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小説

タイムマシンはつまらない

作者: ちりあくた

 2045年8月、人類がタイムマシンを起動させてから3ヶ月。


 北海沿岸の人工島には、巨大な立方体型の建造物があった。表面は一面グレーで、ほのかに照りつける陽光がたちまちに吸い込まれていく。


 それが、時間管理局の「入時審査」棟である。周囲には柵も旗もなく、施設を示す看板すらない。ただ海風が、角ばった外壁をかすかに叩いてゆくのみだった。近づくほどにこの建物は、世界を構成するひとつの「機能」と呼ぶほかなくなる。


 正面入口には、透明度の高い強化ガラスの扉がひっそりと埋め込まれている。扉は自動で開くわけではなく、渡航者の生体情報が照合されたときに、初めて低い駆動音とともに動き出す。それは歓迎というより、あらかじめ決められていた動作を履行しているだけの、乾いた反応だった。


 内部はさらに無機質で、天井の白色照明がどこまでも均一に床を照らしている。影が生じないほど滑らかな光の下、渡航者たちはゆっくりと進み、ひとつの通路へと吸い込まれていく。そこが、「入時審査」の列だ。


 長い通路には、ほんのりと背筋を撫でるような冷気が流れていた。壁面には「2045年以降の出来事」のグラフが並び、赤いラインが確定された歴史を示している。並んでいる人々も、どこかその赤い線に似ていた。無言で、乱れず、予定された道筋を歩む線分のようであった。


 通路の奥には十数基のガラスブースが並んでおり、ひとつひとつに検査官が座っている。ブースの前には呼び出し番号が点滅し、タイムマシンから到着した者がひとりずつ、そこへ進んでいく。


 ブースの内部は、外界と同じく静まり返っていた。厚いガラスに隔てられ、わずかな話し声も外には洩れない。検査官は、個々の端末に映し出される「時系列照合結果」に目を走らせ、渡航者が「観測された通りの人物」であることを確認しながら、淡々と質問を繰り返す。


 検査官のサエキは、あるブースに腰を下ろしていた。彼の朝は、ほとんど毎日ここから始まる。椅子の硬さも、机の高さも、端末の読み込み速度も、三ヶ月間変わったためしがない。


 単調な朝の光景を、彼は時折「同じ段落を何度も書き直すようだ」と思うことがあった。誰にも言っていないが、サエキは密かに作家を目指していて、家に長編の草稿を抱えていた。進まない物語の行末だけが、いつも頭のどこかに残ったままだった。


「次の方、どうぞ」


 マイク越しに発した自分の声が、ブース内で乾いた反響を返す。呼び出しの番号が消え、通路の列から一人の渡航者がゆっくりと歩み出た。未来から来た者は大体そうであるように、その足取りには迷いがない。


「どうも、ケイン・ウィンターズです。2050年から来ました」


 サエキは軽くうなずき、端末に表示された情報を確認する。


 ……どうやら彼は、2050年のシカゴでフォークバンドをやっているらしい。画面上には、ウィンターズの生体データと、2050年時点の映像記録が並んでいた。赤い枠線が出ているのは、「彼がここに現れること」が既知の事象である証拠だ。


「ウィンターズさん。渡航目的を確認します」


 いつも通りの定型文。

 ウィンターズは肩から提げた黒いケースを軽く叩き、苦笑した。


「ロンドン市内の……ああ、セント・ジェームズ公園ですね。そこで弾き語りをすることになってます」


 端末にも同じ文章が映っている。


『2045年 9月14日 16時12分、少女L・A(当時14歳)が通りがかる』。

『対象人物は後の議会議員。生存率の変動を防ぐため、渡航者は観測時刻ちょうどに、公園で演奏を行うことが確定している』。


 サエキはそれを視線で追いながら、口調だけは職務的に保つ。


「予定された通りの行動をお願いします。演奏場所は、現地担当官が案内します」


「ええ、わかってますよ」


 ウィンターズは穏やかな声で答えたが、その目には遠い疲れがあった。

 無意識的に、サエキは口を開いていた。


「素晴らしい使命だと思いますよ。今の彼女は思い詰めていて、自殺すら考えているんです。それをあなたの歌が救うだなんて、なかなか……」


 彼が形式以上の一言を添えた瞬間、ウィンターズはふっと笑い、首を横に振った。


「……期待してた救い方はそんなんじゃない。もっとも、2045年のあんたに言ってもしょうがないだろうが……タイムマシンが生まれた後の世界は、つまらないよ」


 言葉は静かだったが、ガラスに反響して重く響いた。

 サエキは返す言葉を持たなかった。ただ、決められた動作のようにスタンプを押し、許可証をスロットに差し込んだ。


「入時審査、通過です」


 ウィンターズは一礼し、振り返ることなく通路の奥へ消えた。

 歩き方の迷いのなさは、それが「観測された通り」の足取りだからだろう。


 サエキは端末を閉じ、短く息を吐いた。

 いつも通りの審査。いつも通りの定型の一件。

 それなのに、胸の奥に、わずかな違和感が残った。


 その違和感を振り払うように、サエキは椅子の角度をほんの少しだけ直した。ついでに、背もたれに預けていた重心を前へ移し、端末の照度を一段上げる。たったそれだけの動作なのに、ガラスの内側に閉じ込められた空気がわずかに揺れたような気がした。


 呼び出し番号が切り替わる。新しい番号が白色光に照らされて点滅した。


「次の方、どうぞ」


 サエキの声は先程と同じ調子だったが、どこか奥に重みが残っているような気もした。


 列から、一人の男が歩み出る。

 背は高く、コートのような黒い上着を身につけているが、それが時代を経たものなのか、流行なのかはわからない。未来の服装は、流派のようなものが数年で入れ替わる。サエキがその変化を覚える必要はない。未来から施設に届く「観測映像」が、あらゆる正しさを保証してくれていた。


「……ダニエル・コズロフ。2062年から」


 低く押し殺した声だった。

 渡航者カードを差し出す指先が、かすかに震えている。それは緊張ではない。もっと深い、凍えた怒りか、諦めに近いものだ。


 サエキはカードを受け取り、端末へ読み込みをかける。

 瞬時に、膨大なデータがパネル一面に広がった。


 映像記録――そこには、銃声が飛び交う瓦礫の街路。

 炎と黒煙。混乱する市民の列。

 そして、2062年の東欧で起こったとされる、あの内乱の断片。


 画面の右下に、赤い枠が現れる。


『2045年 10月25日、対象人物は暗殺者として観測されている』。


 淡々と表示される文字列と、目の前に立つ男の沈黙が、不気味なほど一致していた。


「コズロフさん。渡航目的を確認します」


 サエキが言うと、男はゆっくりとうなずき、顔を上げた。

 その瞳は、光の反射を吸い込んだように暗かった。


「……わかってますよ、時間管理局から嫌というほど聞きました。俺が、あの野党党首を撃つ。それで未来の歴史が狂うんだ。全部、知ってる」


 声は淡々としていた。しかしその沈黙には、ひび割れた氷のような危うさがあった。


「発端は、その死です。ご存じでしょうが……俺の時代では、移民排斥を掲げた過激派が政権を取った。内乱が起きたのも、その『揺り戻し』みたいなものだ。…………友人が死んだ。戦争に巻き込まれてな」


 サエキは、喉がわずかに詰まるのを感じた。

 機械のように審査を続けるべきなのに、心が反応してしまう。


「……つらいことでしたね」


 形式にもならないほどの、薄い慰めの言葉。

 しかしコズロフは短く笑い、顔をゆがめた。


「違うんだよ、検査官さん。つらいだけじゃない。……滑稽なんだ。俺の友人が死んだのは、あの内乱があったから。内乱があったのは、その原因の一部に、2045年の暗殺があるから。そして、その暗殺者は――」


 コズロフは自分の胸を指差した。


「――今の俺だ。つまり、友人は俺が殺したようなものなんだよ」


 その声は、怒りでも悲しみでもなかった。

 ただ、すべてを諦めた者が到達するような、静かな水底のようだった。


 サエキは言葉を探したが、何も出てこなかった。未来から来る者たちが、自分たちの「予定」を語るとき、検査官は何も言えない。どんな言葉を返しても、それは歴史を書き換える力を持たない、ただの音にすぎなかった。


 彼らは知っている。

 自分たちは、すでに決まっている線の上を歩いているだけなのだと。


「知ってるよ……俺がここで立ち止まる歴史は、ないんだろう」


 コズロフは短くそう言うと、許可証を受け取り、歩き出した。

 その足取りに迷いはなかった。薄暗い通路へ吸い込まれていく背中は、逃れられない一点へ向かう矢のように、まっすぐだった。


 ブースの扉が静かに閉じる。また、冷たい空気が戻ってきた。


 サエキは、胸の奥にできた重石のような違和感を押しながら、端末の画面を閉じた。机に置いたメモ帳の端が視界に入り、思わず視線をそらす。昨夜、物語の続きを書こうとして、白紙を前に固まってしまったことを思い出し、軽く息を吐く。


 ……ここには、未来へコールドスリープで送り返される者もいる。過去へ降ろされる者もいる。だが、彼らの足取りはどれも同じだ。すでに観測された「道筋」に沿っているだけだ。


 呼び出し番号が切り替わった。

 また別の未来が、こちらへ歩いて来る。


「次の方、どうぞ」


 列の奥から、一人の男が歩み出た。

 年齢は四十前後に見えた。背筋は伸び、歩き方には癖も迷いもない。未来から来る者は、多かれ少なかれ冷静さを装うが、この男にはそれとも違う、どこか見覚えのある落ち着きがあった。


「……失礼。入時審査に来ました」


 静かな、低い声だった。


 その瞬間、サエキは理由もなく、胸の奥で何かが引っかかった。

 声の調子が、どこか自分に似ている。いや、似ているどころではない。ほぼ同じ響きだ。


 男は椅子に座ると、ふっと苦笑した。


「やっぱり……そういう顔をしてたんだな、俺は」


「……え?」


 サエキはまばたきを忘れた。

 男の目は、サエキの困惑を予期したように、柔らかく細められていた。


「驚くだろうけど、まあ……二十年後のあなたさ。サエキ・タモツ。上級調査官だ」


 淡々と告げられた名前は、サエキ自身のものだった。


 サエキが端末に目を落とすと、そこには確かに、彼自身と同じ顔が映っていた。付属していた2065年の記録映像を再生する。映し出された男は、肩章に「Senior Investigator」の刻印があり、今の自分が持ち得ない落ち着きと、どこか疲れた影が刻まれている。


 赤い枠。

『観測ずみの事象』。

 画面は無慈悲なほど簡潔だった。


「……渡航目的を確認します」


 職務的な言葉だけが口をついて出た。


「ブラックリストの紛失だよ。一度だけ、ここで重要データが失われるって記録がある。あれを起こしに来た」


 さらりと言う声に、不可思議な軽さがあった。

 本来なら違反に決まっている。だが「そういう歴史」が観測されている以上、止めることはできない。


「そんな……本当に?」


「本当に。本当に、そういう歴史なんだ」


 未来のサエキは肩をすくめ、ブースの天井照明を一度だけ見上げた。その仕草は、サエキがよく原稿に行き詰まったときにやる、癖そのものだった。


「まあ、止めたい気持ちはわかるよ。俺だって当時は『そんな馬鹿な』って思った。だけど、起きるものは起きる。歴史はすでに読まれた本みたいなもんでさ。読み返したところで、行の並びは変わらないんだ」


 未来のサエキは、机の上に置かれた許可証用のタブレットを、指先で軽く叩いた。カン、と乾いた音が一つ響く。


「……上級調査官。あんた、未来では作家になってないんですね」


 言った途端、サエキは少しだけ後悔した。

 だが未来のサエキは、その問いを待っていたと言わんばかりに、ニヤリと笑った。


「ならなかったよ。あの頃は頑張ってたけどな。モチベーションがな……だんだん続かなくなる。理由はわからない。でも、代わりに家族ができる。上級調査官の資格だって取って、まあ、それなりに忙しくて、幸せで……思ってたのと違う人生だけど、悪くない」


「悪くない、ですか」


「そうさ。少なくとも、何かを後悔してる顔じゃないだろ? ほら」


 未来のサエキは軽く拳をつき出した。

 迷った末に、サエキも同じく拳をぶつける。

 ポン、と子どもの遊びのような音が響き、その瞬間だけブースが少しだけ温かくなった気がした。


「じゃ、そろそろ行くよ。ブラックリストの件、同僚には内緒にしといて……ああ、紛失が起きたんだから、言わなかったんだろうな」


 ブースの扉が静かに開くと、再び冷たい空気が流れ込んできた。未来のサエキは立ち上がり、許可証を軽くポケットに滑り込ませると、振り返らないまま、通路の奥へと消えた。


 サエキは椅子に座り直し、端末を閉じる。手元のメモ帳の上で、ペンがわずかに光を反射する。そこに残された白紙のページが、自分の書こうとしていた長編の物語を、まるで遠くから見下ろしているように感じられた。


 気怠げに息をつき、メモ帳の白紙をそっと押さえた。家で帰りを待っているはずの草稿が、今の自分にとっては重荷に思えてきてしまう。未来の自分が示した、達成される平穏な日常。家族のこと、仕事のこと、作家になれなかったこと……しかし、それらすべてが「予定」の一部なのだ。改めて認識すると、筆を取る気はどこか萎えてしまった。


 天井の白色光が静かに通路を照らす。列は淡々と流れ、次の渡航者の足音がかすかに響く。未来も過去も、すべての線は赤く刻まれ、観測され、通過する。ならば、自分に許される行動とは何なのだろう?


 サエキはため息をつき、端末を再び立ち上げた。目の前のチェックリストを無表情に確認しながらも、心のどこかで笑っている自分に気がついた。


 ……上級調査官の資格勉強、始めなくちゃなあ。


「次の方、どうぞ」

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