吾田媛
吾田媛はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/127009664)
一
大和国(奈良県)とその周辺を支配する大和王権は、大王という君主により治められていた。
大和王権の君主が大和国の王ではなく、単に大王と名乗っているのは、建国の理念が関係した。
武装難民の傭兵が大和王権の建国者で、あらゆる民にとって我が家のごとく安らげるような国を武力で実現しようとした。
大和王権は全ての民が遍く安らげるよう君主の初号に特定の地名を冠さなかった。
しかし、初代の大王である狭野が亡くなると、武断的な大和王権は暗殺や内乱によって分裂した。
そして、大和王権の各勢力が大王を擁立し、複数人の大王が大和王権に乱立することとなった。
国牽は八番目に名乗りを上げた大王で、山城国(京都府南部)を勢力圏としていた。
天孫族の彼は河内国(大阪府南東部)の勢力と結び、息子の埴安彦も河内国の隼人たる吾田媛と夫婦になった。
狭野は日向国(宮崎県)の天孫族だったが、日向国には天孫族や隼人が混在しており、隼人も日向国から東征した狭野に同行していた。
狭野たちの東征により大和王権が建国されると、同行した隼人も山城国や河内国に住み着いた。
国牽の勢力は中央での政争に敗れ、地方に逃れた者たちが立ち上げたため、正統であるはずの自分たちが不当に迫害されたという鬱屈があった。
埴安彦は大王の嫡子としてそのような人々の気持ちを汲み取り、大和王権の統一を声高に主張していた。
周囲はそうした埴安彦を大王の後継ぎに相応しい人物と持ち上げた。
だが、当の埴安彦はそれを重荷に感じていた。
太子たる彼は情勢を俯瞰できる立場におり、国牽の勢力による大和王権の統一には悲観的だった。
思慮深いがゆえに埴安彦は周りの期待に応え、表向きは堂々と振る舞ったが、内心では鬱々としていた。
それに比して吾田媛は裏表がなく、豪放なまでにさばさばとしており、考えるよりもまず先に体を動かした。
厳しい自然の中で暮らしてきた隼人は、平素から訓練されて戦さに長け、吾田媛も弓では男に引けを取らない猪武者だった。
正反対の埴安彦と吾田媛ではあったが、二人は相手に自分にはないものを見出した。
埴安彦は立ち止まって考え、吾田媛は迷わずに突き進み、それが互いの足りないところを補い合った。
夫婦は互いに惹かれ合って相手を求め合った。
高殿の寝所で埴安彦は吾田媛の肩を抱き、浅黒い裸身の上に覆い被さった。
吾田媛の肉体は鍛え抜かれた強靱さと女の柔らかみが調和し、蜂のように締まった胴が豊かな胸と腰を二分していた。
吾田媛の気丈そうな顔は中々に美しく、きつい眉に切れ長の目をしていた。
息を喘がせて吾田媛は夫の手の中で身悶えし、埴安彦は妻の体内で果てながら、深い喜びに包まれた。
しかしながら、国牽の勢力を取り巻く状況は、憂うべきものとなっていった。
大和王権は内戦ですっかり荒れ果て、更には辰王の勢力が大和国に入ってきた。
韓郷(朝鮮)からやってきた辰王たちは、粛慎(満洲)の粛慎人の一派だった。
彼らは筑紫島(九州)や伊予島(四国)を通り、騎馬軍団を率いて大和王権を攻めた。
内紛に疲れ切った大和王権の大王たちは、疾風怒濤のごとき騎馬民族の東進に抗えず、辰王を受け入れることにした。
当代の辰王は依羅という名前で、御間城姫の婿となり、名を御間城と改めて大王に即位した。
御間城姫は狭野の妻たる五十鈴媛と同族で、そのような一族に婿入りすることで御間城は大王になる正統性を得た。
そもそも、八洲(本州・四国・九州)に土着に倭人には様々な種族がおり、そうした倭種の一つである天孫族は八洲へ土着した粛慎からの移民だった。
大和王権を建国した狭野と近しい種族だったので、御間城の即位に対する倭人の抵抗感は少なかった。
夫余により建てられた高句麗の王弟たる高遂成が倭人のいる山を訪れ、同じ粛慎人の一派である濊貊のところに倭人がおり、倭人と夫余は関係が深かった。
御間城はそういった繋がりを前面に押し出し、大和王権の者たちが彼を受け入れやすいようにした。
埴安彦たちも国牽の首を御間城たちに差し出して降伏した。
他の大王たちも引き渡されて処刑されるなどし、それによって御間城は大和王権の統一を成し遂げた。
もっとも、埴安彦たちは御間城に心から従っているわけではなかった。
国牽の首を埴安彦から受け取ったのは大彦だった。
御間城姫の兄たる大彦は磯城(磯城郡)の豪族だったが、御間城の器量を見抜き、いち早く帰順してその義兄となった。
彼は生粋の武人で、軍事的な手腕や才覚で人を評価するところがあり、それ故に征服者の御間城とも直ぐ打ち解けられた。
けれども、埴安彦たちは大彦のごとくには割り切れなかった。
また、外敵に寝返った大彦に膝を屈することも、埴安彦たちにとっては屈辱だった。
御間城たちへの敵意を募らせながら埴安彦たちは耐え忍んだ。
二
十番目の大王となった御間城は、磯城に宮殿を構え、纒向(纏向村)に都を造営した。
御間城の王朝は三輪山の麓で興ったことから三輪王朝と呼ばれた。
その王朝において埴安彦は父から受け継いだ山城国を安堵されたが、感謝などしていなかった。
彼は山城国の人々が三輪王朝の支配を嘆いていることに心を痛め、御間城に対する謀叛を計画した。
ただ、夫余の騎馬軍団を抱える三輪王朝は、強大な勢力を誇り、まともに戦っても勝ち目はなかった。
もしも埴安彦だけなら口先では人々に報復を誓いつつ、実際には謀叛を諦めていたかも知れなかった。
しかし、埴安彦には吾田媛がいた。
勇敢な吾田媛は三輪王朝の支配に怒り、御間城への謀叛が取り沙汰されると、その実現に向けて動き出した。
もし吾田媛だけなら計画など練らず、直ぐさま謀叛に踏み切ってしまいかねなかった。
だが、吾田媛には埴安彦がいた。
埴安彦は吾田媛の後押しで踏ん切りが付き、三輪王朝の支配から脱するべく御間城に謀叛を起こすと決め、その計画を練っていった。
彼は三輪王朝の勢力に対抗するため、外部に協力者を求めた。
そして、埴安彦は陸耳御笠に接触した。
陸耳御笠は青葉山を拠点とする旦波国(三丹地方)の土雲だった。
最古参の倭種たる土雲は新参者の天孫族などに圧され、逼塞を余儀なくされており、陸耳御笠はそうした状況からの解放を求め、闘争に身を投じていた。
もっとも、理知的な彼は恨みに凝り固まらず、土雲でない者の話に耳を傾けないというようなことはなかったので、埴安彦も接触が出来た。
三輪王朝は陸耳御笠たちにとっても脅威だった。
御間城は大和国が静まると、大和王権が内乱で失った権益を回復するため、新たに軍を集め、周辺諸国に遠征しようとしていた。
そうなれば陸耳御笠たちも征服の対象とされかねなかった。
埴安彦は周辺に遠征軍が出ると、大和国の守りが手薄になるので、その隙を突き、御間城の首を取ると陸耳御笠に説明した。
三輪王朝の支配を脱した後は、埴安彦たちと陸耳御笠たちは対等な関係を結ぶとも言い添えた。
それは全ての民を遍く安らがす大和王権の理念に則ってもいた。
陸耳御笠はそれに賛同した。
逼塞させられていた陸耳御笠も、埴安彦と同じく行き詰まりを感じており、そうした閉塞状態に対する打開策を模索していた。
陸耳御笠は埴安彦に共感を覚え、彼が挙兵するなら協力すると約束した。
他方、吾田媛も大和国の地図など謀叛に必要な情報を集めていた。
三輪王朝は大和王権を再建すべく様々な事業を推し進めていたが、吾田媛はそれに駆り出される人員に手下を紛れ込ませ、情報の収集に当たらせた。
そうして埴安彦は、近々、御間城が四道将軍という将軍たちを四方に遠征させると知った。
その遠征では大彦が北陸道(北陸地方)、彼の息子たる武渟川が東海道(東海地方・関東地方)、御間城の弟である彦坐が山陰道(山陰地方)、筑紫島からの旧臣たる五十狭芹彦が山陽道(山陽地方)を任された。
埴安彦は四道将軍が出陣した頃合いを見て大和国に進撃し、御間城を仕留める計画を練った。
陸耳御笠は山城国や旦波国に最も近い彦坐の軍を引き留めるよう埴安彦から依頼され、その頼みを聞き入れた。
埴安彦は旦波国の多婆那国から協力を取り付けることにも成功した。
多婆那国は旦波国における大国で、彦坐が征討する対象とされていた。
埴安彦は彦坐の軍が山陰道に向かったのを見届けると、山城国から大和国へと進軍していった。
吾田媛も隼人たちを率い、河内国から大和国に攻め入ろうとした。
ところが、遠征していた将軍たちの内、大彦と五十狭芹彦が引き返し、埴安彦と吾田媛を背後から襲った。
三
御間城たちは埴安彦たちの陰謀を察知し、その上で敢えて彼らを泳がせていた。
それは内部の敵を炙り出すための策略だった。
降伏した者たちが全て心から従っているとは御間城たちも考えなかった。
それゆえ、わざと隙を見せることで誘き寄せ、面従腹背の輩を一網打尽にし、支配を固めようと図った。
御間城たちも埴安彦らのところに間者を放ち、逐一、その動きを報告させていた。
埴安彦と吾田媛が出陣した際も、巫女に変装した間者が大彦に報せた。
同じ報せは五十狭芹彦の下にも届けられていた。
かねてからの手筈通り大彦と五十狭芹彦はそれぞれ遠征軍を引き返させ、埴安彦と吾田媛の不意を衝いた。
大彦は木津川で埴安彦に追い付き、埴安彦は大彦の副将である彦国葺に弓矢で射殺された。
不意打ちで大将を失った埴安彦の兵は大混乱に陥り、大彦の軍によって散々に打ち負かされ、多くの屍が川に浮かんだ。
裏切りに対する見せしめとして埴安彦は祝園で首を斬られ、その骸を辱められた。
他方、吾田媛もまた辱めを受けていた。
逢坂で五十狭芹彦に奇襲された吾田媛は善戦するも包囲され、兵たちを次々に討ち取られていった。
勝ち目のないことは明らかだったので、彼女は包囲を突破して逃げるよう兵たちに命じ、自分も戦線を離脱した。
しかし、吾田媛は満身創痍で仲間とはぐれてしまった。
彼女は暫くの間、身を潜めながら逃走を続けていたが、やがて精も根も尽き果て、五十狭芹彦の兵たちに捕まった。
残党狩りをしていたその兵たちは、吾田媛の正体を知らず、彼女を太い木に縛り付けて慰み者にした。
限界に達していた吾田媛は、それに耐えられないで息絶えた。
埴安彦と吾田媛に協力すると誓った陸耳御笠も、彦坐と戦って敗れた。
陸耳御笠は自分と同じく土雲の首長たる匹女を味方に付け、旦波国の各地で彦坐と戦闘を繰り広げて海戦まで行った。
彦坐は匹女を殺したが、陸耳御笠には逃げられてしまった。
大江山に潜伏した陸耳御笠は、そこで抵抗を続けたが、多婆那国も彦坐の軍門に降り、大勢は決していた。
奮闘空しく彼は彦坐の部将である得玉彦に殺された。
他の四道将軍も硬軟織り交ぜた交渉と武力で諸国を影響下に置いていった。
埴安彦を滅ぼした大彦は、北陸道における大和王権の権益を回復していき、東海道で同じことをしてきた武渟川と尾張国(愛知県西部)の相津で合流した。
五十狭芹彦は安芸国(広島県西部)などを従え、出雲国(島根県東部)の出雲王国を陸路から攻めた。
出雲王国は北ツ海(日本海)での交易や出雲国にて採れる砂鉄で興隆を誇り、その巨大な利権は垂涎の的だった。
大和王権は彦坐が統治するようになった旦波国を基地とし、武渟川に水軍を組織させ、海路からも出雲王国を攻めさせた。
また、出雲王国の共同統治者たる振根と飯入根に工作活動を仕掛け、内部から切り崩してもいった。
そうして出雲王国は五十狭芹彦と武渟川により征服された。
結果、大和王権は権益を回復したばかりか、諸国に対する影響力を強め、大和政権という連合政権を樹立し、その盟主となった。
大彦は大和政権で御間城に次ぐ地位を得た。
だが、彼は北陸道での遠征で敵の矢に下腹を貫かれ、足を引き摺って歩くようになった。
武将としての活躍を望めなくなった大彦は、誇りを傷付けられてやさぐれた。
彼は酒浸りになり、御間城らの信頼を失っていった。
不摂生が祟って体を壊し、大彦は失意の内に病死した。
註
*八洲と辰王に繋がりがある:『契丹古伝』
*夫余の依羅が御間城とされる:桂延寿『桓檀古記』
*高遂成が倭人のいる山を訪れる:金富軾『三国史記』
*濊貊のところに倭人がいる:范曄『後漢書』
*埴安彦が祝園で首を斬られる:祝園神社の伝承
*彦坐が陸耳御笠および匹女と旦波国にて海戦まで行う:『但馬国司文書』
*陸耳御笠が大江山に逃れる:『丹後国風土記残缺』
*得玉彦が陸耳御笠を殺す:『日本総国風土記』