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ヤマト奇談集  作者: flat face
葛城王朝
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厳媛

厳媛はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/113309128)


   一


 ()(しま)(本州・四国・九州)に土着の島民は()(じん)と呼称されていた。

 倭人は(とう)(てい)(じん)とも呼ばれ、(しん)(たん)(中国)の王朝である(しん)などに自国の珍しい品を貢ぎ、八洲は(てい)(がく)とも称された。

 東鯷人は(かい)(けい)(紹興市)にも来ており、そこは(えつ)の都だった。


 (えつ)(ひと)も八洲を訪れていた。

 越には()(せい)という女性の剣客がおり、その剣法は倭人にも伝えられた。

 (いつ)(ひめ)もそうした倭人の女性で、その背丈は高く、抜けるように白い顔は目映いばかりに美しかった。


 日向(ひゆうがの)(くに)(宮崎県)に生まれた厳媛は、(いつ)()なる王子に侍り、(ひの)(おみ)の称号を襲名していた。

 厳媛の一族は日向国を治める()(がや)(ちよう)に仕え、その王族を護衛し、代々、衛兵の首席には日向国で一番の武臣として日臣と名乗らせた。

 まだ若い厳媛が日臣となることに難色を示す向きもあったが、五瀬がそうした意見を退けた。


 最年長の王子たる五瀬は長子として王朝がどうあるべきかを常日頃から考え、独特な考え方をしていた。

 彼は厳媛の剣術を高く評価して彼女を抜擢した。

 厳媛は幼い頃から才能を見込まれて修行に明け暮れ、武芸の腕前で右に出る者はいなかったが、代わりに色事には疎く、その初心さから五瀬に初恋を抱いた。


 やがて彼女は五瀬の寝所にも侍るようになった。

 五瀬が厳媛のなだらかに丸い肩を掴んで彼女を押し倒すと、厳媛は嫋やかな下肢を広げ、五瀬のものを迎え入れた。

 彼女は細くてしなやかに長い腕を差し伸べ、彼の首に巻き付けて喜悦に喘いだ。


 五瀬は厳媛を内縁の妻とし、彼女は(ひめの)(みこと)とも呼ばれた。

 戦乱や(きり)(しま)(やま)の噴火で難民が大量に発生し、五瀬たちが彼らを安住の地へ移動させる旅に出ると、厳媛もそれに同行した。

 傭兵で食い繋ぐために武装した彼らには女性の兵士もおり、彼女たち()(いくさ)は厳媛が率いた。


 五瀬たちは同族を頼って大和(やまとの)(くに)(奈良県)を目指した。

 その途中に彼らの軍勢は他の難民も吸収し、自らを(すめら)(みくさ)と称するようになった。

 「(すめら)」は「統べる」意味した。


 五瀬は様々な出自の難民を吸収する中、皆が安住できる理想郷を追い求めるようになっていった。

 彼はそのような楽園の建設者を(すめら)(みこと)と呼んだ。

 皇尊は全ての民を遍く安んじるため、彼らの信仰する神々から啓示を受け、預かった言葉を()(こと)()ちに託し、楽土の建設に従事せしめる。


 かくのごとき思想を五瀬は皇道(すめらみち)と称し、それに基づいた王道楽土を大和国に建てようとした。

 大和国は土が肥え、四方を山に守られて襲われ難く、五瀬たちを十分に受け入れられるほど広かった。

 傭兵の仕事を通じて()()(宇佐市)の豪族である()()()(ひこ)らと結んだ五瀬たちは、アシアトウアンという族長に率いられた渡来人のアシア(ぞく)を降し、(はり)(まの)(くに)(兵庫県西南部)に拠点を築くと、理想国家を作るべく大和国の豪族たちと交渉した。


 しかし、五瀬の構想は大和国の豪族たちに危惧の念を抱かせた。

 (つく)(しの)(しま)(九州)の大国たる(じよ)(おう)(こく)()()(こく)が衰退し、その余波を受け、大和国とその周辺も分裂しかかっていたため、多様な民衆を統合しようとする理想は、確かに魅力的なものではあった。

 だが、革新的であるだけにもし失敗すれば、何とか維持できている今の秩序を破壊するだけに終わりかねなかった。


 大和国は(にぎ)(はや)()の末裔とされる()()(ひこ)が周辺の国々も含め、「()()(さと)」として緩やかに統一していた。

 饒速日は天上の神々たる(あま)()(かみ)で、(おし)()(みみ)の息子にして()々(に)()の兄だった。

 忍穂耳は(やま)(との)(あがた)(山門群)の()()(たい)(こく)などの、瓊々杵は()()(妻地区)の(とう)()(こく)などの祖神とされていた。


 鵜萱朝の祖神である鵜萱は瓊々杵の孫で、それ故に五瀬たちは「鳥見の里」を同族が治める国と見なして頼った。

 しかしながら、(かわ)(ちの)(くに)(大阪府南東部)の豪族たる(なが)(すね)(ひこ)は五瀬を討つべきであると安日彦に進言した。

 彼は妹の()(かしき)()(ひめ)が安日彦へ嫁いでおり、「鳥見の里」で最も勢力が大きかった。


 分裂しかかりつつある「鳥見の里」が秩序を維持できているのも、長髄彦の努力に負うところが少なくなかった。

 そのような長髄彦の目から見て五瀬は危険な人物だった。

 五瀬は安日彦たちに対し、「鳥見の里」の復興に労力と兵力を提供する見返りとして移住を認めてほしいと申し出た。


 しかしながら、長髄彦には五瀬が大和国の一部で細々と国を営んで満足するとは思えなかった。

 申し出を拒めば攻めてくるだろうし、受け入れれば「鳥見の里」を内部から乗っ取られかねなかった。

 実際、「鳥見の里」にも五瀬の構想に賛成する者が現れていた。


 長髄彦はこのままでは五瀬の危険な企てに「鳥見の里」が巻き込まれてしまうと安日彦に訴えた。

 安日彦は義兄弟たる長髄彦の貢献に恩義を感じていたので、彼の主張に同意した。

 そして、長髄彦たちは五瀬の一行を(しら)(かたの)()(枚方市)に呼び出し、そこで待ち構えて彼らに襲い掛かった。


   二


 五瀬は白肩津で長髄彦たちに傷を負わされ、()(いの)(くに)(和歌山県)へと逃れて(おの)(みな)()(雄湊)で戦死した。

 厳媛は五瀬を守れなかったことに絶望して自害しようとしたが、()()によって止められた。

 五瀬の末弟である狭野は兄たちの背中を見て育ち、彼らのようになることを目標としてきた。


 彼は五瀬に代わってその構想を実現させると宣言し、力を貸すよう厳媛に命じた。

 狭野は如何なる手段に訴えようとも目的を果たす覚悟で、それに勇気付けられて厳媛も再起した。

 (くま)()(熊野地方)で疫病に苦しめられるなど災難はあったが、狭野たちの下には現地の協力者たちも集まるようになった。


 彼らは五瀬の構想を支持していた者たちで、長髄彦が五瀬を襲ったことに反発し、狭野を担いで長髄彦と対決する道を選んだのだ。

 熊野の高倉下は霊剣たる(ふつの)(みたま)を狭野に献上し、(かつら)()(葛城地方)の(つの)()は道案内を務め、()()(宇陀市)の(おと)(うかし)()()(磯城郡)の(おと)()()はそれぞれ兄である()(うかし)()()()を裏切った。

 (よし)()(吉野郡)の(つち)(ぐも)たる()()(にえ)(もつ)()()()(ひか)(ひめ)(いわ)(おし)(わけ)()()らも狭野に味方した。


 土雲とは(しゆ)(じゆ)(こく)(フィリピン)や(こく)()(こく)(インドネシア)、()(こく)(ポリネシア)などからの移民であって最も早く八洲に土着し、地下の神々たる黄泉(よもつ)(かみ)を信仰した。

 先住の国栖は新たに来た(てん)(そん)(ぞく)()(ずも)(ぞく)に土地を奪われ、山中に穴を掘って暮らし、彼らから蔑まれていた。

 天孫族は粛慎(みしはせ)(満洲)からの、出雲族は(から)(くに)(朝鮮)からの移民で、八洲に土着して倭人となり、天孫族は天津神を、出雲族は地上の神々である(くに)()(かみ)を信仰した。


 狭野は土雲を蔑まなかった。

 皇軍には出自の異なる難民たちが混在しており、狭野にとっては出身よりも思想の方が重要で、彼は(はや)()()(ひら)()(ひめ)を妻とし、海人(あま)(ぞく)(おお)()()(しい)()()(ひこ)を重用していた。

 五瀬の思想たる皇道に賛同するなら何者であっても受け入れた。


 そうした狭野の姿勢は本物だった。

 五瀬が戦死して皆が絶望した時、狭野は皇道を説いた兄こそ神々の言葉を預かった者で、我らは必ず約束の地へ辿り着くと熱弁し、皆を鼓舞して聖なる戦いへと駆り立てた。

 東に回り込んで大和国に侵入せよという五瀬の遺言に従い、狭野たちは苦難の行軍をものともせず、山塊を越えてきた。


 土雲は狭野たちの狂信に心打たれ、畏怖の念を抱いた。

 狭野たちは皇道に賛同しない者には容赦せずに聖戦を遂行し、女性の豪族たる()(ぐさ)()()()(しき)()()()()梟帥(たける)と仇名される勇猛な男たちを討ち果たした。

 魔物に変わったかのごとき形相で狭野たちは服従(まつろ)わぬ者たちと戦い、汚い騙し討ちも辞さなかった。


 八十梟帥たちを討った時は、正面から攻略するのが難しい相手だったので、厳媛ら女軍が素裸になって敵陣に駆け込んだ。

 嘘泣きをしながら厳媛たちは皇軍の暴行から逃げてきたと訴え、八十梟帥たちは鼻の下を長くして彼女たちを助け入れた。

 女軍はその礼として宴席を設け、八十梟帥たちに酒を酌ぎ、彼らに身を任せもした。


 厳媛も八十梟帥たちの一人に抱かれた。相手は厳媛の重たげに膨らんだ乳房や括れた腰に魅了された。

 五瀬を失った今、厳媛には彼の夢を叶える他に生きる意味を見出せず、敵に媚びを売って恥じなかった。

 彼女は瞳を半眼に閉ざし、鼻梁の脇を膨らませ、僅かに開いた口の端から吐息を流しつつ、相手を素直に迎え入れて抗おうとしなかった。


 そうして八十梟帥が無防備になると、女軍は剣を抜き放ち、彼らを斬り倒していった。

 厳媛は皇道に献身する忠臣として(みちの)(おみ)と呼ばれた。

 皇道は皇軍の精鋭である()()()が軍歌で称揚してもおり、その()()(うた)において「鳥見の里」は古女房に、皇軍は新妻に喩えられ、古女房は捨てよと煽動された。


 「撃ちてし止まん」と呼号する皇軍は、向かうところ敵なしとばかりに「鳥見の里」の一帯を占領した。

 彼らは(いわ)()(桜井市南西部・橿原市南東部)を皇道による革命の根拠地とした。

 「鳥見の里」は王国の印たるその金鵄の飾りを皇軍に奪われ、皇軍がその金鵄を弓の上に掲げると、戦意を喪失して降伏した。


   三


 「鳥見の里」は安日彦と三炊屋媛の息子である()()()()()が神宝たる(あまつ)(しるしの)(みづ)(たから)を狭野に献上して皇軍に降った。

 安日彦と長髄彦は皇軍に服従わぬ者たちともども()(たか)()(東日本)に落ち延びた。

 長髄彦に「鳥見の里」の命運を託した安日彦は、その責任を取り、彼と運命を共にしてた。


 安日彦は長髄彦と比べれば凡庸だったが、それを自覚しており、有能な人材に権限を委ね、決して彼らを妬まなかった。

 それ故に長髄彦も安日彦に取って代わろうとはせず、皇軍に服従わぬ者たちも、日高見国まで付いていった。

 長髄彦と安日彦は(みち)(のく)(東北地方)で生涯を終えた。


 安日彦の妻である三炊屋媛は夫が長髄彦に同道したのと同様、皇軍に降った者たちに寄り添った。

 三炊屋媛の嘆願もあり、狭野は「鳥見の里」の旧臣を取り込むため、宇摩志麻遅を申食国政大夫(けくにのまつりごともうすうなきみ)とした。

 申食国政大夫とは狭野が「鳥見の里」に代わって建国した大和(やまと)(おう)(けん)の宰相だった。


 狭野は橿(かし)(はら)(柏原郷)に宮殿を建てると、大和王権の君主たる(おお)(きみ)に即位した。

 彼は自身を五瀬のごとき皇尊とは見なさず、その代理として大王を名乗った。

 大和王権も五瀬が構想した理想郷そのものではなく、それを実現するための前段階でしかなかった。


 大王となった狭野は、その地位を大和王権の周辺諸国にも認めさせ、()(だの)(くに)(岐阜県北部)では(りよう)(めん)宿(すく)()の称号を襲名する王が狭野の即位を認めた。

 彼は(あめの)(とみ)()(わの)(くに)(徳島県)を開拓させ、そこに皇道を宣布させた。

 狭野にとって皇道を万民に開かれたもので、彼はその思想を宣布させるよう各国に要求し、拒否すれば遠征軍を派遣した。


 高倉下と宇摩志麻遅は(こしの)(くに)(北陸)や()(のの)(くに)(岐阜県南部)に遠征し、()(わけ)()()()(ひこ)という神の末裔に()(せの)(くに)(三重県中部)を献上させ、(もと)()(ひこ)(あづまの)(くに)(関東地方)へと出兵した。

 大和国でも豪族の(にい)()()()()(せの)(はふり)(いの)(はふり)(たか)()(わりの)(むら)の土雲らが皇軍に滅ぼされた。

 狭野の親征が行われる時は、厳媛が彼の身辺を警護した。


 大王の護衛として厳媛は特に目を掛けられ、狭野から直々に宅地を与えられた。

 彼女はそこに館を構え、その中で男妾を養った。

 八十梟帥たちを斬り倒した際、厳媛は彼らの一人を生け捕りにしていたのだ。


 その男は厳媛を抱いた八十梟帥で、厳媛に剣で刺し貫かれたが、一命を取り留めて厳媛の関心を引いた。

 五瀬を失った厳媛は、愛する人に二度と抱かれることがないという虚しさに苦悩し、生命力に満ちたその八十梟帥の体に興味を覚えた。

 彼女は八十梟帥を生かしてやり、その見返りとして逞しい彼に孤閨を慰めさせた。


 狭野は厳媛を信頼していたので、彼女の所業に目を瞑った。

 厳媛は八十梟帥との息子である(うまし)()を産み、味日は彼女が一人で産んだ子として育てられた。

 厳媛は味日に後を継がせると、八十梟帥との爛れるような媾合(まぐわい)に溺れ込んだ。


 八十梟帥は厳媛の両頬に平手打ちを喰らわせ、首を絞めるなどして彼女と媾合(まぐわ)った。

 厳媛は五瀬を守れず、彼を裏切って不義を働く己を罰すると称し、八十梟帥に暴力的な媾合をするよう命令した。

 彼女は被虐の喜びに目覚め、媾合は段々と過激になっていった。


 やがて厳媛が全く顔を見せなくなり、味日が母を心配して彼女の閨を訪れた。

 すると、そこでは厳媛が被虐の果てに事切れ、八十梟帥が彼女の両脚を両腕に抱えながら、腰を前後に動かし、厳媛が死してもなお彼女と媾合い続けていた。

 味日は実の父親である八十梟帥を剣で斬り殺し、自らも血だらけになりながら、血塗れの厳媛を抱き締めた。



   註


*東鯷人が新などに自国の珍しい品物を貢ぐ:楊雄『法言』

*鯷壑に東鯷人がいる:魚豢『魏略』

*会稽に東鯷人が来ている:班固『漢書』

*五瀬の妻に妃命がいる:水谷神社の伝承

*アシアトウアンに率いられたアシア族が五瀬たちに降される:カタカムナ文献

*饒速日の末裔が「鳥見の里」を治める:石切劔箭神社の伝承

*角身が狭野の道案内を務める:『山城国風土記』

*宇摩志麻遅が天璽瑞宝を狭野に献上する:『先代旧事本紀』

*安日彦と長髄彦が日高見に落ち延びる:『曽我物語』

*両面宿儺が狭野の即位を認める:細江漁夫「飛騨八所和歌裏書」

*天富が阿波国を開拓する:斎部広成『古語拾遺』

*高倉下が越国に遠征する:彌彦神社の伝承

*宇摩志麻遅が美濃国に遠征する:物部神社の伝承

*天日別が伊勢津彦の末裔に伊勢国を献上させる:『伊勢国風土記』

*元湯彦が東国に出兵する:『先代旧事本紀大成経』


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