”恐怖の18時”とその先にあるもの
朝が訪れた。
だが、街には、もはやかつての活気はない。
パン屋のシャッターは半分だけ開かれ、わずかな灯りが通りを照らす。
通りを歩く人々の肩はすぼみ、足取りは速い。
子供の声も、もう聞こえない。
検問所の兵士たちは、昨日の夜の記録を思い返していた。
「昨夜の件を踏まえ、今日から命令をさらに厳格化する」
無線が低く響く。
口元を隠した兵士の表情には、疲労と緊張が混ざっていた。
街角では、老人が慎重に歩き、家々の窓にはほとんどカーテンが下ろされている。
誰も、街灯の下に立ち止まろうとはしない。
ここでは、18時の夜はもう日常そのものになっていた。
兵士の一人が静かに銃を点検し、もう一人は無線で「巡回ルート異常なし」と報告する。
日常と恐怖の境界線は、すでに見えない。
ただ、街の人々はそれを受け入れるしかなかった。
午前の街は、まだ寝ぼけたように静かだった。
パン屋の扉がわずかに開き、香ばしい匂いが通りに漂う。
店内には兵士も巡回しておらず、客は数えるほどだった。
その時――
一瞬の隙をつくように、黒い影が棚の間を滑った。
店員の声が驚きで震える。
「ちょ、ちょっと待って!誰だ!」
影は素早くパンをかき集めると、扉から飛び出して走った。
店内のカウンターや棚は乱れ、バケットが床に転がる。
店員は呆然と立ち尽くした。
兵士が外の巡回を終えパンを買おうと並ぼうとすると、店内からの叫び声に気づく。
「窃盗だ!逃げたぞ!」
重々しい足音が舗道に響く。
兵士は咄嗟に銃を腰にかけ、影を追う。
通りを駆け抜ける犯人の後ろ姿が、朝の光の中で小さく揺れる。
「止まれ!止まれ!」
兵士の声が街に響き渡る。
だが、影は止まらない。
建物の角を曲がるたび、視界から消えたり現れたりする。
兵士は慎重に距離を詰めつつも、通行人にぶつからないよう足を運ぶ。
通りの突き当たりで、犯人が一瞬立ち止まった。
パンを抱え、荒い息をつくその姿に、兵士の手が引き金に触れる――
だが、決定の瞬間はまだ訪れない。
街の朝は、事件の余波でさらに緊張を帯びていった。
犯人は、通りの奥へ逃げ込んだ。
古い集合住宅の入口。
錆びた鉄のドアを乱暴に押し開け、影は中へ滑り込む。
直後に、バンッと音を立ててドアが閉まった。
兵士が足を止める。
呼吸は荒い。
「……入ったな」
もう一人の兵士が追いつき、無言で周囲を警戒する。
通りには人影はない。
窓という窓が、音もなく閉じられていく。
兵士はドアの前に立ち、拳で強く叩いた。
ドン、ドン、ドン。
「おい!
おとなしくドアを開けろ!」
返事はない。
建物の中から聞こえるのは、
階段を軋ませる音と、どこかで鳴る食器の割れる音だけだった。
「聞こえてるはずだ!」
沈黙。
兵士同士が、視線を交わす。
別の兵士が一歩前に出て、銃を構えたまま叫ぶ。
「警告する!」
「このままなら――ドアを蹴破るぞ!」
その言葉が放たれた瞬間、
建物全体が息を止めたように静まり返った。
中にいるのが、
パンを盗んだだけの市民なのか。
それとも――。
兵士の靴先が、わずかにドアへ向けて構えられる。
決断の時は、
すぐそこまで来ていた。
次の瞬間だった。
「突入する!」
兵士の一人が叫ぶ。
ドンッ!
軍靴がドアを蹴破り、木片が廊下に飛び散る。
埃が舞い、古い建物の中に冷たい空気が流れ込んだ。
「動くな!姿を見せろ!」
銃口を前に、二人は階段へ向かう。
軋む音が、一段ごとに響いた。
二階。
薄暗い廊下の奥、
突然、影が飛び出した。
刃物。
鈍く光る刃が振り下ろされる。
「敵だ!」
反射的に引き金が引かれた。
銃声が室内に反響し、
犯人の体はその場に崩れ落ちる。
刃物が床を転がり、
もう動かない。
数秒の沈黙。
「……制圧完了」
兵士は息を整えながら、部屋を見渡す。
簡素な家具。
散らかった床。
逃げ場のない空間。
その一角、
古い机の引き出しに手がかかる。
ゆっくりと、開けた。
中にあったのは――
手製と見られる手榴弾。
粗雑な加工。
だが、十分に殺傷力を持つ形。
その横に、
拳銃が二丁。
弾倉は装填済みだった。
「……やはり、ただの窃盗じゃない」
誰かが、低く言う。
無線が入る。
「対象は武装。
爆発物と銃器を確認。
対応は正当と判断される」
淡々とした声が、
すべてを終わらせた。
階下では、
砕けたドアが静かに揺れている。
この街で、
疑う理由は、また一つ増えた。
そして、
次の18時は、
さらに近づいていた。
陽が傾き、
街路に伸びた影がゆっくりと重なっていく。
時計台の針が、
十八時へ近づいていた。
商店のシャッターはすでに閉じられ、
窓という窓には厚いカーテン。
通りには、誰もいない。
足音も、声も、
風に揺れる紙屑の音すらない。
検問所。
兵士たちは、いつもより多く、
いつもより静かだった。
重機関銃は据え付けられ、
銃口は通りの中央を睨んでいる。
誰も、無駄口を叩かない。
十八時。
何も起きない。
銃声も、
叫び声も、
無線の警告音もない。
ただ、
街灯が予定通り点き、
薄い光が舗道を照らしただけだった。
「……来ないな」
一人の兵士が、
思わずそう呟いた。
「来ない方がいい」
別の兵士が、即座に返す。
だが、その声には、
安堵よりも、
違和感が混じっていた。
無線が鳴る。
「南区、異常なし」
「北側路地、動きなし」
「全検問所、状況変わらず」
報告は、淡々と続く。
それが、
かえって不気味だった。
通りの奥。
暗い家の二階で、
誰かがカーテンの隙間から外を見ている。
だが、
それもすぐに閉じられた。
見られること自体が、危険だからだ。
「……静かすぎる」
兵士の一人が、
引き金から指を離さずに言う。
誰も否定しない。
その夜、
18時は、何事もなく過ぎた。
だが、
何も起きなかったことこそが、
この街にとって
最も不穏な出来事だった。
嵐の前の静けさだと、
誰もが、理解していた。
翌朝、街はわずかに息を吹き返していた。
昨日と同じ通り。
同じ建物。
だが、人の気配が、ほんの少しだけ戻っている。
「……昨日は、何もなかったな」
市場の端で、低い声が囁かれる。
「銃声、一発も聞こえなかった」
それは、希望というより
確認作業のような口調だった。
シャッターを半分だけ開ける店。
窓を少しだけ開ける家。
人々は、
外の様子を確かめながら動いている。
「今日は……大丈夫なんじゃないか?」
誰かが、そう言った。
それを聞いた別の誰かが、
小さく頷く。
子供の声が、
ほんの一瞬だけ響いた。
すぐに、大人が口を塞ぐ。
「静かにしろ」
だが、その声には、
昨夜までの切迫感はなかった。
路地裏では、
二人の市民が立ち話をしている。
「兵士も、昨日は撃たなかった」
「少し、落ち着いたんじゃないか?」
言葉は、
自分に言い聞かせるようだった。
安心したいという感情が、
恐怖を押しのけようとしている。
検問所の前。
昨日よりも、
足を止める人間が多い。
視線は落としたまま。
だが、逃げるような動きではない。
兵士たちは、
その変化に、気づいていた。
「……人が増えてるな」
「昨日の夜が、効いたな」
その言葉に、
誰も異を唱えなかった。
街には、
「今日は大丈夫だった」
という空気が、
静かに広がっていく。
だが、それは――
事実ではない。
それはただ、
何も起きなかった一夜を、
都合よく解釈しただけだった。
この誤解が、
次に何を呼ぶのか。
それを、
街の誰一人として、
まだ知らなかった。
通りの中央を、一人の男が歩いていた。
周囲を気にするように、
立ち止まり、また歩き出す。
進行方向は定まらず、視線だけが忙しく動いている。
「……あの動き、怪しいな」
巡回中の兵士が足を止める。
「おい、そこの君」
男の肩が、わずかに跳ねた。
「少し、確認させてもらう」
検問所ではない。
通りの真ん中での、簡単な職務質問だった。
「身分証を」
男は一瞬ためらい、
ゆっくりと上着の内側に手を入れる。
兵士の視線が、
自然とその手元に集中する。
差し出された身分証を受け取り、
内容を確認する。
名前。
住所。
職業。
特に、異常はない。
「……問題はなさそうだが」
兵士がそう言いかけた、その時だった。
乾いた破裂音。
誰も、すぐには理解できなかった。
次の瞬間、
巡回していた別の兵士が、
胸を押さえて倒れた。
制服に、赤い染みが一気に広がる。
「――ッ!」
声にならない音。
体が地面に叩きつけられ、
動かなくなる。
「狙撃だ!」
誰かが叫ぶ。
兵士たちが一斉に身を伏せ、
銃口が建物の方へ向く。
弾が飛んできた方向――
家の二階の窓。
カーテンが、
ほんのわずかに揺れていた。
「衛生兵!」
「周囲を封鎖しろ!」
怒号と無線が、
一気に街を満たす。
職務質問を受けていた男は、
その場に立ち尽くしたまま、
震えている。
身分証が、
舗道に落ちていた。
さっきまで漂っていた
「今日は大丈夫だった」という空気は、
完全に消え失せた。
街は、再び理解する。
何も起きなかったのではない。
起きる準備が、整っていただけだ。
階段を上がる足音は、極力抑えられていた。
壁に背をつけ、
銃口は常に前方――。
先頭の兵士が、
窓のあった部屋のドアを蹴り開ける。
その瞬間だった。
部屋の中央に、
ピストルを構えた男。
視線が交錯する。
ほんの、一瞬。
だが、速さが違った。
訓練された兵士の指が、
反射的に引き金を引く。
二発。
乾いた音が狭い室内に響き、
暴徒は銃を握ったまま後方に倒れ込んだ。
床に落ちたピストルが、
虚しく転がる。
「制圧!」
短く、はっきりとした声。
続く兵士たちが、
一斉に部屋へ流れ込む。
「右、クリア!」
「左、異常なし!」
クローゼット。
ベッドの下。
カーテンの裏。
一つひとつ確認され、
銃口は一度も下がらない。
「二階、クリア」
無線に報告が入る。
室内には、
倒れた暴徒と硝煙の匂いだけが残った。
建物を出た兵士たちは、
無言のまま通りを進む。
市民の姿はない。
窓も、すべて閉ざされている。
街は、息を潜めていた。
やがて、検問所が見えてくる。
兵士たちは配置に戻り、
再び銃を構える。
いつもと同じ位置。
だが、空気はまったく違う。
「……今日は、まだ終わってないな」
誰かが、低くつぶやいた。
18時の夜は、
まだ、街を離れてはいなかった。
18時まで、あと二十分。
検問所の空気は、張りつめたままだった。
重機関銃の銃身は夕焼けを反射し、兵士たちは誰も口を開かない。
そのとき――
無線が、甲高く鳴った。
「全検問所へ。緊急連絡だ」
全員の視線が、無線機に集まる。
「――暴動を主導していた反乱軍リーダーを確保。現在、完全拘束下にある」
一瞬、理解が追いつかない。
次の言葉で、ようやく実感が湧いた。
「本日18時以降、警戒レベルを段階的に引き下げる」
誰かが、息を吐いた。
「……終わった、のか?」
誰も「そうだ」とは言わなかった。
ただ、銃を構えた腕の力が、ほんの少し抜けた。
数日後。
検問所は、まだそこにあった。
だが――
重機関銃は撤去され、
兵士の数も半分以下になっている。
交代の合間、ある兵士が言った。
「18時だな」
時計を見る。
街は暗くならない。
銃声も、ない。
「……静かすぎるな」
「それでいい」
そう言って、兵士は街を見渡した。
守る対象は、まだ目の前にある
その日は、ラジオの音で始まった。
『――緊急ニュースです。昨夜未明、街の暴動を指揮していた人物が拘束されました』
パン屋の店主が、手を止める。
客たちが、顔を見合わせる。
「……捕まった?」
「本当に?」
誰かが、小さく笑った。
久しぶりに聞く、安心した声だった。
18時。
誰も、急いで帰らなかった。
店の灯りは消えず、
シャッターの音も響かない。
通りを歩くと、検問所が見える。
――ある。
だが、前とは違う。
兵士は少なく、
あの大きな銃もない。
銃口は下げられ、
兵士は、ただ立っている。
市民は思う。
「もう、大丈夫なんだ」
だが同時に、胸の奥で気づいていた。
完全に元に戻ったわけではないと。
恐怖の18時は、確かに消えた。
けれど――
検問所は残り、
記憶も、消えなかった。
街は、生き延びた。
それだけの話だ。
18時。
鐘も、サイレンも鳴らなかった。
それでも、街の人々は無意識に空を見上げる。
かつて“死の時間”だった、その境目を。
検問所は縮小され、兵士は二人だけになった。
かつて重機関銃が据えられていた場所には、
今は何もない。
地面に残る、重たい三脚の跡だけが、
ここで何があったのかを語っている。
若い兵士が言った。
「結局……俺たちは、守れたんでしょうか」
年上の兵士は、しばらく答えなかった。
夕暮れの街を見つめ、
ようやく口を開く。
「……生き残った。それだけだ」
無線は静かだ。
銃は、下げられている。
それでも彼らは立ち続ける。
誰かが“また始める”かもしれないことを、
知っているから。
パン屋のシャッターは、閉まらなかった。
店主はいつもより多めにパンを焼き、
夕方でも灯りを落とさない。
兵士が、入ってくる。
あの兵士だ。
何度もバゲットを買っていった、あの男。
「今日は……一つでいい」
店主は、袋に入れながら言う。
「静かになりましたね」
兵士は少し考え、答えた。
「ええ。でも、忘れちゃいけない」
金を置き、立ち去る。
店主は、その背中を見送りながら、
胸の奥が少しだけ痛んだ。
夜になっても、人は歩いている。
子供の笑い声が、久しぶりに聞こえた。
だが、
割れた窓はそのままで、
壁の弾痕も消えていない。
誰もが知っている。
この静けさは、奇跡の上に成り立っていると。
18時を、過ぎた。
何も起きない。
それでも街は、完全には安心しない。
それでいいのだと、
誰もが心のどこかで思っている。
忘れた街は、また同じ夜を迎えるから。
検問所の前を、一人の市民が通り過ぎる。
兵士は、止めない。
ただ、互いに一瞬だけ目を合わせる。
敵でも、味方でもない。
同じ時間を生き延びた者同士として。
この街では、確かに多くの血が流れた。
だが同時に、
何も起きなかった夜も、確かに存在した。
それを覚えている限り、
この街は――まだ、終わっていない。
――完――




