阿曽媛
阿曽媛はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/126771284)
一
震旦(中国)は韓郷(朝鮮)の西北部を支配して北半分に楽方郡、南半分に帯方郡という出先機関を置いていた。
しかし、震旦の王朝である西晋の政治が安定せず、地方の有力者が北方の遊牧民族と手を組み、華北で遊牧諸民族が多くの国が興すと、韓郷でも高句麗が楽浪郡と帯方郡を滅亡させ、その地を領有するに至った。
高句麗は粛慎(満洲)の騎馬民族たる夫余が建てた国で、韓郷の東北部も支配していた。
南西部の馬韓も夫余の伯済国が韓人に君臨する形で統一して百済と号し、南東部の辰韓は韓人の斯蘆国が統一して新羅と称した。
中南部の弁韓では夫余たる辰王が勢力を誇ったが、地域を統一するまでには至らずに小国が乱立し、それらの国々は加羅と呼ばれる緩やかな連合を形成していた。
馬韓で伯済国に敗れた国に温羅なる王子がおり、彼は部下ともども八洲(本州・四国・九州)に渡った。
八洲は辰韓の延烏郎と細烏女の夫婦が国を建てるなど韓人にとって新天地と見られていた。温羅も八洲で祖国を再興しようとした。
そのように破天荒なことを思い付くくらい温羅は常識破りで、荒っぽいほどに喜怒哀楽が激しく、王子でありながらも一兵卒にさえ開けっぴろげに接した。
部下たちはそうした温羅を兄貴分のように慕った。
温羅たちは弁韓から筑紫島(九州)、出雲国(島根県東部)を経て瀬戸内にまで航海した。
彼らは男鬼島(男木島)や女鬼島(女木島)を根城とし、そこから吉備国(岡山県・広島県東部)を襲った。
吉備国は天然の良港に恵まれ、韓郷の船も来ており、背後の山地には鉄鉱石があった。
鉄資源が豊富な韓郷では製鉄が発達しており、その技術を活かして温羅たちは鉄製の武器を量産した。
丁度、吉備国は戦乱に揺れていたので、温羅の付け入る隙があった。
震旦が政治的に安定しなくなると、その混乱は八洲にも波及し、各地で戦争が起きていた。
吉備国もそうした戦渦から逃れられず、人々は平和を取り戻してくれるよう温羅たちに願い出た。
吉備国は吉備津彦の称号を襲名する国王に統治されていたが、吉備王国も八洲の全土を巻き込む戦火には対応できないでいた。
吉備王国に失望した人々は、鉄器で武装した温羅たちなら、海賊のようであっても吉備国に秩序をもたらしてくれるのではないかと期待した。
温羅も港や鉄に留まらぬ魅力を吉備国に感じていたので、人々の申し出は渡りに船だった。
吉備国は豊かな平野が広がり、貴重品の塩を生産してもいた。温羅は阿曽郷(阿曽地区)の豪族と手を結び、その娘たる阿曽媛と結婚した。
阿曽媛は怯まずに海賊のごとき温羅の妻となるほど度胸があり、気が強くて喧嘩っ早かったが、乱暴者の夫とは却って馬が合った。
賀陽郡(総社市)に鬼ノ城という山城を構えた温羅は、そこで阿曽媛と暮らし、二人の間には娘が産まれた。
阿曽媛は垢抜けなかったけれども四肢がすらりと伸び、豊満な胸乳は桃の実のようだった。
温羅は阿曽媛を抱き締め、唇を重ね合わせながら彼女の裳裾を掻き上げて媾合い、かつてない悦びに包まれた。
阿曽郷の豪族と手を結んだ温羅は、吉備国の鉄で大きな釜を作った。
彼は敵対する者たちをその大釜で釜茹でにした。
鉄の大釜は温羅の権力を象徴し、それで釜茹でにする見せしめは敵を震え上がらせ、彼の支配を盤石にしていった。
だが、そのことは当代の吉備津彦である百田大兄の危機感を高めた。
このままでは吉備国の支配権を完全に失いかねず、百田大兄は大和王権の力を借りることにした。
弱体化した吉備王国だけではどうすることも出来なかったので、外部の勢力に頼る他なかった。
大和王権は戦争が生業の傭兵たちによって建国され、有事に民兵を徴集する他国と異なり、戦うことが専門の常備軍を有していた。
そうした大和王権の常備軍は、大和国(奈良県)の銅や辰砂による収入で維持され、常日頃から訓練されており、皇軍と称されて精強を誇った。
百田大兄は大和王権の君主たる大王の太瓊と懇意だった。
太瓊はかつて勢力を広げるため、吉備王国が伯耆国(鳥取県西部)と戦っていた時、百田大兄に味方して鬼住山の大牛蟹と乙牛蟹を討ち取り、息子の彦狭島に鬼林山の牛鬼を討たせた。
百田大兄は再び大和王権の力を借りようとしたが、太瓊は大王の位を巡る内戦で死亡していた。
そのせいで百田大兄は太瓊に代わる援軍を見付けねばならなかった。
二
百田大兄は太瓊に代わる援軍を讃岐国(香川県)で見付けた。
讃岐国には辰王の勢力が進攻していた。
夫余である彼らは高句麗の南下や百済と新羅の成立に圧迫され、加羅においても韓人が伽耶という諸国の連合体を発足させたため、局面打開の道を見出す必要に迫られた。
加羅には八洲に土着の倭人がいた。
その居留地たる倭地は伽耶に逼塞を余儀なくされ、自衛のために任那という機関に組織化されており、同じような立場に置かれた辰王たちに接触した。
辰王たちは倭人との接触で八洲に関心を注ぎ、そこで勢力挽回を図ることにした。
騎馬民族の彼らは任那を作戦基地とし、馬は目隠しすれば乗船させられたため、倭人の海洋民である海人族の船に馬匹も乗せ、韓郷の鉄で武装して筑紫島(九州)に侵寇した。
ところが、筑紫島は辰王たちにとって安住の地ではなかった。
大陸に近い筑紫島は既に移民で溢れ、人口が過密になっているばかりか、大乱が起きていた。
実際、筑紫島では大国である南部の狗奴国と北部の女王国がどちらとも衰亡し、これまでにない規模の戦乱が生じた。
女王国の都が置かれた邪馬台国も、山岳民たる土雲の手中にあった。
同じ倭人であっても土雲は最も早く八洲に土着し、漁撈民の隼人や牧畜民の天孫族、農耕民の出雲族らに抑圧されていた。
その土雲が狗奴国と女王国の衰亡に乗じ、邪馬台国をも手中に収めたのだ。
辰王たちは邪馬台国の遺民も取り込み、より人口密度の低い東方に移動した。
そうして彼らは伊予島(四国)へと到った。
伊予国(愛媛県)には太瓊の息子たる彦狭島らが落ち延びており、辰王たちは彼らも吸収した。
彦狭島は五十狭芹彦および稚武彦の兄弟と義兄弟の契りを結んだ。
五十狭芹彦と稚武彦は辰王たちに同行した邪馬台国の将軍で、俾弥呼(日向)たる百襲姫の弟だった。
邪馬台国には鬼神道という巫術者の学び舎があった。
かつて女王国は邪馬台国の王女が鬼神道にて学んで巫女となり、俾弥呼の称号を襲名して即位した。
しかし、狗奴国が女王国を乗っ取り、男性の君主を据えると、俾弥呼の称号は鬼神道の首席の巫女へ授けられるようになった。
巫術者は倭人の知識層でもあり、百襲姫も弟たちと共に讃岐国を訪れ、農地の開発などを指導した。
そのような姉を持つ五十狭芹彦と稚武彦も有力者で、彦狭島は彼らと義兄弟になり、辰王の助けを得て大和王権に返り咲こうとした。
彼は父たる太瓊が懇意にしていた百田大兄に五十狭芹彦と稚武彦を紹介した。
百田大兄は温羅を吉備国と讃岐国から挟み撃ちにしないかと五十狭芹彦たちに持ち掛けた。
そればかりか娘の百田弓矢比売を五十狭芹彦に嫁がせた。
五十狭芹彦たちは自分たちを率いる辰王に温羅との戦争を進言した。
上手く行けば吉備国が手に入るかも知れず、辰王は五十狭芹彦たちの進言を聞き入れ、騎馬軍団を彼らに託した。
八洲の土地は山勝ちだったが、辰王たちの馬は坂道に強く、そこらの雑草でも栄養を補給できた。
また、姉が鬼神道の首席となった才媛だからか、五十狭芹彦たちも天賦の才に恵まれ、夫余の騎馬軍団を巧みに指揮した。
どちらも天才である五十狭芹彦と稚武彦は兄弟揃って自信家だったが、その在り方は兄と弟で異なっていた。
兄たる五十狭芹彦は自信に裏打ちされた余裕から誰に対しても気さくだった。
弟の稚武彦は天才肌にまま見られるがごとく稚気が抜けず、子供のように無邪気さゆえの残酷さを持っていた。
五十狭芹彦と稚武彦は麾下の犬飼健・楽々森彦・留玉臣も引き連れて吉備国に向かった。
温羅は百田大兄たちと五十狭芹彦たちに水陸から挟撃され、左の目を射抜かれると、一族ともども変装して鬼ノ城を脱出し、各地を転戦しながら抵抗した。
しかし、宮瀬川の西に本陣を構えた五十狭芹彦は、やがて温羅を追い詰めて彼を討ち果たした。
三
討たれた温羅は晒し首にされた後、その首を犬に食わされ、骨となって地中深くに埋められた。
それらは全て稚武彦が行わせた。
五十狭芹彦と稚武彦は飴と鞭を以て温羅たちに臨み、それぞれ飴は五十狭芹彦が、鞭は稚武彦が受け持った。
稚武彦は温羅たちの側に与した町や村を皆殺しにした。
それに恐慌を来した人々のところを五十狭芹彦が訪れ、これからは仲良くしたいと人懐っこい態度で説いてまわった。
すると、多くの人々が五十狭芹彦たちに恭順していった。
五十狭芹彦は温羅と戦っている最中に百田弓矢比売を亡くすと、楽々森彦の娘たる高田姫を娶った。
楽々森彦は吉備国の出身だった。
百田大兄は吉備国に配慮してくれる五十狭芹彦を次代の吉備津彦にしようかと本気で考えた。
しかし、五十狭芹彦たちに恭順しない者たちもいた。
温羅の弟である王丹や阿曽媛の弟たる阿曽男は抗戦を続け、娘を連れて逃げ果せた阿曽媛も、夫のごとく海賊となって五十狭芹彦たちに抵抗した。
温羅の残党を五十狭芹彦は陸で、稚武彦は海で掃討していった。
辰王は五十狭芹彦たちに夫余の騎馬軍団だけではなく、海人族の水軍も預けていた。
天孫族の邪馬台国を都とする女王国には奴国や伊都国などの海人族もおり、彼らの一部は辰王たちに同行した。
そうした海人族の水軍を率い、稚武彦は男鬼島や女鬼島を攻略していった。
讃岐国にいる姉の百襲姫から知略を授けられたこともあり、彼は阿曽媛の捕縛さえ成し遂げた。
温羅を晒し首にした稚武彦は、彼を更に貶めるため、阿曽媛も晒し者にした。
拒めば娘を晒し者にすると脅され、阿曽媛は夫の仇に辱められざるを得なかった。
彼女は裏返しになった大釜に縄で縛り付けられ、稚武彦が俯せにされた裸の彼女にのし掛かり、後ろの穴まで使った。
阿曽媛は尻や腿に深い縞模様を付けられ、白い露が強く臭う裸身を衆目に晒させられた。
その大釜は温羅が敵を釜茹でにしていたもので、稚武彦はそれで温羅と阿曽媛の娘に米を炊かせると、神々に捧げて温羅の討伐を祝った。
彼は阿曽郷の女性たちが末代まで同じことを神事として執り行うよう命じ、彼女たちを阿曽女と命名した。
流石の百田大兄もこれには鼻白み、五十狭芹彦が稚武彦を止めてくれることを願った。
ところが、五十狭芹彦は吉備国を去り、大和国に進軍していた。
いよいよ大和王権の混迷は深まり、辰王はそれを好機と見なした。
安住の地として大和国は申し分なかった。
銅や辰砂が採れるばかりか、四方を山々で囲まれ、外からの攻撃を食い止めやすく、それでいながら川を下ると、海に出られて交易にも不自由しなかった。
そのような地を手に入れるため、辰王は五十狭芹彦を大和国の征服に参加させた。
そして、吉備国の抑えに稚武彦が残された。
こうなっては百田大兄も稚武彦に従う他はなかった。
温羅の排除に成功した百田大兄だったが、一度失墜した権勢は中々回復しなかった。
それゆえ、吉備国に好意的な五十狭芹彦の力を借り、威信を取り戻そうとした。
しかし、五十狭芹彦が吉備国を離れ、それも叶わなくなり、百田大兄は稚武彦に服従せざるを得なかった。
稚武彦は吉備国の要所要所に軍を置いて百田大兄を抑え込んだ。
元々、それは五十狭芹彦たちが温羅と戦うために進駐したもので、当初は百田大兄も受け入れていた。
まさか五十狭芹彦の措置がこのような結果を招くとは思わなかったのだ。
もしかしたらそう思わせるのが五十狭芹彦の狙いであったのかも知れなかった。
五十狭芹彦はその親しげな振る舞いで百田大兄を欺いたとも考えられた。
稚武彦は百田大兄を退位させ、阿曽媛に産ませた息子を吉備津彦に即位させた。
五十狭芹彦を慕う吉備国の人々は、その子が五十狭芹彦の弟と吉備国の姫を両親に持つため、新たな吉備津彦として受け入れた。
吉備国は辰王たちのものとなり、播磨国(兵庫県南部)と同じく彼らが大和国に侵攻するための基地とされ、稚武彦はそのような吉備国と播磨国の管理を任された。
彼は兄ともども英雄として天寿を全うし、阿曽媛はその奴隷として死ぬまで甚振り抜かれた。
註
*温羅が馬韓の王子とされる:賀陽為徳『備中国大吉備津宮略記』
*延烏郎と細烏女が八洲で国を建てる:一然『三国遺事』
*温羅が敵を釜茹でにする:黒尾の伝承
*太瓊が鬼住山の大牛蟹と乙牛蟹を討ち取り、息子の彦狭島に鬼林山の牛鬼を討たせる:樂樂福神社の伝承
*彦狭島が伊予国にいる:『予章記』
*百襲姫が讃岐国で農地の開発などを指導する:水主神社の伝承
*五十狭芹彦が百田弓矢比売を娶り、温羅の首が地中深くに埋められる:吉備津神社の伝承
*宮瀬川の西に五十狭芹彦の本陣が構えられる:『備中国風土記』
*高田姫が五十狭芹彦に嫁ぐ:鼓神社の伝承
*彦狭島の子が吉備津彦となる:『新撰姓氏録』