五十鈴媛
五十鈴媛はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/126544465)
一
大和国(奈良県)と周辺の豪族が緩く結び付いた「鳥見の里」は、天孫族の王を戴いていたが、出雲族や土雲も住んでいた。
五十鈴媛の父も出雲族だった。
彼は出雲族が信仰する国津神である大物主の末裔とされ、三輪(三輪町)を治めており、三嶋(三島郡)の豪族の娘たる勢夜陀多良比売と結ばれて五十鈴媛を儲けた。
皇軍なる軍勢が日向国(宮崎県)から攻めてくると、五十鈴媛の父は中立の立場を表明した。
しかし、皇軍は旗幟を鮮明にせよとばかりに三輪を包囲し、五十鈴媛たちは彼らの監視下に置かれた。
そして、監視の責任者となったのが手研耳だった。
手研耳は皇軍の長たる狭野の息子で、五十鈴媛とは年が近かった。
彼は五十鈴媛たちに出来る限り配慮した。
狭野に伴われて「鳥見の里」への東征に加わった手研耳は、過酷な戦場を目の当たりにして心を痛め、人々を傷付けるのではなく、彼らを癒やす医者になりたいと願い、無闇に人を害することはしなかった。
そうした手研耳の優しさに触れ、五十鈴媛は彼に心惹かれた。
手研耳も毅然とした態度で彼に応じる五十鈴媛を好ましく思った。
五十鈴媛は豪族の娘としておっとりした振る舞いを見せつつ、意外に芯の強いところがあった。
手研耳と五十鈴媛は互いに淡い恋心を相手に抱いた。
だが、「鳥見の里」が滅ぼされて大和王権が建国されると、その君主たる大王となった狭野は、五十鈴媛を後妻として迎えた。
彼は手研耳の母である前妻の吾平津媛を亡くしており、中立派を取り込むための政略結婚で五十鈴媛を娶ったのだ。
狭野の気持ちは未だ吾平津媛にあり、彼は手研耳と五十鈴媛の心に気付いてもいたが、大和王権の安定を優先した。
手研耳と五十鈴媛も皆のことを考え、心に蓋をした。
五十鈴媛が狭野の妻になると、彼女の兄たる奇日方も大和王権の宰相である申食国政大夫に任命された。
申食国政大夫は宇摩志麻治も任じられていた。
宇摩志麻治は皇軍に降った「鳥見の里」の王子で、彼の登用には降伏した敵を飼い慣らす意図があった。
こうして大和王権の安定が図られ、狭野と五十鈴媛の間には彦八井耳・神八井耳・沼河耳の三兄弟が産まれた。
父祖の地たる日向国との繋がりを絶やさぬため、狭野は彦八井耳を日向国に送り出し、日向国からは遠縁の土本毘古を受け入れた。
彦八井耳は日向国から阿蘇(阿蘇郡)へと移り、開拓に努めて娘の阿蘇都媛を儲けた。
そのような彦八井耳に負けず劣らず狭野も大和国で国造りに奔走したが、東征が終わっても争いは絶えず、ある戦いで負傷し、何とか帰還を果たすも危篤となった。
狭野は手研耳と五十鈴媛を臨終の床に呼ぶと、自分の死後は二人で夫婦になるよう告げた。
それもまた中立派を取り込むための政略結婚だったが、手研耳と五十鈴媛の仲を裂いたことへの罪滅ぼしでもあった。
そのことは手研耳と五十鈴媛も分かっていたので、驚きはしても拒まず、二人の同意を得た狭野は、神八井耳と沼河耳も呼んだ。
彼は五十鈴媛が狭野の死後に手研耳と再婚するので、異母兄の手研耳を継父として敬うよう告げた。
神八井耳と沼河耳は手研耳を父と慕うことを誓った。
それに満足して狭野は息を引き取った。
未亡人となった五十鈴媛は、事前に取り決めた通り手研耳と再婚した。
大王の位は神八井耳か沼河耳がいずれ継ぐものとされ、五十鈴媛が二人を後見し、手研耳が彼女の相談役となった。
この体制は重臣である大夫たちからも承認された。
大和王権の安定を考えるならば、皇軍と「鳥見の里」の双方に連なる神八井耳か沼河耳を即位させるのが妥当だった。
ただ、手研耳は数多の死地をくぐり抜け、優れた武人に成長し、取り分け日向国の出身者たちから人望を集めていた。
そのような手研耳を冷遇するのも、大和王権の安定を損ないかねなかったので、彼が五十鈴媛の夫となることに異議は唱えられなかった。
二
建国の父である狭野を失い、大和王権も「鳥見の里」と同じように滅びるのではないかと危惧された。
宰相たる奇日方と宇摩志麻遅も奇日方は越後(新潟)で、宇摩志麻遅は石見国(島根県西部)で客死していた。
しかし、大王の代理となった五十鈴媛は、手研耳や有能かつ老練な他の大夫たちに助けられ、大和王権を大過なく統治した。
私生活でも彼女は充実した日々を送った。
晴れて夫婦になった手研耳と五十鈴媛は、積年の望みをやっと叶えられたのだ。
二人は身も心も燃え立たせて互いに求め合い、愛の交歓を心行くまで味わった。
女盛りの五十鈴媛は脂の乗り切った手研耳から言い様のない喜びを得た。
彼女は細身の体でありながらも胸が豊かで、その可憐さは野に咲く花を思わせた。
五十鈴媛は手研耳の力強い腕にいだかれ、彼の暖かい温もりを全身に感じ、この上ない幸せに満たされた。
手研耳は五十鈴媛の美しい肢体をしっかりと抱き締めて愛撫し、激しく情を交わした。
二人の日々は満ち足りていた。
五十鈴媛は手研耳への愛に高ぶる心を嵐に喩え、恋の歌を詠んだ。
だが、周囲は不満を募らせた。
手研耳は皇道の宣布を控えるよう五十鈴媛に助言し、彼女もそれに従っていた。
皇道は大和王権の国是で、世界を一つの家にすることが目標に据えられており、そのために諸国への宣布もなされた。
「皇」は「統べる」を意味した。
多様な難民で構成された皇軍は、皆が安住できる理想郷を求めた。
そして、全ての民が遍く安らげる理想郷は、世界そのものが我が家のごときものにならない限りは実現されないと考えられた。
手研耳も難民を安住させることには賛同していた。
しかしながら、世界を一つの家とすることは、周辺諸国にとっては脅威でしかなかった。
実際、狭野は次々に新たな敵を作った。
彼は理想郷を実現させるためなら、敵を容赦なく絶滅させる戦争も辞さなかった。
手研耳はそれに付いていけず、皇道の宣布を控えることで周辺諸国の危機感を和らげ、平和を獲得しようとした。
けれども、大夫たちはそれに納得できなかった。
皇軍は理想を実現させるために命懸けで戦い、中立派や降伏した敵たちも、皇道を受け入れて新たな人生を歩むことにしたのだ。
手研耳が五十鈴媛になした助言は、平和を求めてのものとはいえども大夫たちの誇りを傷付けた。
大夫たちは手研耳への不満を沼河耳に吹き込んだ。
末っ子として両親や兄たちから可愛がられた沼河耳は、五十鈴媛が手研耳と再婚し、母を異母兄に奪われたと絶望した。
手研耳への憎しみを膨らませた彼は大夫たちに同調し、皇道に傾倒していった。
それに比して神八井耳は既に沼河耳よりも年上だったからか、母を取られたという感覚はなく、寧ろ手研耳と仲が良かった。
手研耳は狭野のやり方に疑問を覚えていたこともあり、大王になろうといった野心はなく、神八井耳や沼河耳が即位できることにも嫉妬しなかった。
それ故に神八井耳も手研耳と気安く付き合え、彼に影響されて平和を志し、医術に興味を抱くようにもなった。
沼河耳は自分だけ家族の中で孤立しているように感じ、手研耳への憎悪を膨らませ、更に大夫たちへ接近した。
大夫たちは手研耳と親しい神八井耳よりも沼河耳の方が大王に相応しいと持ち上げ、彼もその気になった。
増長した沼河耳は手研耳が五十鈴媛を籠絡し、大王の位を簒奪しようとしていると考え、正統な世継ぎたる自分が一刻も早く立ち上がらねばならぬと思い込んだ。
そうして彼は手研耳の殺害を決心したが、真正面から戦うのは避けた。
手研耳が戦場を駆け抜けた武人であるのに対し、沼河耳はそうした経験のない若輩者だった。
けれども、誰かに頼って即位するのは、その人物に逆らえなくなりかえず、沼河耳の自尊心が許さなかった。
そこで、沼河耳は手研耳を不意打ちで暗殺することにした。
手研耳はそのような沼河耳の決心を知る由もなかった。
彼は沼河耳が自分に懐かないのも、単なる相性の問題くらいにしか捉えていなかった。
五十鈴媛と神八井耳もまさか自分たちの家族に大きな亀裂が走っているとは夢にも思わなかった。
沼河耳は手研耳が一人で晩酌している時を狙い、闇に隠れて遠くから矢を射掛けた。
灯りに照らされた手研耳は狙いやすかった。
酔った彼は咄嗟のことに反応できず、助けも呼べぬまま落命した。
三
沼河耳による手研耳の暗殺は大和王権に衝撃を与えた。
しかし、沼河耳を担ぎ上げるつもりであった大夫たちはいずれ何かしら騒動が起きると予想していたので、事態に素速く対処できた。
彼らは五十鈴媛と神八井耳を軟禁し、手研耳の支持者たちを粛清すると、沼河耳を二代目の大王に推戴した。
だが、愛する人を奪われた五十鈴媛は、沼河耳の即位を認めず、彼に利用されぬよう自ら命をった。
争い事を好まぬ神八井耳は、すっかり震え上がって抵抗せず、一介の巫覡となり、野心のないことを示して助命された。
表向き手研耳は大王の地位を簒奪しようとして誅殺され、五十鈴媛は彼を止められなかった責任を取って自決したと説明された。
大王となった沼河耳は、積極的に皇道を宣布し、狭野の遠縁たる土本毘古に甲斐国(山梨県)を開拓させた。
大和王権は開拓した土地に皇道を宣布していた。
土本毘古と妻の藤巻姫らは湖を干拓し、農地を広げて稲作や養蚕、冶金などの技術を伝え、人々の暮らしを大いに潤わせると、彼らの心を掴んで皇道を広めた。
それは山門県(山門郡)の邪馬台国が用いる手法だった。
邪馬台国は知識人たる巫術者たちを各地に遣わし、役に立つ技を教えて民の生活を助け、自らの側に引き込んだ。
傭兵をしていた皇軍は、筑紫島(九州)を転戦していた時に邪馬台国の手法を学び、難民化した技術者たちを取り込んでいた。
沼河耳もそれを踏襲し、皇道を奉じる大夫たちを満足させ、川派媛を妻とした。
川派媛は磯城(磯城郡)の豪族である葉江の妹で、この婚姻によっても大王と大夫たちは関係を深めた。
しかしながら、救い出すつもりであった五十鈴媛から拒絶され、沼河耳の心は大きく傷付いた。
心の傷を隠すため、沼河耳は虚勢を張り、尊大な振る舞いを見せるようになった。
慢心する沼河耳は彼を担ぎ上げた大夫たちさえ苛立たせた。
やがて彼の高慢さは狂気すら孕んだ。
沼河耳は気に入らぬ人間に謀叛の疑いを掛け、殺してその肉を食すということまで行った。
ここに至って大夫たちは沼河耳の廃位を決意し、密かに彼を弑逆すると、死体は洞窟に投げ捨て、その出入り口を塞いだ。
沼河耳は行方不明になったとされ、三番目の大王に玉手看という人物が選ばれた。
玉手看は川派媛の姪たる川津媛の夫だった。
しかしながら、大夫の全員が玉手看の選出に納得したわけではなく、同じく川派媛の姪である泉媛と夫婦の耜友が四番目に、渟名城津媛と夫婦の香殖稲が五番目に、長媛と夫婦の国押人が六番目に、長媛の姪たる細媛と夫婦の太瓊は七番目に大王へ推挙された。
粛清を逃れた手研耳の支持者たちも、逃亡先の実力者と縁組みした国牽を八番目の、大日日を九番目の大王に推した。
これらの大王は多くが狭野と同様、葛城(葛城地域)を都と定めて葛城王朝と呼ばれたが、王朝とは名ばかりに彼らは内戦に明け暮れた。
そのような戦乱を余所に神八井耳は呪医として一生を送り、手研耳の夢を継いだ。
神八井耳の息子である健磐龍も内乱に揺れる大和国を離れ、父祖の地たる日向国に行った。
そこから健磐龍は阿蘇に移住し、草壁(草部村)にいる伯父の彦八井耳を訪ね、彼の娘たる阿蘇都媛と結ばれた。
健磐龍も土本毘古のごとく湖を干拓して農地を広げた。
そうした健磐龍に走建なる現地人の有力者が接近した。
走建が有力であるのは鬼八という豪族を祖父に持つからだった。
鬼八は日向国を一時的に支配した豪族で、その際に狭野の先妻たる吾平津媛を手籠めにした。
走建は鬼八と吾平津媛の子だった。
鬼八は狭野の兄である御毛沼に討ち取られた。
その残党を受け継いだ走建は、健磐龍を討ち果たすことで報復を遂げようとした。
そのために正体を隠し、相手の懐に飛び込んだのだが、健磐龍は走建の真意に気付いて彼を討った。
註
*五十鈴媛のいる三輪が皇軍に包囲される:『九鬼文書』
*手研耳が医者になりたいと願う:『上記』
*奇日方と宇摩志麻治が申食国政大夫に任命される:『先代旧事本紀』
*奇日方が越後で客死する:神保泰和『北越略風土記』
*宇摩志麻治が石見国で客死する:物部神社の伝承
*土本毘古が藤巻姫らと甲斐国を開拓する:『甲斐古蹟考』
*沼河耳が人間の肉を食す:『神道集』
*細媛が長媛の姪であるとされる:『秀真伝』
*健磐龍が阿蘇で阿蘇津媛と結ばれ、湖を干拓して農地を広げる:『阿蘇郡誌』
*走建が健磐龍に討たれる:阿蘇神社の伝承