吾平津媛
吾平津媛はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/113120787)
一
日向国(宮崎県)は八洲(本州・四国・九州)の様々な倭人が入り混じって住むところだった。
一口に倭人と言っても多様であって天孫族や隼人、海人族らが日向国で暮らしていた。
それぞれ天孫族は粛慎(満洲)から、隼人は夷洲(台湾)や亶洲(沖縄県)から、海人族は震旦(中国)から移民して八洲に土着した。
そのような倭人で日向国にいる者たちは、鵜萱朝という王朝が統べていた。
天孫族の王朝たる鵜萱朝だったが、隼人や海人族とも結婚し、それは王朝の神話に反映された。
鵜萱朝の王たちは鵜萱という半神の末裔とされていたが、鵜萱は天津神や山祇、海祇らの血を引くとされていた。
天上の神々である天津神は天孫族が、山の神々たる山祇は隼人が、海の神々である海祇は海人族が特に信仰する神々だった。
鵜萱朝は隼人や海人族と婚姻し、鵜萱のごとく様々な倭人の血を引くことで日向国を緩やかに統合していた。
粛慎や震旦から見て筑紫島(九州)でも辺境に位置する日向国は、未開拓の地が広がり、様々な倭人が進出していた。
新天地を求めた彼らは、出自が異なっても同じ入植者として互いに助け合った。
結束を強めるために婚姻も結び、鵜萱朝も政略結婚により中心勢力と化すことで日向国を統合した。
鵜萱朝の王子たる狭野も隼人の吾平津媛と夫婦になった。
四兄弟の末っ子である狭野は兄たちの背中を見て育ち、早く兄たちのようになりたくて無理をするところがあった。
吾平津媛も隼人の豪族たる加志久利耳の娘で、隼人の名を辱めてはならぬと気負って狭野と結婚した。
そのように狭野と吾平津媛はお互い意気込んでいたため、却って衝突することも少なくなかったが、それ故に二人は好敵手に持つような感情を己の伴侶に抱いた。
それがいつしか愛情に転じ、彼らは何かにつけて激しく競い合ったように情熱的に愛し合った。
吾平津媛は痩せていたが、乳房はこんもりと膨らんで大きく、乳首はふっくらと良く熟れ、褐色の肌には張りがあり、柔らかな体からはほっそりとしつつも強靱な太腿が伸びていた。
夫婦の寝室で吾平津媛は寝床に横たわった狭野の股間に腰を落とし、その温かくて柔らかな中心を串刺しにされた。
やがて狭野と吾平津媛の間に手研耳と研耳の兄弟が産まれた。
このまま彼ら家族は幸せに暮らせるかと思われたが、時代はそれを許さなかった。
筑紫島の最大勢力であった女王国が衰退し、秩序の揺らぎが戦乱をもたらした。
日向国でも都萬(妻地区)の投馬国が連合国たる女王国に加盟していたので、女王国の衰退による戦乱は日向国にも波及した。
しかも、霧島山が火を噴き、農地が多大な被害を受け、鵜萱朝は壊滅的な打撃を被った。
最早、日向国にこれまでと同じように人民を養う余裕はなく、少なからぬ人々がこの地を去らねばならなくなった。
狭野は鵜萱朝の王族として難民を率い、新しい土地を求め、危険な旅に出ることを選んだ。
対して吾平津媛は阿多(薩摩半島)にいる兄の天曽利から支援されながら、残された民を守ることにした。
狭野と吾平津媛の決断はどちらも己は何をなすべきかを考えてのことだったが、そのために二人は離別せねばならなかった。
胸の痛みは耐えがたいものだった。
しかし、二人とも互いに相手が果たすべき責務を放棄できる人間ではないと分かっていた。
そして、どちらもそのような人間であるからこそ狭野と吾平津媛は愛し合うに至ったのだ。
手研耳は狭野が旅に伴った。
研耳は鵜萱朝の後継ぎとして日向国に残り、吾平津媛が彼を後見した。
狭野の兄たちは皆が弟に付いていき、彼ら兄弟たちは諸国で傭兵として雇われながら各地を渡り歩いた。
戦乱の絶えぬ筑紫島では傭兵の需要が尽きなかった。
狭野の一行は美々(み)津(美々津町)から出航すると、まず豊国(福岡県東部・大分県)の宇佐(宇佐市)に到り、続いて筑紫国(福岡県西部)の崗水門(芦屋港)へと停泊した。
韓郷(朝鮮)の鉄が集積するその港で彼らは鉄製の武器を大量に入手し、安芸国(広島県西部)や吉備国(岡山県・広島県東部)を経て瀬戸内の海を越えた。
狭野たちは大和国(奈良県)を目指していた。大和国にも天孫族がおり、そこには実り豊かな耕作地が広がり、銅や辰砂を産する山もあるという噂が伝わってきていた。だが、狭野たちは河内国(大阪府南東部)の白肩津(枚方市)で豪族の長髄彦らと戦い、長兄の五瀬が傷を負った。
二
日向国に留まった吾平津媛は、そこで夫たちの成功を祈った。
研耳も民と共に耕作に従事した。
激しく競い合って情熱的に愛し合う両親に気圧されたのか、研耳は万事に控え目で、偉ぶるところがなく、民は彼を慕った。
また、移民によって人口が減り、王族の研耳たちも節約に努めた。
そのおかげで徐々にではあるが、日向国に余裕が生まれていった。
このまま行けば、鵜萱朝の再興も夢ではなかった。
しかし、現実はそうならなかった。
豪族の鬼八が日向国にやってきたのだ。
鬼八も狭野たちと同様、戦乱や飢饉で発生した難民を率い、傭兵をして食い繋ぎながら、各国を転々としていた。
狭野たちが大和国を安住の地と見定めのと同じく鬼八も日向国をそう見なした。
傭兵を続けて鍛えられた鬼八たちは、瞬く間に日向国を支配した。
吾平津媛の兄たる天曽利は妹を助けられなかった。
熊襲(熊本県・鹿児島県)の大国であった狗奴国が英主たる卑弥弓呼を失って衰退し、隼人も戦乱の渦に巻き込まれていた。
鬼八たちの支配下に置かれた日向国は、服従の証として彼らに人質を幾人も差し出さねばならなくなった。
すると、吾平津媛が人質の一人に志願した。
自身を生け贄とすることで吾平津媛は鬼八と直談判した。
傭兵を率いる将として鬼八は吾平津媛の剛胆さを気に入り、彼女が要求する通り人質たちを虐待しなかった。
ただ、その代わりに彼は吾平津媛を自分の奴隷にした。
当初、鬼八は日向国を荒らし回り、奪えるものが無くなれば、立ち去るつもりでいた。
だが、鵜萱朝の王母である吾平津媛を隷従させた彼は、彼女の主人として日向国を治めることに決めた。
鬼八は国盗りを成し遂げた梟雄だけあって知恵も回り、日向国の人民を生かさず殺さず搾取した。
吾平津媛もまた鬼八によって生殺しにされた。
鬼八は傭兵としての戦場暮らしで荒み、空想上の猛獣に因んで野猫とも呼ばれ、その嗜虐心を満足させるため、吾平津媛を監禁して淫虐な楽しみに耽った。
着ているものを剥ぎ取られた吾平津媛は、毎日、意識が遠退くほど手酷く犯された。
鬼八は吾平津媛を残酷にいたぶり、彼女が苦痛の余り気を失えば、力尽くで正気に戻した。
彼は次々に新たな拷問を考え出し、赤裸に剥いた吾平津媛を鞭打つかと思えば、焼けた鉄を押し当てるなどありとあらゆる加虐に溺れ込んだ。
やがて吾平津媛は鬼八との間に子を産んだ。
母がそうした目に遭わされても研耳は鬼八に刃向かわなかった。
人質を取られており、研耳も争い事に向いていなかった。
それに、搾り取られているとは言え、生きていけないことはなく、研耳も民と共に働いて鬼八に貢納した。
無論、研耳たちとてこのままで良いと思ってはいなかった。
だが、鵜萱朝の主力は狭野たちが引き連れていき、天曽利からの支援を頼りにしていたので、それが望めなくなっては鬼八に反抗するなど不可能だった。
もし反乱に失敗すれば、吾平津媛の犠牲が無意味になった。
鬼八は聖地たる智鋪(高千穂)の「あららぎの里」(三田井)に住み、吾平津媛との間に産まれた子を日向国の王にすると宣言した。
研耳は庶民と同じ扱いになり、鬼八たちからこれ見よがしに貶められた。
彼は民が見ている前で鬼八たちの手下たちによって順繰りに凌辱された。
三
救いはないのかと日向国の人々は諦めかけた。
ところが、意外な形で救いの手が差し伸べられた。
狭野の三兄である御毛沼が帰ってきたのだ。
長髄彦たちに敗れた後、狭野たちは紀伊国(和歌山県)へと逃げ、負傷していた五瀬は雄水門(雄湊)で戦死した。
長兄の死を受け、狭野たちは今後の方針を話し合って意見が分かれた。
次兄の稲飯は大和国に向かうのを断念しようと主張し、御毛沼もそれに賛成した。
しかし、狭野は飽く迄も大和国に拘り、稲飯および御毛沼と袂を分かった。
兄弟たちは熊野(熊野地方)で人員を分け合い、それぞれ別の道に進んだ。
稲飯は筑紫島まで御毛沼と同道し、そこから韓郷の東南部たる辰韓に渡った。
辰韓は倭人の瓠公が重臣に抜擢され、旦波国(三丹地方)の多婆那国から来た昔脱解が王に即位していた。
稲飯も妻の祥持姫が産んだ稚草根を王家に婿入りさせ、王族の一員となった。
他方、筑紫島で稲飯と別れた御毛沼は、手勢を引き連れて日向国に戻った。
彼は日向国の惨状に驚いたが、それ以上に鬼八たちの所業に怒り狂った。
それでも、冷静さを失うことなく、御毛沼は鬼八たちを討伐すべく密かに準備した。
彼は研耳らに接触して同志を募り、決起に十分な兵力が揃うと、四十四人の手下を連れ、密やかに鬼八を襲った。
鬼八は己の支配を盤石のものにしたと思い、心に隙を生じさせていたので、御毛沼の間者たちに様子を探られても気付かなかった。
奇襲を成功させた御毛沼たちは鬼八を斬り殺し、怒りに任せてその骸を切り刻んだ。
同時に研耳たちも蜂起し、油断していた鬼八の一味は、次々と血祭りに上げられていった。
そうして日向国は鬼八から解放されたが、吾平津媛は余命が幾ばくもなかった。彼女は手足を縄で縛り上げられ、酷く傷付いた裸体を鬼八の部屋に吊されていた。痛め付けられて枯れ草のごとく干上がった吾平津媛は、研耳や御毛沼の言葉を聞いても弱々しい呻き声を出すばかりだった。
なお、吾平津媛が鬼八に産まされた子は、残党に匿われて行方を眩ましていた。
日向国は研耳が身を引いたので、御毛沼が治めることになった。
鬼八を討ち取った御毛沼は、人質の一人であった鵜目姫を娶り、八人の子供を儲けた。
研耳は吾平津媛が衰弱死すると、日向国を後にした。
燃え尽きた灰のようになっても吾平津媛の心には狭野への愛が埋み火のごとく残り、彼の名前を何度も呼びながら死んだ。
そのような母の最期を父に伝えるため、研耳は狭野や手研耳を追い、大和国で彼らと再会した。
狭野は研耳から吾平津媛のことを聞き、この身がどれほど妻から愛され、彼女が如何に誇り高かったかを知って涙した。
我が身を犠牲にしてでも民を守った吾平津媛に報いるため、彼は大和国に吾平津媛の宮を築き、吾平津媛がそこに住んでいるかのごとく手入れを怠らなかった。
既に狭野は長髄彦を降伏させ、大和国を治めていた。
だが、周辺には未だ敵が多く、彼らとの戦いに自分も加わりたいと研耳が狭野に申し出た。
研耳は何か手柄を立て、鬼八たちから受けた辱めを雪ぎたいと願っていた。
それに、民のために我が身を捧げた母を目にし、彼女の息子として無為に過ごしてはならぬという想いにも駆られていた。
狭野は研耳の身の上も知って悲しみ、彼を危険な目に遭わせたくないと思っていた。
しかしながら、人の上に立つ者として我が子を依怙贔屓してはいられなかった。
研耳は狭野の命令を奉じ、但馬国(兵庫県北部)に逃れた敵を平定するのに参加した。
けれども、彼は途中で病魔に冒されて没した。
特に軍功を上げることもなかったので、研耳の名前は忘れ去られた。
後には但馬国に赴いたのは、兄の手研耳と間違われるようにさえなった。
狭野は研耳の死を嘆いたが、そうしてばかりもいられなかった。
真面目すぎる彼は大和国を治めるためなら、鬼八が行うような暴虐も辞さず、そのせいで敵を増やしてもいた。
そして、戦場で重傷を負って亡くなった。
註
*鵜萱朝が日向国を統べる:『神伝上代天皇紀』
*吾平津媛が加志久利耳の娘とされる:田中憲信『神別系譜』
*狭野の一行が美々津から出航する:立磐神社の伝承
*吾平津媛が日向国に留まり、そこで夫たちの成功を祈る:吾平津神社の伝承
*研耳が民と共に耕作に従事する:吾田神社の伝承
*吾平津媛が野猫にいたぶられて死ぬ:『上記』
*辰韓で倭人の瓠公が重臣に抜擢され、多婆那国から来た昔脱解が王に即位する:金富軾『三国史記』
*稲飯と祥持姫の間に稚草根が産まれる:椎根津彦神社の伝承
*辰韓で稲飯が王族の一員となる:『新撰姓氏録』
*御毛沼が「あららぎの里」で鬼八を討伐して鵜目姫を娶る:高千穂神社の伝承
*大和国に吾平津媛の住まいが築かれる:嗛間神社の伝承
*手研耳が狭野の命令を奉じ、但馬国に逃れた敵を平定しようとするが、途中で病魔に冒されて没する:『東河誌』
*研耳が手研耳と間違われる:本居宣長『古事記伝』