第一章:空白と記憶のはざまで
──白い。
視界のすべてを、無数の雪片が舞っていた。風は鋭く、空気は凍っていて、立っているだけで肌が裂けそうだった。足元は凍結した岩肌。そこに小さな足跡が、点々と続いている。
その先に、ひとりの少年がいた。
少年──海は、斜面で転び、雪の上にうつ伏せに倒れていた。呼吸は荒く、唇は青ざめている。体温が限界を超えかけてい
た。
「っ……う……」
声にならない声を漏らしながら、海は立ち上がろうとする。しかし、足が言うことをきかない。手も、手袋の中で震えている。意識が少しずつ遠のいていく。
……そのときだった。
「……?」
視界に、黒い影が立った。
男だった。顔すらぼんやりとして見えない。口も利かない。だが、彼は海に向かって、ゆっくりと、無言で右手を差し伸べた。
その手は大きく、傷だらけだった。だが、何よりも印象的だったのは──目。
その目には、諦めという言葉がなかった。
絶望を知り、苦難を乗り越え、ただ前へ進むことだけを選び続けたような、そんな目。
そしてその瞬間、少年の中に、ある「感情」が生まれた。
──この人みたいになりたい。
──どれだけ倒れても、諦めない人間でいたい。
その日から、海の中に宿った決意は、何よりも確かで、何よりも強かった。
* * *
──目を覚ましたとき、海は宇宙船の座席にいた。
すでに到着間際だったようで、船内アナウンスが静かに流れている。
「まもなく、エリズコアに到着いたします。降機準備をお願いいたします」
海は深く息を吐いた。目の奥には、あの男の視線が今も焼き付いている。記憶の大半が失われているなかで、なぜこの幼いころの記憶だけが色濃く残っているのかはわからない。
だが──それで十分だった。
「……行こう」
誰に言うでもなく呟き、荷物ひとつを手に、彼は立ち上がった。
* * *
エリズコアは──想像を遥かに超えていた。
巨大なドーム状の空間のなかに、建築物や施設が立ち並び、人々が行き交う。中核の管制塔は星を象ったように輝き、周囲にはさまざまな種族の人々が溶け合って生活していた。
まさに、世界の心臓。
「あんた、初めてかい? エリズコア」
と、声をかけてきたのは案内役の中年女性だった。階級章をつけており、どうやらステーション内の管理局に所属しているらしい。
海はうなずいた。
「ここが……エリズコア?」
「そう。ここがエリズコアさ。人類の砦、いや、あらゆる生命の交差点ってとこだね。ここから、世界は動くのさ」
女性はにやりと笑った。
「どこから来たんだい?」
「……わからない。記憶がないんです。気づいたら知らないところにいて、救助されて、自分も誰かを助けたくてここに」
女性はしばし無言になったが、やがて優しい声で言った。
「ま、よくある話さ。世界ってのは広すぎて、何を失ったかすらわからないやつが山ほどいる。あんたも、ここから始めたらいい」
彼女の声は優しかったが、どこか距離のある響きだった。
きっと、何人もの始まりの顔を見てきたのだろう。
「……この世界は、今……どうなってるんですか?」
「世界、ねぇ」
女性は少し遠くを見るような目をした。
「今は、一応、平和。大戦も終わったし、天権の動きも静か。でも……それは“今は”って話よ。資源の枯渇、エネルギーをめぐる争い、神の気まぐれ──世界はいつでも、崩れ落ちる寸前だ」
海は小さく息を呑んだ。
「そんな中で、みんな……」
「生きてる。戦いながら、笑いながら、泣きながら。誰かの希望になりたいなら、今がそのときかもね」
その言葉を聞いたとき、海の胸に何かが灯った。
助けを待つ人がいるなら、自分は──
「……この世界で、人を守りたい」
女性は驚いたように海を見つめた。だがすぐに、柔らかく微笑んだ。
「じゃあ、推薦してやるよ。“ヴァルハ部隊”に」
「ヴァルハ部隊?」
「あんたみたいな人間は嫌いじゃない。ヴァルハ部隊は、武力で世界を守る部隊。厳しいが、やりがいはある。よければ面接を受けてみな」
海はうなずいた。
迷いはなかった。あの雪山の記憶、あの手の温もり──自分はまだ、生きている。諦めてなどいない。
ならば今度は、自分が誰かにその手を差し出す番だ。
「はい。行ってみます。……僕にできるなら」
「できるかどうかじゃない。やるんだよ、坊や」
その言葉に、海は少し笑った。
──こうして、海の物語は、再び“はじまり”を迎えた。