↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヤマト奇談集  作者: flat face
奈良時代
65/65

首親王

首親王はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/149561804)


   一


 (しん)(たん)(中国)には多くの民族がおり、王朝は彼らを統治するため、世界宗教の(ぶつ)(きよう)を広めた。

 仏教の信者は世界中が兄弟だった。

 (とう)(どう)(きよう)を仏教の上に置き、道教の面子を立てつつ、仏教を奨励していた。


 道教は震旦に土着の宗教だった。唐の帝室は道教の開祖とされる(ろう)()と同族であると主張し、震旦に土着する(あや)(ひと)を手懐けようとした。

 唐は(せん)()(たく)(ばつ)()が建てた(たく)(ばつ)(こつ)()で、支配層は漢人と融合した北方の遊牧民だった。

 ところが、皇后の()(そく)(てん)は自ら即位し、国号も()(しゆう)に改めると、道先仏後を仏先道後に変えて仏教を先、道教を後とした。


 ただ、武則天が保護した仏教は、()()(マニ)の(みん)(きよう)(マニ教)と習合していた。

 ()(じん)の医師たる摩尼は()()(ペルシア)や(だい)(しん)(ローマ)が相争う乱世に生まれ、その闇に屈せず、希望の光を求めて(てん)(ぢく)(インド)にも旅した。

 彼は諸国の融和を願い、あらゆるものに光が宿ると信じてそれを解放すれば、闇に覆われたこの世も癒やされるとした。


 そうして摩尼は(けい)(きよう)(キリスト教)や(けん)(きよう)(ゾロアスター教)、仏教などを融合させて明教を創始した。

 明教は震旦においては道教も取り入れ、武則天はそこに目を付けた。

 彼女は明教を国教とし、より普遍的な帝国が震旦に興ったことを誇示した。


 武則天は明教の信者であった(せつ)(かい)()に勧められ、()()(しや)()(ぶつ)(ヴァイローチャナ)の大像を造り、(だい)(うん)(こう)(みよう)()を全国の各州に置くと令した。

 毘盧遮那仏は仏教の如来だったが、明教の神たる()(じよう)(こう)(みよう)(おう)(ズルヴァーン)と同一視されていた。

 大雲光明寺は明教の寺院で、(だい)(うん)(きよう)という仏典が納められた。


 薛懐義は仏僧たちと一緒になって大雲経を編み直し、経典の中にある天女の即位を武則天に引き当てた。

 武則天は()(ろく)()(さつ)(マイトレーヤ)の生まれ変わりともされた。

 明教は仏教の菩薩たる弥勒菩薩も(てん)(しん)()(ろく)(ミスラ)なる神と重ね合わせていた。


 女帝が死んだ後は、国号が元に戻り、道教がまた優先されるようになった。

 それでも、毘盧遮那仏の大仏や大雲光明寺は残り、(げん)(ぼう)に影響を与えた。

 ()(しま)(本州・四国・九州)の(ひの)(もと)からやってきた玄昉は仏僧で、超大国の唐にて仏教を学んでいた。


 日本は先進国に倣って仏教が国教だった。

 国家から公認された仏僧は、政府のために働くのと引き換えに国費で生活を保障され、租税免除や刑罰軽減などの特権を持っており、自治も認められていた。

 彼ら官度僧に対し、非公認の私度僧も表向きは法で禁じられていたが、課税を忌避しない限りは罰せられず、見込みがあれば官許を得られた。


 (がん)(ごう)()の官度僧であった(ぎよう)()は反体制的な活動を行ったが、名指しで糾弾されるに留まり、僧籍を剥奪されることもなかった。

 彼は山林で修行していた時、山人たちを使役して土木作業に従事する修験者の(えんの)()(づぬ)()(づぬ)と出会い、その事業に感銘を受けた。

 自分もそのような事業に携わりたいと思った行基は、元興寺の別院たる(ぜん)(いん)()(さん)(がい)(きよう)の経典を見付け、それに後押しされて下山した。


 仏教の一宗派である三階教は時代を三段階に分け、今を最悪の第三段階とし、僧俗ともども積極的に助け合わねばならないとして社会事業に熱心だった。

 山を下りた行基も、布施屋で食事を施し、自ら土木工事を行って民衆に布教した。

 行基は俗世に身を置いて飲酒や肉食を嗜み、時に詐術も駆使したが、頭の回転が速くて懐も広く、稼ぎは民衆のために使った。


 そうした行基を民衆は熱狂的に支持し、豪族にも支援されて(ぎよう)()(しゆう)(だん)が形成された。

 仏教が国教となり、日本では国家が建立した官寺だけではなく、豪族の(うぢ)(でら)や民衆の私寺も建てられ、市井には行基集団のような集団を支える基盤が出来ていた。

 しかし、手段にこだわらぬ行基のやり方は、過激な方向に走る弟子たちも生み出し、妖術に手を染め、狂乱状態で自傷行為に及ぶ者さえ現れた。


 (こう)(ふく)()の官度僧たる玄昉にはそれが邪法に見えた。

 外道を日本に蔓延らせぬため、玄昉は唐に渡り、行基集団に対抗できる教えを持ち帰ろうとした。

 そして、彼はそれを明教に見出した。


   二


 帰国した玄昉は唐で集めた多くの仏典と仏像を中央政府である朝廷に献じ、唐の皇帝から高位の僧にしか許されぬ紫衣を賜ったと吹聴したので、日本の君主たる(おお)(きみ)に拝謁を許された。

 当代の天皇は四十五代目の(おびとの)(おお)(きみ)だった。

 玄昉はここで賭けに出た。


 首天皇の母である(ふぢ)(わらの)(みや)()(みや)()は彼が物心付く前に発狂し、それ以来、母子は対面できぬままでいた。

 玄昉は自分なら宮子を治せると首天皇に請け合った。

 彼は()(みつ)(えい)(ラームヤール)という()()(ひと)の薬師を唐から連れ帰っていた。


 李密翳は明教を信仰する波斯の胡人で、最新の医方に詳しかった。

 薛懐義も彼だけが調合できる秘薬によって武則天に取り立てられた。

 玄昉はそれにあやかり、明教を八洲に布教するためと称して李密翳を同道させた。


 武則天が信じた明教は、仏教と混淆しており、玄昉にとって明教の布教は仏教を弘めるのと同じだった。

 そして、李密翳は宮子を快癒させ、(あや)(ひと)の楽師たる(こう)()(とう)(ちよう)ともども位階を授かり、玄昉も僧正に任じられて内道場に侍した。

 僧正とは官度僧の官職における最高位、内道場とは宮中に設けられる寺院だった。


 首天皇はよく内道場に通い、宮子の一件で信寵するようになった玄昉に悩みを打ち明けた。

 彼は仏教に熱心だった。

 それは首天皇の実存的な不安に関係しており、玄昉は彼の抱える苦悩を知ることとなった。


 宮子の発狂は世継ぎを出産するため、強壮剤を摂り過ぎたことによるものだったが、その影響により首天皇は(はに)(わり)として産まれ、男性にして女性でもあった。

 彼は眉が濃く、決して整ってはいない童顔だったが、肌の肌理は素晴らしくて上質な絹のようで、唇が艶めかしいほどに赤く、女性のごとく胸の膨らみも豊かだった。

 ただ、その股間には紛れもない男性の象徴がだらりと(こうべ)を垂れていた。


 男女双方の性欲と快感が一つの体に備わった首天皇は、性的な目覚めが早く、正妻たる(ふぢ)(わらの)(あす)宿(かべ)(ひめ)(あす)宿(かべ)(ひめ)の他、(あがた)(いぬ)(かいの)(ひろ)()()(ひろ)()()ら多くの愛人を抱え、性欲旺盛な自身を恥じた。

 また、母と妻が臣下の(ふぢ)(わら)(うぢ)に連なっていたので、自分よりも尊い血筋である皇室の親族に引け目があった。

 しかも、父の()(るの)(おお)(きみ)と早くに死別し、母とも会えなくなったため、祖母の()(への)(おお)(きみ)や伯母の()(だかの)(おお)(きみ)に溺愛され、深窓で女官たちに囲まれて育ち、気が弱くて優柔不断だった。


 それでも、天皇たらんと必死に努力し、玄昉も首天皇からその苦しみを打ち明けられ、彼に同情の念を寄せた。

 しかし、やがてそれは劣情に変わっていった。

 玄昉は若い頃から群を抜く秀才と目され、周囲の期待に応えるべく敬虔かつ実直な仏僧であろうとしてきたが、それを重荷に感じ、反動で異常な性欲を抱くようになった。


 そのことに激しく懊悩し、邪道を一掃することで罪の意識から免れようとした。

 だが、首天皇に対する欲情を抑えられず、彼を手籠めにしてしまった。

 玄昉は首天皇と二人きりの内道場で香を焚いたのだが、それには李密翳の製造した催淫薬が混ぜられていた。


 首天皇は額に汗の粒が浮かび始め、頬に朱が差し、体の奥が甘美に疼いた。

 その狂おしくて切ない疼きがどんどん膨れ上がっていき、焼け死んでしまうのではないかと恐れるほどの火照りに襲われ、汗に濡れた衣が体に張り付いていた。

 彼は恐怖の余り玄昉にしがみつき、裾が乱れて白い脚が露わになった。


 柔らかな肉が玄昉の体で押し潰された。

 玄昉は首天皇を抱き締めて床に押し倒し、衣を引き裂くように脱がせると、露出した乳房に口を寄せた。

 首天皇は切なそうな吐息を漏らし、乳首を口に含まれると、体が弓なりになった。喜びと愛おしさが頭の奥に満ち溢れ、余りに幸せすぎて涙さえ零れた。


 その涙を舐め取り、玄昉の男根が首天皇の女陰に押し入れられた。

 首天皇の陰茎も熱を持ち、陰嚢に溜まったものが行き場を求めて蠢いた。

 二人はことが終わると、肌を重ねたまま眠りに就き、玄昉は首天皇の情夫となった。


   三


 首天皇は外戚の藤原氏に遠慮し、安宿媛の異母兄である(ふぢ)(わら)(よん)(きよう)(だい)に政治を任せていた。

 しかし、天然痘の大流行で彼らを含め、多くの役人が亡くなり、安宿媛の異父兄たる(たちばなの)(もろ)()(もろ)()が首天皇を支えた。

 朝廷は人材が不足したので、諸兄は玄昉や彼と同様に唐へ留学した儒者の()(びの)()(きび)()(きび)を重用した。


 真備は流行り病や凶作で苦しむ民を救うため、軍縮などによって彼らの負担の軽減させた。

 だが、それが(ふぢ)(わらの)(ひろ)(つぐ)(ひろ)(つぐ)の怒りを買った。

 広嗣は唐に留学した(ふぢ)(わらの)(うま)(かい)(うま)(かい)を父とし、彼から最先端の兵法を受け継いだ戦略家だった。


 そのような広嗣にしてみれば、軍縮は愚策でしかなかった。

 広嗣も戦争を望んではおらず、どうすれば平和になるかを考え、彼我の戦力を拮抗させるという結論に至った。

 日本は(から)(くに)(朝鮮)の新羅(しらぎ)を仮想敵としており、広嗣は相手を高く評価していた。


 それゆえ、新羅と戦争すれば大勢の人々が犠牲になると予測した。

 軍縮は新羅の入寇を招きかないと予測し、それを未然に防ぐため、広嗣は西(せい)(れき)の紀元後七四〇年に西海(にしの)(みち)(九州地方)で蹶起した。

 彼は諸兄に唯々諾々と従う同族の不甲斐なさを詰り、理想のためには非道も躊躇わぬ傲慢さが忌避され、(おお)(みこともちの)(つかさ)に左遷されていた。


 太宰府は西海道で外交や国防を担い、広嗣はその兵力のみならず、(くま)()(熊本県・鹿児島県)の(はや)()も味方に付け、彼の後に「藤原広嗣の乱」と呼ばれた。

 彼は軍縮を行った真備だけではなく、姦淫を犯した玄昉も非難し、二人を朝廷から追放するよう要求した。

 ところが、首天皇は皮肉にも宇合が整えた軍制を利用して大軍を動員し、本土の畿内(うちつくに)(奈良県・京阪神)にいた隼人に同族を説得させ、叛乱に失敗した広嗣は、新羅に亡命しようとするも捕らえられて斬首された。


 しかしながら、彼は叛乱の鎮圧を待たずして日高見(東日本)に旅立った。

 それは叛乱が西だけではなく、東でも起きるのを防ぐためで、首天皇は曾祖父たる(おお)海人(あまの)(おお)(きみ)の事績を辿って宗廟の()(せの)(おお)(みかみの)(みや)(伊勢神宮)にも参拝し、天皇の権威を誇示して日高見を鎮撫した。

 玄昉は首天皇に息子を産ませていたので、()()(奈良市)の都に残って東下りには同行せず、我が子を世話し、その子供は後に出家して(ぜん)(しゆ)と名乗った。


 首天皇は玄昉から教えられた武則天の事歴に倣い、大雲光明寺のごとく諸国に(こく)(ぶん)()(こく)(ぶん)()()を建て、陪都である()()(らきの)(みや)に毘盧遮那仏の大像を造ろうとした。

 そのために彼は物資の陸揚地として()(にの)(みやこ)を整え、首都の外港たる(なに)(にの)(みや)に自ら出向き、新しい技術を取り入れた。

 費用も掛かったため、首天皇は行基を大僧正に抜擢すると、彼に寄付を集めさせ、(こん)(でん)(えい)(ねん)()(ざい)(ほう)を制定して土地の私有を公認し、開墾させた新田に課税した。


 けれども、複数の首都を運営する複都制は負担が大きく、首天皇は(ほう)(こう)()(ねん)の果てに平城(ならの)(みやこ)へ戻り、そこで大仏の造立を続けた。

 その間に玄昉は首天皇に迷惑を掛けぬよう身を引き、太宰府の(つく)()(かん)()(おん)()に赴任して広嗣の残党に暗殺され、行基も大仏の完成を見届けずに入寂した。

 首天皇も玄昉が李密翳に造らせた淫薬に心身を蝕まれていたので、天皇の位を退いた。


 安宿媛との娘である()(べの)内親王(ひめみこ)を即位させた首天皇は、太上(おおき)天皇(すめらみこと)(おおき)(みかど)たる(おびとの)(おおき)(みかど)となった。

 そうして首上皇は大仏の造立に専念し、その完成が待ちきれず、陸奥(むつの)(くに)(東北地方東部)から金が採掘され、鍍金が可能となったため、七五二年、未完成のまま開眼供養を行うことにした。

 天竺の仏僧である()(だい)(せん)()(ボーディセーナ)が大仏の眼を筆で描いて魂を入れ、儀式には唐や(りん)(ゆう)(チャンパ王国)の僧侶も参加し、韓郷や()()(ドヴァーラヴァティー王国)の舞楽が奉納された。


 それから、彼は(がん)(じん)より正式に戒律を授けられた。

 鑑真は唐の仏僧で、日本が戒師を求めるのに応じて渡来した。

 かつて皇親の(なが)(やの)(きみ)が袈裟に(かん)()を刺繍し、唐の仏僧に寄進したのだが、鑑真の渡来はその詩に感動してのものだった。


 受戒して出家した首上皇は、奴隷のごとく仏・法・僧に仕えることを誓った。

 震旦でも(なん)(ちよう)(りよう)で天子の(しよう)(えん)が悟りを求める菩薩として同様の行為に及んでいた。

 (ほく)(ちよう)では皇帝が如来とされており、首上皇はそうした菩薩天子や皇帝即如来の思想を受け入れた。


 最終的に平城京の(とう)(だい)()で造立された大仏は、無上光明王と重ね合わされる毘盧遮那仏だった。

 無上光明王は首上皇と同じく半月とされていた。

 首上皇は七五六年に亡くなり、東大寺の(しよう)(そう)(いん)に遺品が納められた。



   註


*三階教の経典が禅院寺にある:「写疏所解」

*首天皇が女性でもある:源俊頼『俊頼髄脳』

*玄昉が藤原氏の血筋に連なる女性を手籠めにする:『興福寺流記』

*広嗣が軍縮したことから首天皇を批判する:『松浦廟宮先祖次第并本縁起』

*姦淫を犯した玄昉が広嗣に非難される:『今昔物語集』

*善珠が玄昉が藤原氏の女性に産ませた息子とされる:皇円『扶桑略記』

*鑑真が長屋王の漢詩に感動して日本へ渡来する:淡海三船『唐大和上東征伝』


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。