百襲姫
百襲姫はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/127262010)
一
八洲(本州・四国・九州)に土着の倭人は信仰の対象を迦微(神)と呼び、そのような倭人の信仰は迦微之道と称された。
筑紫島(九州)の北部では迦微之道が鬼道から刺激を受けて神道へと体系化された。
鬼道は震旦(中国)の民間信仰で、方術という科学技術の基盤をなす世界観となってもいた。
倭人にも巫術なる伝統的な知恵があった。
山門県(山門郡)の邪馬台国には鬼神道という学び舎があり、方術と巫術を教えていた。
鬼神道では首席の巫女を俾弥呼(日向)と呼び、その一人が百襲姫だった。
百襲姫は豪族の娘で、一見、物腰の柔らかい貴婦人だったが、その見識を現実の政治に活かしたいという野心を秘めてもいた。
かつて俾弥呼は邪馬台国の王女がなるもので、卑弥乎(姫子)・卑弥呼(日巫女)・台与(豊)は女王国の君主を務めた。
女王国とは邪馬台国を盟主とする連合国で、その国名は太陽の女神にして神々の女王である天照に由来した。
しかし、当時の女王国は衰退し、連合の枠組みを残すばかりで、俾弥呼もその君主ではなくなっていた。
そもそも、邪馬台国そのものが既に滅びており、百襲姫ら鬼神道の巫術者たちも豊国(福岡県東部・大分県)の秦王国に身を寄せた。
そうした中、騎馬民族たる夫余が韓郷(朝鮮)の中南部である弁韓から筑紫島へと侵入してきたことで百襲姫の運命は一変した。
百襲姫は夫余のことを聞き付け、その騎馬軍団が持つ力を洞察すると、彼らの王たる御間城の下に出向き、鬼神道を代表して彼に同盟を申し入れた。
御間城はそれを受け入れて百襲姫たちを厚遇した。
騎馬民族は自給自足が不可能であるために掠奪や交易、納貢を通して外界に依存し、外国人を能う限り利用していた。
また、知識人たる巫術者は騎馬民族の社会で重要な地位を占めた。
御間城は百襲姫の聡明さを気に入り、目映いばかりに美しい彼女に霊気さえ感じた。
桃色の口は小さく、肌は搾り立ての乳を思わせ、瞳は艶めいていた。
百襲姫の体は丈高くて豊満だった。
重そうな乳房は人の頭ほどあり、巨大な柑子を彷彿とさせた。
胴はくびれていたが、下腹から腰へかけてはたっぷりと肉が付き、大きな尻が張っていた。
御間城に謁見した百襲姫は、彼の野望と才能を即座に見抜いた。
辰王という称号を御間城が受け継いだ時、弁韓にいた彼の部族は、勢力が衰えており、御間城は同じく逼塞を余儀なくされていた弁韓の倭人と手を携え、八洲で局面を転換させようと考えた。
彼は部族の危機的な状況を逆手に取り、負け犬として八洲に逃げるのではなく、騎馬民族で初の海上帝国をそこに築かんとした。
そうした野心に見合う才覚が御間城には備わっていた。
御間城たちは圧倒的な武力で筑紫島の北部に拠点を築き、百襲姫はそれを大和国(奈良県)に東遷させるよう彼に助言した。
先進的な大陸に近い筑紫島は進んでいたが、それ故に却って早くに成熟してしまい、発展の余地が失われ、近いがゆえに大陸の情勢に左右されやすかった。
大和国はそれと比べ、八洲の中央に位置し、域内で安定した貿易の中心となれるばかりか、湖沼鉄を生む豊かな葦原が広がっていた。
知識に貪欲な鬼神道は方々に巫術者たちを放ち、情報を収集させていたので、百襲姫も各地の正確な情報を把握できた。
御間城は百襲姫の助言を聞き入れた。
国家や民族を越境する騎馬民族は融通無碍だったが、それに輪を掛けて御間城は鷹揚だったので、細かいことを気にせず、気宇壮大なところを見せた。
見方によっては無謀とも受け取れたが、豪放磊落な御間城には人々を惹き付ける将器があった。
それに、御間城には彦坐という弟が補佐にいた。
彦坐も御間城の将才に魅せられ、型破りな兄を支えるべく静かな物腰や穏やかな口振りを培った。
だが、そのように誰に対しても礼儀正しく接しながら、彦坐は百襲姫にだけは警戒心を抱いた。
それは御間城に匹敵するものを百襲姫の中に見出していたからかも知れなかった。
二
御間城は筑紫島から伊予島(四国)へと移り、大和国に入って大和王権と戦った。
大和王権は大和国とその周辺を支配する大国だったが、内乱で衰えていた。
百襲姫も軍師として従軍し、その智謀を以て御間城の勝利に貢献した。
大和王権を征服した御間城は、その後の統治を円滑に進めるため、現地の豪族に婿入りして大王となった。
大王とは大和王権の君主で、天下の統一が国是とし、特定の地名を冠しなかった。
初代の大王たる狭野は兄の五瀬が唱えた皇道を建国の理念に掲げた。
万の神を祀る皇尊が神々から下された啓示を宣べ、それに帰依する御言持の共同体を組織し、聖戦に邁進させて理想郷を地上に実現させる。
その理想郷では全ての民が遍く安らぎ、天下が一つの家となる。
これが皇道の理念で、狭野は志半ばで斃れた五瀬こそが皇尊であったと見なし、自身をその代理たる大王とした。
大王に即位した御間城は皇道も受け入れた。
その理念が万人に開かれたものなのなら、夫余が大王になっても良いはずだった。
もっとも、彼は皇道をそのまま受け入れるのではなく、それを女王国の神権政治と組み合わせ、狭野が敢えて空位とした皇尊に百襲姫が即位した。
かつて女王国は巫女である俾弥呼が男王に補佐されながら統治し、百襲姫はそうした君主としての俾弥呼たちから王権の象徴を継承していた。
卑弥乎が後漢より下賜された中平銘鉄刀。
卑弥呼が魏より賜った「親魏倭王」の金印紫綬。
御間城は文明が進んだ震旦の権威も借り、百襲姫に皇尊となってもらうことで大和王権を聖俗両面で掌握しようとした。
百襲姫は後光が差しているかのように美しく、方術と巫術に精通しているところも神秘性を感じさせた。
それでも、御間城と同じく百襲姫も余所者だったので、彼と同様に現地の豪族に嫁入りすることとした。
百襲姫は大田田根子という豪族に嫁いだ。
大田田根子の一族は大物主なる女神の子孫とされ、実力では他の豪族に劣ったが、大和国では最も由緒があり、中興の祖たる弟磯城こと黒速は狭野から磯城(磯城郡)の領有を認められた。
同族の葉江や猪手も子女を葛城王朝の大王たちに輿入れさせた。
葛城王朝とは狭野が開いた王朝で、大王の多くが葛城山の麓に都を置いた。
その葛城王朝が内乱で衰えると、大田田根子の一族も零落し、三輪(三輪町)の豪族に取って代わられた。
三輪の豪族は狭野の後妻を出した一族で、御間城もそこに婿入りした。
他方、一族が零落した大田田根子は、和泉国(大阪府南西部)に移り住んで庶民として暮らした。
彼は一族に伝わる巫術の知識を活かし、巫術者になっていた。
御間城は大田田根子を見出すと、その一族が持つ権威を利用するため、大田田根子に百襲姫を娶らせ、百襲姫が皇尊となれるよう彼女に箔を付けた。
民間の巫術者に身をやつした大田田根子は、覇気や気迫に欠け、豪族に返り咲こうともせず、現状に甘んじていた。
しかし、そうした意志の弱さから頼み事を断れず、御間城が持ち込んだ百襲姫との縁談を受け入れさせられた。
ただ、彼は百襲姫に会うと、そのきらぎらしさに胸を射抜かれ、彼女との結婚に心から同意した。
百襲姫も自分と違って真っ直ぐな大田田根子を好ましく感じた。
大田田根子に度胸はなかったが、悪意もなくて周囲に慕われた。
大田田根子と夫婦になった百襲姫は、自ら彼を寝所に誘った。
褥の上で大田田根子は百襲姫の白く輝く裸身に覆い被さった。
百襲姫は魚のごとく身をうねらせ、汗ばんだ肌を濡れた鱗のようにぬめらせた。
彼女は気持ちが高まって体も打ち震えた。
二人は荒い息を吐きつつ、押し殺した叫びや悩ましい喘ぎを漏らし、夜具の布を撥ね除けて激しく縺れ合った。
やがて大田田根子と百襲姫の間に大御気持なる息子が産まれた。
御間城はその一族に三輪氏という氏名を授けた。
騎馬民族の国家は氏族や部族に基礎を置き、それらは王族を中心に編成されていた。
王族たる御間城の直系も阿毎氏と名乗った。
三輪山の麓で王朝を興した御間城は、纒向(纒向村)に都を置き、その三輪王朝を聖なる皇尊と俗なる大王の二頭体制で運営した。
三
御間城たちは騎馬軍団で大和王権を征服したが、征服戦争による破壊や人馬の急増で国中に疫病が流行り、飢饉も起こって民衆の逃亡や叛逆が生じた。
百襲姫はこの危機を利用し、三輪王朝の基盤を固めるべきであると御間城に助言した。
御間城はそれを聞き入れ、疫病や飢饉は戦乱で祭祀を怠ったことへの神罰とし、国中の神々を祀るのに協力するよう民衆に求めた。
百襲姫も各地を回り、祭祀への協力を訴え、後光が差しているかのような彼女の神々しさに民衆は心酔した。
彼らは貢ぎ物や労働力を差し出し、三輪王朝はそれらを疫病や飢饉に対策に費やした。
そうして疫病は止み、五穀も大いに稔った。
三輪王朝は民心を得たばかりか、全土の人口や生産力を把握し、その祭祀も統制下に置いた。
叛乱も平定されて内政が安定すると、御間城は国外における大和王権の権益が内乱で失われていたので、それを回復すべく四道将軍を外征させた。
南海道(和歌山県・淡路島・四国地方)は御間城が既に征服していたので、三輪王朝は北陸道(北陸地方)・東海道(東海地方・関東地方)・山陰道(山陰地方)・山陽道(山陽地方)に遠征した。
武力による理想郷の実現を国是とした大和王権には皇軍という常備軍があった。
大和王権が内戦の混乱から立ち直ると、皇軍もその精強さを取り戻し、夫余の騎馬軍団も加わって更に強化された。
三輪王朝は四方の諸王を服属させ、全国的な連合政権たる大和政権を成立させた。
ところが、内外の情勢が落ち着き、共通の敵がいなくなると、百襲姫と彦坐の対立が表面化した。
百襲姫は内政で活躍した巫術者たちの派閥を、彦坐は外征で活躍した将軍たちの派閥を代表していた。
両派は大和政権の主導権を巡って対立し、百襲姫に至っては夫である大田田根子を大王に据えようとさえした。
結婚生活を続けるに連れ、大田田根子の人柄に惚れ込んだ百襲姫は、生まれて初めての恋をし、恋心を募らせた挙げ句、夫婦で大和政権に君臨することを夢見るようになった。
大田田根子は百襲姫の野望に恐れ戦いたが、押しの弱さから反対できなかった。
これには百襲姫の派閥からも疑問を覚える者が現れ、彦坐はそれに付け込み、百襲姫の派閥を切り崩していった。
人当たりの良い彼は百襲姫の派閥から人材を次々と引き抜いていった。
彼女の弟たる五十狭芹彦も四道将軍の一角を担っていたこともあり、彦坐の派閥に与した。
そして、百襲姫の派閥を骨抜きにした彦坐は、彼女に叛逆の意志があると御間城に報告した。
大和政権の成立に貢献した二頭体制も、こうなっては政権を不安定化させかねなかったので、御間城は百襲姫を粛清することにした。
丁度、日照りが続いていたため、彦坐たちは百襲姫と大田田根子を捕らえ、彼女たちは雨乞いで忌籠もりをしていると説明した。
囚われの身となった百襲姫と大田田根子は、食事に毒を盛られて発狂し、昼間から獣のような声を上げ、交尾する蛇のごとく手足を絡み合わせた。
やがて二人は深く一つに繋がったまま狂い死にした。
程なくして雨が降り、彼らはそのために命を捧げたと発表され、百襲姫は人々から正しく皇尊であったと崇められた。
大田田根子は三輪氏が弔い、百襲姫は御間城が墓を造らせた。
神格化した百襲姫を祀ることで御間城は彼女の神性を受け継ぎ、大王と皇尊の権力を一元化させた。
百襲姫の墓は神々が造営を手伝ったとされるほど巨大で、墓造りの職人たる土師に因んで土師墓と称された。
後にそれが箸墓と訛り、百襲姫は箸が突き刺さって死んだとされた。
御間城はその後も次の日照りに備え、溜め池を造るなどした。
彼は唯一の君主となるため、自分と狭野を「初めて国を治めた大王」と呼ばせて同一視させ、それ以外の大王を欠史八代として歴史から抹殺し、西暦の紀元後三一八年に熱病で崩御した。
彦坐は御間城の息子である活目が大王となるのに尽力し、最後まで兄に忠実な弟としてその生を終えた。
註
*大王の一族が阿毎氏と名乗る:『隋書』