第2話:薬湯と妃と、笑わぬ侍女
後宮の廊下は、今日も静まり返っていた。
細い硝子窓から差し込む陽の光は、外の世界と変わらぬ色をしている。
――しかし、空気は重く淀んでいる。
重ねられた化粧の匂いと、毒の混じった嫉妬の影が入り混じる密室の空間。
(桃花湯の検査、試薬反応は陽性。これは確かな証拠)
青焔は医学局の仮の宿舎で、いま整理した検査結果の帳面を閉じた。
桃の花と山査子から作るはずの薬湯に、強力な神経毒である白鉛――鉛を含む粉末顔料が混入していたのだ。
(誰が、どうして……)
この問いに答えを出すため、青焔は翌朝、薬湯の調製所へ向かった。
後宮の薬湯工房には、いつも騒がしい女官たちの声が響いていた。
だが今日は違った。
静まり返り、どこか不自然な緊張感が漂う。
その奥、黒衣に身を包み、まるで氷のような表情のまま佇む女性がいた。
――女官頭、阿紅。
「医術官様。ご苦労様です」
彼女の声は滑らかで冷ややかだった。言葉の裏に、隠された管理の圧力が垣間見える。
(被害者の多くが、この阿紅の配下にあった)
青焔は彼女を注意深く見つめた。
「桃花湯の原料はどこから?」
「薬務庁からの正式納入品ですわ。ご安心ください」
「だが鉛が混入していた」
阿紅は微動だにせず、わずかに瞳を揺らすだけだった。
「白鉛は化粧品に多く使われています。上級妃は肌に塗ることも多いので、桃花湯だけが原因とは限りません」
逃げ口上とわかっていながら、青焔は言葉を濁した。
調剤棚の隅に置かれた陶器の容器に目をやる。
「それは?」
「輸入香料です。高官の妃が求めておられます」
香りは独特だった。石油系の油のように鼻を刺激する。
(この香料にも鉛系化合物があるかもしれない)
それを確かめるには検体が必要だ。
午後、青焔はある妃のもとを訪ねた。
妙貴人――皇帝の夜伽を一度許された下級妃だ。
彼女は美しい黒髪を控えめにまとめ、目元を伏せていた。
「あなたが、あの……毒の鑑定官?」
「ええ、似たようなものです」
「私も、死ぬのですか……?」
「いいえ。今日から、その香料をやめれば大丈夫」
青焔は彼女の肩にうっすら浮かぶ黒ずんだ痣を指さした。
「これは白鉛の初期症状です。皮膚の下に蓄積しています」
妙貴人の瞳が震えた。
「美しくあろうとしただけなのに……」
その呟きに、青焔は優しく答えた。
「その思いは、誰かに利用されているのです」
香料の分析でも鉛成分が検出された。
阿紅の管理するルートと一致したが、調合記録には名前がなかった。
(誰かが非公式のルートで、毒入り香料を流している)
つまり、これは個人の犯行ではなく、後宮内に広がる組織的陰謀だ。
青焔は帳面を広げ、香料の流通経路を追い始めた。
(美しさという欲望に毒を混ぜて操る――恐ろしい罠だ)
そして遠く別の宮殿から、新たな妃が倒れたとの報が届く。
香と毒が渦巻く女の園で、女性医術官・青焔の闘いは始まったばかりだった。