サイコパス令嬢は素直に婚約者に包丁を突きつける
結婚式まで、あと二日。
公爵家長女アリシアは、純白のレースを指でなぞりながら、きっちり三年間を思い返していた。
三年。
婚約者である伯爵令息レオナルトと婚約してから、笑顔の練習、紅茶の淹れ方、領地経営の勉強、夜会での立ち居振る舞い――すべて「未来の伯爵夫人」として恥じぬよう、努力してきた三年だ。
その努力の結晶を、彼は今、紅茶の湯気の向こうから、あっさりと踏みつぶしていた。
「だからだね、アリシア。どうにも君は、こう……冷たいというか。愛を感じないというか。やはり僕には、君の妹のリリアの方が――」
「お慕いしておりますの」
リリアが恥じらうように彼の腕に絡みつく。
アリシアは瞬きを一つした。
「……つまり?」
穏やかに問い返すと、レオナルトは咳払いをした。
「婚約者を、リリアに替えてほしいんだ。幸い、式はまだ……明後日だ。招待客に事情を説明すれば――」
ぱきり、と。
アリシアの中で、何かが割れた。
「明後日です」
「え?」
「結婚式は、明後日です」
にこり、と微笑む。
「三年待ちました。明後日です」
「だからこそ今なら間に合うと言っているんだ!」
間に合う。
何に?
彼の都合に?
妹との恋路に?
家の体面に?
両親が重々しく口を開いた。
「アリシア。ここは穏便にだな……リリアも適齢期だ。お前はまだ次が――」
ガタン。
アリシアは静かに立ち上がった。
「ありませんわ、お父様」
そして使用人用のワゴンに置かれていた果物ナイフを、すっと手に取る。
「ア、アリシア?」
彼女はゆっくりと歩み寄り、レオナルトの喉元に刃先をぴたりと当てた。
冷たい銀の光が、彼の喉仏に映る。
「あえて結婚式がキャンセルできないタイミングでの相手の変更。リリア、あなたは前からレオナルトと繋がってたわね。」
「何を出鱈目な…」
「肩書きだけ見てすぐに変えるはずがないでしょう、いつも準備周到なあなたが。すべて妹の調査も終えてきてのこのタイミングでの私との婚約破棄なのは誰がどう見たってわかるわ。いつからなの?」
「2年半前から…」
「ほらね。前から調査済みってこと。誰が見たって不自然でしょう、今のタイミングで言うなんて。つまり乗り換え前提での計画ってわけね。そういうのって男がやり得だから認めません」
静かな声だった。
怒鳴りもしない。震えもしない。
ただ、事実を述べるように。
「な、何をするんだ!」
「あなたの存在が半分になればいいんです」
「は?」
「そうすれば私たち姉妹は喧嘩しなくていいのです」
きょとん、とした顔で小首を傾げる。
「もしくはあなたの息の根が止まれば、私たちはそれぞれ新しい婿を迎えます」
「な、何を言うんだアリシア!」
父が叫ぶ。
リリアが悲鳴を上げる。
「何言ってるのお姉様!私たちが勝手に愛し合ったのが悪いのよ!」
「ええ、そうでしょうね」
アリシアはあっさり頷いた。
「ですが」
刃先が、ほんの少しだけ押し込まれる。
「どちらか一方が不利益を被るなんて、こちらの不利益でしょう?」
にっこり。
「私は傷物になって次の婚約者が見つからない。妹のものになれば、私は妹に劣る存在として良縁がさらに遠のく…ならばいっそ、あなたの存在が消えたらいい」
沈黙。
やがて、レオナルトの額に汗が滲む。
「き、君は正気か……?」
「ええ、とても」
アリシアは真っ直ぐ彼を見つめた。
「私は合理的なだけです」
そして、ゆっくりと両親を振り返る。
「お父様、お母様。娘の結婚式を二日前に潰す家に、社交界の信用はございますか?」
両親の顔色が変わった。
「……」
「婚約破棄の理由が『妹と愛し合ったから』。どちらの娘の評判も地に落ちます。ですが――」
ナイフを少し持ち上げる。
「『不慮の事故』なら?」
「ひっ」
レオナルトが情けない声を漏らす。
「や、やめろ!分かった、冗談だ!冗談だよ!」
「冗談で人生を壊される側の気持ちは?」
笑顔のまま、問いかける。
リリアが泣き崩れた。
「ご、ごめんなさい……お姉様、ごめんなさい……!」
アリシアは、ふっと息を吐いた。
そして、ナイフを下ろす。
「では、選びなさい」
静かな宣告。
「結婚式は予定通り。妹とは縁を切る」
「そ、そんな……!」
「もしくは、今ここで婚約を正式に破棄する。ただし理由はあなたの不貞。慰謝料と、私の新たな縁談の保証を文書で残す」
机の上に、いつの間にか用意されていた羊皮紙。
「……準備がいいな」
「三年待ちましたので」
にこり。
「覚悟も、書類も、できております」
レオナルトは震える手でペンを取った。
両親は青ざめ、リリアは泣き続ける。
アリシアは穏やかに微笑んでいた。
(結婚とは契約。契約違反には違約金)
それだけの話だ。
数日後。
社交界に流れたのは、「伯爵令息の不貞による婚約破棄」。
慰謝料を得たアリシアは、堂々と夜会に復帰した。
そして彼女の冷静さと決断力は、むしろ評判を高めることになる。
「公爵令嬢アリシア様は、実に聡明でいらっしゃる」
「感情に流されない方だ」
その噂を、アリシアは静かに聞き流す。
扇の陰で、ふっと笑った。
(次は、もう少し誠実な殿方にしましょう)
――包丁は、使わずに済む相手がいい。
そう心に決めながら。




