鯉のぼり
子供の日はとっくに過ぎたというのに、帰り道で見かけた鯉のぼりはまだ空を泳いでいた。風に揺れる姿をぼんやりと眺めながら、昔を思い出す。
俺の実家は田舎で、毎年立派な鯉のぼりを上げていた。友達の中には、庭が狭くて鯉のぼりを立てられない家もあったが、その分、俺の家の大きな鯉のぼりはちょっとした自慢だった。しかし、今思うと、俺はこの文化にどこか冷めた視線を向けていた気がする。
鯉のぼりだけじゃない。ひな祭り、結婚式、葬式——日本の伝統行事とされるものに対して、俺は少し否定的な気持ちを抱いていた。いや、文化そのものというより、「昔からの風習です」という顔をしながら、実際は近代になって形作られたものが多いことに違和感を覚えるのだ。
本当に昔からこんなに大きな鯉のぼりを個人で所有していたのか? 雛人形は? 結婚式は昔から数百万もかかるものだったのか? 葬式は? どれも昭和のマーケティングの産物ではないのか。それなのに「やるのが当たり前」と言わんばかりに、日本文化の顔をしていることが気に食わなかった。
——いや、気に食わないというのは言い過ぎか。実際、今の不景気な時代に、こうした行事を維持していくのは若者にとって負担が大きすぎる。だったら、その分を家族のために使いたいと思うのは当然じゃないか。成長して、そんな風に考えるようになった自分を少し大人になったものだと感じながらも、どこか腑に落ちない気持ちを抱えていた。
「ん?鯉のぼり?あったよ?」
「え? 一般の家にも?」
「うん。都市部の方なら、普通の家でも掲げてたところはあるよ。さすがに今みたいに大きなのを何匹もってわけじゃないけどね」
ココはテレビを見ながら答える
どうやら俺の考えは、完全に見当違いだったらしい。申し訳ない。
「そういえば、樹の家の鯉のぼりは大きかったよね。あの辺じゃ一番立派だったんじゃない?」
「初孫で浮かれたじいちゃんが、バカでかいのを買ったらしい」
「あー、初孫あるあるかもね。でも、なんで急に鯉のぼりの話?」
「いや、帰り道に見かけて、ふと思ったんだよ」
「あー、それはあんまりよろしくないかもね」
ココがテレビから視線を外し、俺を見る。
「なんで?」
「もうすぐ梅雨だからね」
「梅雨? あぁ、雨に打たれると傷みやすいとか、そういうことか?」
「それもあるけど、私たち的な話をすると雨を受け続けて龍になっちゃうからだよ」
「……は?」
「聞いたことあるでしょ? 鯉が滝を登って龍になるってやつ」
「いや、まぁ聞いたことはあるけど……鯉のぼりが雨に打たれるなんて、よくあることだろ?」
「全部が全部そうなるわけじゃないよ。でも、なる可能性があるだけでもまずいの」
「何がまずいんだ? 龍って祀られたりしてるし、むしろ良いことなんじゃないのか?」
「それは、あくまで人間が願いを込めて『立身出世』の象徴として扱ってるからでしょ? でも、本当の龍は水の化身。水そのものが姿を持った存在なの」
「……それで?」
「新しい龍が生まれるってことは、大なり小なり、水害が増えるってことだよ」
ココがそう言った後、一瞬だけ沈黙が流れた。しかし、次の瞬間、彼女は肩をすくめて言い足した。
「まぁ、龍なんて私も見たことあるわけじゃ無いけどさ」
それだけ言うと、ココは再びテレビに視線を戻し、手元のお菓子をぽいっと口に放り込む。まるで大したことじゃない、というように。
——本当に、大丈夫なのか?
そんな疑問が頭をよぎったが、俺は深く考えるのをやめた。龍だの水害だのといった話が、本当に現実に関わるとは思えなかったからだ。
翌日、朝から降り始めた雨は、大学へ向かう道のりをじんわりと濡らしていた。傘を差しながら、俺は昨日のココとの会話を思い出していた。
「雨を受けて龍になる」
馬鹿げた話だとは思う。でも、どうしても気になってしまう。
そんな気持ちに突き動かされるように、昨日鯉のぼりが掲げられていた場所へと目を向けた。
——無い。
最初はただ、雨で視界が悪いだけかと思った。しかし、よく見ると、支柱に何かが絡みついている。雨に濡れて布がへばりついているせいで分かりにくいが——昨日まで一番上で風に靡いていた、大きな黒い鯉のぼりが消えていた。
強風で飛ばされたのか? それとも、誰かが片付けたのか?
……いや、そもそも、今の時期まで片付けていなかったものを、このタイミングでわざわざ撤去するだろうか?
鯉のぼりが消えた理由を考えているうちに、ふと、昨日のココの言葉が頭をよぎった。
「新しい龍が生まれるってことは、大なり小なり水害が増えるってことだよ」
俺は思わず空を見上げた。
厚い雲が空を覆い、降りしきる雨は少しずつ強まっている。
胸の奥に広がる一抹の不安を振り払うことができなかった。
講義が終わり帰る頃には、雨はすっかり上がっていた。
じめっと湿った空気が肌にまとわりつくなか、俺は今朝見た鯉のぼりのことが気になり、足早に歩く。
鯉のぼりが掲げられていた場所に近づくと、自然と視線がそちらへ向かった。
——ある。
確かに、今朝はなかったはずの黒い鯉のぼりが、何事もなかったかのように風に揺れている。
単なる見間違いだったのか? それとも……
「なぁ、あの鯉のぼりなんだけど…」
そう言いながら後ろを振り向くと、ココがすぐ傍に居た。
「昨日言ってたやつ?」
「そう。今朝見たときは、一番上の黒い鯉のぼりがなかった気がしたんだよ」
「ちゃんと見た? 樹の目って濁っててよく見えないでしょ?」
「急に毒吐くなよ、びっくりするだろ」
「事実だから。でも今はあるじゃん」
「いや、だからこうして聞いてるんだよ」
「私は今朝この鯉のぼりを見てなかったからなぁ」
ココはそう言って、ちらりと黒い鯉のぼりを見上げる。
俺もつられて、再びその姿を見つめた。
風に揺れる鯉のぼりは、朝見たときよりも生気が宿っているように見える。
本当にただの見間違いだったのか?
「龍なんて、そうそう生まれるもんじゃないよ」
ココが何気なく言う。
「それをさ、ちょうど龍の話をした次の日に、たまたまその鯉のぼりが龍になるなんて、そんな都合のいい話ある?」
確かに、そうなのかもしれない。
けれど——
「少しだけ、近くで見てみてもいいか?」
俺がそう尋ねると、ココは肩をすくめ、呆れたように笑った。
「しょうがないな。ついてってあげるよ」
そう言って、俺たちは鯉のぼりの方へと歩き出した。
風が止み、周囲がやけに静かになった気がした。
俺たちは鯉のぼりに向かって歩き出した。
道端には今朝の雨の名残があり、水たまりが月の光を反射して鈍く光っている。湿った風が微かに吹き、衣服に冷たさを残していった。
「なんか、やけに静かじゃないか?」
ふと気になって、俺は呟いた。
「気のせいでしょ。雨上がりだし、人通りも少ないしね」
ココは特に気にした様子もなく、鯉のぼりへと歩を進める。
けれど、俺の中では妙な違和感が消えなかった。確かに街灯の下ではいつもの風景が広がっているのに、音が足りない気がする。
虫の鳴き声も、遠くから聞こえる車のエンジン音も、まるで遠ざかるように薄れている。
やがて、鯉のぼりの真下に辿り着く。鯉のぼりはこの地域の公民館で上げられている物のようだった。
「……」
近くで見上げると、鯉のぼりは思いのほか古いようで所々色が掠れている。それ以上になびく鯉のぼりに違和感を感じる。
「なあ、あれおかしいよな」
「おかしいね」
ココがいつもの調子で言う。
「今晴れてるにしてもさっきまで濡れていた鯉のぼりが、あんなふうに泳ぐものか?…そもそも」
「風吹いてないよね」
ココも俺と同じ違和感を覚えていた。
風が吹いていないのに、黒い鯉のぼりだけが微かに揺れている。
「この鯉のぼり思いのほか古い物みたいだね。大分色褪せてるし、ところどころ布も傷んでる」
「そうだな、場所も公民館みたいだし、この地域でずっと使われていたものか?」
「地域を挙げて端午の節句を祝ってたのかもね」
そう言うとココは目を細める
「樹、龍の事は忘れてもいいかも」
鯉のぼりから顔を下げこちらに目を向ける。
「何かわかったのか?」
「たぶんね、この鯉のぼりは付喪神になったんじゃないかな」
「付喪神って……あの、長く使われた道具に魂が宿るってやつ?」
「そう。百年経った道具は魂を持つって言われてるでしょ?でも、百年経たなくても、人の想いが強ければ、それよりずっと早く目覚めることもある」
「じゃあ、この鯉のぼりは……?」
「この地域でずっと使われてきたなら、十分にあり得るよね。子供たちの成長を願う気持ち、地域の人たちの思い、そういうのが積み重なって……気づいたら、"在る"ものになってたのかも」
確かに、それなら龍のような異常な天候の変化が起こらないのも納得がいく。
「……じゃあ、これは、悪いものじゃない?」
「うん。むしろ、良いものじゃないかな?鯉のぼりとしての役目をずっと果たして、今もちゃんとここにいる。それだけのことだよ」
俺は少しホッとしながら、もう一度鯉のぼりを見上げる。
黒い鯉のぼりは、風もないのにゆっくりと揺れていた。まるで、「ここにいるよ」とでも言うように——。
翌日、俺は昨日の鯉のぼりがあった場所へと足を運んだ。
けれど、そこに鯉のぼりの姿はなかった。
「……あれ?」
黒い鯉のぼりだけじゃない。昨日まで一緒に泳いでいた他の鯉のぼりも、支柱すらもすっかり消えている。
考えてみれば、それが普通なのかもしれない。子どもの日はとうに過ぎているし、いつまでも飾っておくものでもないだろう。
来年の春、またあの場所に黒い鯉のぼりが揺れるのだろうか。
俺はもう一度、鯉のぼりがあったはずの空を見上げた。
そこには、何もない青空が広がっていた。