。」
「魔王は倒されるべきだろ。勇者は世界を救うべきだろ。」
「でも、世界は救われました。」
「どうやって。」
「魔王が、世界を滅ぼすのをやめたからです。」
ユウトは黙った。
私は続けた。
「その後、魔王は力を封じられました。名も、玉座も、軍勢も失いました。残ったのは、拾った子猫の記憶だけだったそうです。」
「その子猫が、ノワールなのか?」
「いいえ。」
私は首を振った。
「ノワールは、その子猫ではありません。拾われた子猫は、ずっと昔に死にました。」
ユウトは息を呑んだ。
ノワールは、まるで自分とは関係がないというように、目を細めていた。
「魔王は、その子猫を長く育てたそうです。戦う力を失ってから、初めて何かを守る日々を知った。朝に餌をやり、昼に眠る場所を探し、夜に冷えないよう抱いて眠った。」
「魔王が?」
「はい。魔王が。」
私は、窓辺の黒猫を見た。
「その子猫が死んだとき、魔王はもう一度、世界を憎みかけたそうです。守りたいものは、どれほど大切にしても死ぬ。ならば最初から、世界などないほうがよかったのではないか、と。」
ユウトは、拳を握った。
「でも、滅ぼさなかった。」
「はい。滅ぼしませんでした。」
「どうして。」
「子猫が生きていた時間まで、なかったことにしたくなかったからです。」
ノワールが、ゆっくりと尻尾を揺らした。
「それから魔王は、自分で選びました。二度と玉座へ戻らないために。二度と世界を憎む側に立たないために。かつて自分を止めた小さな命と同じ姿で、生きることを。」
「それが、ノワール。」
「はい。」
黒猫は、元魔王だった。
けれど、拾われた猫ではなかった。
猫に救われた魔王が、猫の姿で生き直しているのだ。
ユウトは長いあいだ、何も言わなかった。
「俺、これを王都に知らせたら、勇者になれるかもしれないな。」
「そうですね。」
「元魔王を見つけたって。まだ危険かもしれないって。俺の鑑定スキルが世界を救ったって。」
「はい。」
「そうしたら、俺にも物語ができる。」
「はい。」
ノワールは黙ってユウトを見ていた。
その目は、猫のものだった。
けれど、どこかで永い夜を越えてきた者の目でもあった。
「でも、そうしたら、この猫は殺されるかもしれない。」
「はい。」
「今は何もしてないのに。」
「はい。」
「パン屑を食べて、寝てるだけなのに。」
「はい。」
ユウトは唇を噛んだ。
私は答えを教えなかった。
人は、自分で選ばなかった善を、自分のものにはできない。
その夜、ユウトは眠らなかった。
翌朝、彼はいつも通り粉を量り、窯に火を入れ、パンを焼いた。
そして、焼き上がった最初の一つを小さく割って、ノワールの皿に置いた。
「食べろよ、元魔王。」
ノワールは匂いを嗅いで、少しだけ食べた。
ユウトは泣かなかった。
ただ、少し笑った。
「俺、勇者になりたかったんだ。」
「はい。」
「でも、勇者って、敵を見つける人じゃないのかもしれない。」
彼は、黒猫の背を撫でた。
「殺さなくていいものを、殺さない人のことかもしれない。」
それから二年が過ぎた。
ユウトのパンは、王都で評判になった。
鑑定スキルで選んだ粉。
季節ごとに変える水。
食べる人の体調に合わせる配合。
彼は勇者にはならなかった。
賢者にも、王にも、伝説にもならなかった。
ただ、「空から来たパン職人」と呼ばれるようになった。
ノワールは相変わらず窓際で眠っている。
たまに欠伸をし、たまに皿のパンを残し、たまにユウトの失敗作だけをなぜか食べた。
ある日、また白い光が麦畑に落ちた。
今度は少女だった。
彼女は立ち上がるなり、叫んだ。
「ここは異世界? 私、聖女なの? 世界を救うの?」
私はパン籠を抱えて、畑へ向かった。
ユウトも隣に立った。
少女の肩には、白い小鳥がとまっていた。転生の光に巻き込まれて、一緒に来てしまったのだろう。小鳥は怯えきっていて、少女の髪にくちばしを埋めていた。
ユウトが少女を鑑定した。
「聖女、だな。」
少女の目が輝いた。
「やっぱり! じゃあ、魔王は? 呪いは? 世界を滅ぼす災厄は?」
ユウトは少しだけ振り返った。
店の窓辺で、黒猫がこちらを見ていた。
世界を滅ぼせたはずのもの。
世界を滅ぼさなかったもの。
かつて一匹の子猫を拾い、その子を失い、それでも世界を憎みきれなかったもの。
今は、パン屑を食べ、日向で眠るもの。
ユウトは少女に焼きたてのパンを差し出した。
「腹、減ってるだろ。」
少女は目を瞬かせた。
「え?」
「世界を救うかどうかは、食べてから考えればいい。」
少女は恐る恐るパンを受け取った。
一口食べて、泣いた。
肩の小鳥も、パン屑をついばんだ。
私は空を見上げた。
白い光は、まだ消えていない。
きっとこれからも、この村には転生者が落ちてくる。
主人公になりたかった人たちが。
特別でなければ生きられないと思い込んだ人たちが。
救う世界を探して、救われたい自分を抱えたまま。
そのたびに、私たちはパンを焼く。
魔王を倒す剣よりも、聖女の祈りよりも、竜を従える契約よりも、焼きたてのパンが必要な朝はある。
世界はもう、何度も救われた。
だから今度は、世界を救えなかった人たちを、少しずつ救っていく番なのだ。
窓辺で、ノワールが鳴いた。
それは猫の声だった。
けれど私には、ずっと昔に世界を滅ぼすことをやめた誰かが、静かに笑ったようにも聞こえた。




