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ヤマト奇談集  作者: flat face
播磨王朝
37/41

飯豊

飯豊はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/138540111)


   一


 大和(やまと)(せい)(けん)()(しま)(本州・四国・九州)の各国が連合した政権で、国々の王たちは豪族となった。

 連合政権は大和(やまと)(おう)(けん)を盟主とし、その君主である(おお)(きみ)は王朝が何度か交替していた。

 大和王権は(かつら)()(おう)(ちよう)が建国し、大和政権は()()(おう)(ちよう)が樹立させ、(かわ)()(おう)(ちよう)によって八洲に土着の()(じん)を代表する()(こく)と海外から承認されるようになった。


 河内王朝の開闢に貢献したのが(たけ)(うちの)宿(すく)()(たけ)(うち)だった。

 政界の長たる(おお)(おみ)であった武内は海上交通網を掌握し、大和政権を倭国と海外に承認させるなど外交でも活躍した。

 彼は自身の権力を大王たる(おお)鷦鷯(さざき)に継承させ、次男の(かつら)(ぎの)()()(ひこ)()()(ひこ)が婿入りした(かつら)()(うぢ)に補佐させた。


 そのために葛城氏は大王の一族である()()(うぢ)の外戚にもなった。

 襲津彦の娘たる(かつら)(ぎの)(いわ)()(ひめ)(いわ)()(ひめ)は大鷦鷯に嫁ぎ、二人の息子である()()()(わけ)は磐之媛の姪たる(かつら)(ぎの)(くろ)(ひめ)(くろ)(ひめ)を娶った。

 去来穂別と黒媛の息子である(おし)(はの)()()は黒媛の姪たる(かつら)(ぎの)(はえ)(ひめ)(はえ)(ひめ)と夫婦になったが、子宝に恵まれなかったため、押磐王子の妹である(あお)(みの)(ひめ)(みこ)の子供たちを養子にした。


 青海王女は葛城氏の傍系たる()()(うぢ)の男性と結婚するも夫に先立たれ、押磐王子のところに身を寄せ、彼に子供たちの後ろ盾となってもらった。

 子供たちは三人おり、姉である(いい)(とよの)(いらつ)()(いい)(とよ)()()および()()の兄弟だった。

 青海王女は亡くなった夫に操を立てて再婚せず、隠居して学問に打ち込んだ。


 彼女は従弟の(くろ)(ひこの)()()(どう)(きよう)の科学技術たる(れん)(たん)(じゆつ)に耽溺していたので、彼からその手解きを受けてもいた。

 飯豊も青海王女から煉丹術などを伝授され、八洲の最高学府である()(せの)(おお)(かみの)(みや)(伊勢神宮)にも留学し、倭人の知識層たる巫術者となった。

 弟たちと年が離れた飯豊は、母のごとく彼らに接し、幼き頃より大人びていた。


 それゆえにか、早くから弟たちの守り役である(くさ)()(べの)()()(ひこ)()()(ひこ)に恋をした。

 吾田彦は心優しい忠節者で、意祁と袁祁の守り役を任されており、仕事上、飯豊と接する機会も多かった。

 年頃の吾田彦も匂うように美しくて聡明な飯豊に惹かれた。


 飯豊は雪のごとく白い肌に濃い睫毛や小さな唇が理想的に配置され、ほっそりとした上半身は、柔らかい脂肪層に包まれており、果実のような乳房が豊かに脹らんでいた。

 交際するようになった二人は幸せだった。

 しかし、その幸せな日々は突然に終わった。


 黒彦王子の弟たる(わか)(たける)が兄たちや葛城氏の当主である(かつら)()(つぶら)(つぶら)、そして、押磐王子の命を奪って大王となった。

 幼武は倭国を超大国たる(しん)(たん)(中国)のごとく集権化したいと考え、即位の邪魔になる者たちを片端から葬った。

 阿毎氏の外戚である葛城氏も王権が強まるに連れて勢力を増し、最大の豪族になっていたため、幼武から疎まれて滅ぼされた。


 押磐王子の養子たる意祁と袁祁も幼武に殺されるかも知れなかったので、青海王女は二人を逃がし、自身は荑媛と飯豊を連れて忍海氏のところに戻った。

 意祁と袁祁の逃亡には吾田彦が父の(くさ)()(べの)使()()と共に付き添っていた。

 日下部使主は素性を隠して()()()と名乗ったが、前途を悲観して洞窟で縊死した。


 それでも、吾田彦は意祁と袁祁を連れ、(たに)(わの)(くに)(三丹地方)に脱出して(はり)(まの)(くに)(兵庫県南部)の(しじ)()(志染町)へと入った。

 そこには押磐王子の旧領があり、(おし)(ぬみ)(べの)(ほそ)()(ほそ)()が管理していた。

 細目は忍海氏の支族で、表向き幼武に忠誠を誓い、引き続き領地を管理することを許された。


 だが、彼は意祁と袁祁を匿い、二人は(たに)(わの)小子(わらわ)と呼ばれ、牧童となって身を潜めた。

 吾田彦は意祁と袁祁に傅きながら、縮見と(おし)()を行き来した。

 そこは忍海氏の所領で、青海王女と飯豊がひっそりと暮らしていた。


 荑媛は夫を殺された心労により没していたので、青海王女が押磐王子の遺民らを守るために幼武と交渉した。

 幸い幼武の妻である(かつら)(ぎの)(から)(ひめ)(から)(ひめ)は円の娘で、共に葛城氏の系譜に連なる青海王女に同情的だった。

 幼武は葛城氏の生き残りを懐柔するために韓媛を娶ったが、彼女は夫に服従しているよう見せ掛けつつ、一族を再興しようとしていた。


   二


 韓媛は青海王女に(ひと)(こと)(ぬし)を祀らせてはどうかと幼武に進言した。

 一言主は(かつら)()(やま)に祀られている女神で、葛城氏に信仰されていた。

 そのような一言主を青海王女に祀らせ、彼女に葛城氏の生き残りを取りまとめさせることで彼らを慰撫し、その祭祀には大王の幼武も臨席する。


 それにより葛城氏の生き残りは大王も臨席する祭祀を誇りのよすがとし、一言主を祀るのにかまけ、政治に携わらなくなる。

 また、葛城氏の生き残りが一言主を祀るのに集中すれば、その祭祀は洗練され、それに参加する大王の権威も高まる。

 幼武は韓媛の提案を承諾し、青海王女に葛城氏で一言主を祀らせ、親衛隊である(じよう)(とう)(じん)たちを率いて祭祀に臨席した。


 葛城氏は渡来人がもたらした先進の祭祀儀礼によって祭儀を練り上げ、狙い通り時の人々は幼武を有徳(おむおむしくます)と讃え、幼武は大王のために一言主を祀る一族として葛城氏を復活させた。

 それこそが韓媛の狙いで、彼女は(なに)(わの)()(たか)()(たか)にも青海王女たちを支えてくれるよう頼んだ。

 日鷹は渡来人とも縁組みしている(なに)()(うぢ)の外交官で、親族の(なに)(わの)()()()()()()は主君たる(おお)(くさ)(かの)(みこ)の死に殉じていた。


 大日下王は阿毎氏の分家である(くさ)(かの)(みや)(おう)()の当主だった。

 息子の(まよ)(わの)(みこ)は幼武によって円と共に殺されており、その縁で日鷹と韓媛は面識があった。

 日鷹は柔らかな物腰の紳士で、控えめながらも交渉に長けていたため、幼武から重用されていた。


 しかし、それ故に幼武の強硬な外交に心を痛めた。

 幼武は西(せい)(れき)の紀元後四七七年に新羅(しらぎ)の各地を攻撃した。

 (から)(くに)(朝鮮)の東南部にある新羅は、中南部にある()()の鉄などを巡り、倭国と対立することが多かった。


 倭人は韓郷の南端部に(みま)()という居留地を築き、西南部にある百済(くだら)も、倭国と交流していた。

 百済の王妃には()()()(じん)のように倭人の女性もおり、王弟の(こん)()(おう)は大使として倭国を訪れ、倭国も百済が戦災から復興するのを支援した。

 河内王朝は去来穂別から幼武までの歴代が「()()(おう)」と称されるなど大王が諸外国から倭国王と認められ、海外との貿易を統制することで支配を維持しており、百済は重要な外交窓口だった。


 もっとも、外国との関係にばかり頼っていると、海外の動向に振り回されかねなかったので、官人を大王に直属させる(ひと)(せい)の整備など内政にも力が注がれた。

 幼武も震旦を統一した(しん)()(こう)(てい)に倣い、定められた法を徹底させるとことで国を治めようとした。

 ただ、その法支配は過酷で、このことも日鷹を憂えさせた。


 そこで、日鷹は幼武の苛政を少しでも緩めるため、韓媛に協力することにした。

 彼は韓媛から頼まれ、外交官の立場を利用し、青海王女たちが密かに外界と連絡を取れるよう便宜を図った。

 そのおかげで吾田彦は隠れて青海王女と接触し、意祁と袁祁のことを報せて飯豊とも再会した。


 飯豊は吾田彦に身を投げ出し、激しく情愛を交わした。

 灯りの消えた暗闇を二人の喘ぎが掻き乱し、束の間の逢瀬に身を焼いた二人は、燃え盛って乱れに乱れた。

 房事は明け方まで飽くことなく続いた。


 そうして播磨国は葛城氏が復権するための拠点となった。

 葛城氏は各氏族と連携することで権力を掌握し、滅亡後もその関係を懐かしむ者が少なくなかった。

 彼らは幼武の統治に反発し、意祁と袁祁が播磨国に潜伏していることを知ると、二人を陰ながら援助した。


 幼武が身罷った後は、彼と韓媛の息子たる(しら)(かの)()()が父の地位を継いで(しら)(かの)(おお)(きみ)となった。

 白髪大王は体質が虚弱で、韓媛は体の弱い息子には権威が欠けているとし、年老いた青海王女の代理として飯豊を宮中に招いた。

 韓媛の措置は白髪大王を権威付けるためとされ、その説明で納得されるほど葛城氏の祭祀は権威あるものとなっていた。


 飯豊は後宮に籠もる白髪大王に代わり、国家的な祭祀を執り行った。

 政務は韓媛が重臣たちの助けを受けながら行い、彼女は子供がいない白髪大王の世継ぎをどうすべきか飯豊に諮問した。

 飯豊は啓示を授かったと称し、意祁と袁祁が播磨国にいるので、二人を探し出せて都に迎え入れさせた。


   三


 白髪大王は韓媛や飯豊に助言され、意祁と袁祁を養子にし、それから程なくして逝去した。

 意祁と袁祁のどちらが即位するかで葛藤があり、韓媛も病のせいで寝たり起きたりの状態が続いていたので、飯豊が政務を代行して仮の大王とされた。

 幼武の苛政は社会を混乱させ、白髪大王の治世にも尾を引いていたため、飯豊は(こう)(ろう)()(そう)を国是とした。


 黄老思想は震旦の思想で、伝説上の帝王である(こう)(てい)と道教の開祖とされる(ろう)()を結び付けており、秦に取って代わった(かん)に採用された。

 それは老子が教えるように個人の幸福を優先し、君主が人民の生活へ過度に干渉しなければ、黄帝のごとく理想の政治を実現できると説いた。

 漢は最低限の法だけ布き、秦の過酷な法統治に苦しんでいた民を休ませ、社会を安定させるのに成功した。


 飯豊も幼武の布いた法を改め、租税や課役も軽くした。

 彼女は多くの臣下を取り立て、彼らとの協調に尽くし、幼武の専制的な支配とは対極的な政治を目指した。

 そうして社会は少しずつ落ち着いていったが、飯豊の統治に不満を抱く者もいた。


 (きの)()(いわ)()(いわ)もその一人だった。

 大磐は武内の長男たる(きの)(つぬ)(つぬ)の曾孫で、幼武による新羅の征討に参加してもいた。

 その征討には(おお)(ともの)(かたり)(かたり)(きの)()(ゆみ)()(ゆみ)()(がの)(から)()(から)()(つのの)()鹿()()()鹿()()が将軍として派遣された。


 しかし、談は壮絶な戦死を遂げ、小弓も戦地で病死した。

 大磐は小弓の嫡男で、父の無念を晴らしたいと幼武に申し出て戦場へ向かった。

 ところが、彼は(つの)(うぢ)に婿入りした兄の小鹿火と対立した。


 大磐は非常に好戦的な武闘派だった。

 相次ぐ将軍の死で厭戦気分が漂うのをものともせず、強引に戦闘を続けようとし、周囲の意見に耳を貸さなかった。

 小鹿火は弓の名手である韓子に大磐を射殺させようとしたが、大磐は韓子を返り討ちにした。


 報復を恐れた小鹿火は、帰国して(つのの)(くに)(都濃郡)に引き籠もった。

 そのような大磐にしてみれば、飯豊の方針はとても受け入れられるものではなかった。

 彼女は倭国を震旦の伝説に登場する()(そう)(こく)のごとく平和な理想郷にしたいと述べ、新羅とも関係改善にも意欲を示していた。


 青海王女が静かにその生涯を閉じ、その遺言によって袁祁が大王の座に就くと、河内王朝に代わって(はり)()(おう)(ちよう)が開かれた。

 飯豊は身を引いたが、袁祁は播磨国にいた時から支えてくれた勢力を基盤とし、姉から引き継いだ政策を推進した。

 すると、任那にいた大磐は、韓郷の北部にある(こう)()()と結び、(さん)(かん)(朝鮮南部)の王たらんとした。


 彼は目的の障害となるなら、仲間であっても躊躇せずに切り捨てたが、自らの意に沿う限り部下思いで、心酔する部下も多かった。

 大磐は反対派を抹殺して任那を掌握すると、神聖(かみ)という王号を名乗った。

 彼は韓郷の(から)(ひと)たる()()()(こう)(はい)()()()に百済を攻めさせ、反撃されても容易く退けてみせた。


 袁祁が逝って意祁が位に即くと、大磐の動きを抑えるため、日鷹が高句麗へと遣わされた。

 技術者を招聘するなど日鷹は高句麗と友好関係を築いて任那を孤立させた。

 旗色の悪くなった大磐は敗走中に事故死し、那奇他も百済に捕らえられて処刑され、日鷹はその後も百済との交渉で活躍するなど能吏として人生を終えた。


 韓媛も既に亡くなっていたため、飯豊はここが引き際と考え、青海王女がいた忍海に隠遁した。

 それには飯豊の懐刀である吾田彦も同行していた。

 歴史の表舞台には立たなかったが、吾田彦は飯豊が天下に泰平をもたらすのに力を貸した。


 倭国は海外から承認されることで政権を維持してきたが、国内の制度が整うに連れ、八洲で自足してそこを全世界たる天下と捉える意識が育った。

 それ故に幼武は国内において治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)を自称した。

 そうした意識があったため、袁祁は震旦の(あや)(ひと)のごとく(てつ)と名乗った白髪王子に倣って(まん)と称した。


 だが、意祁はそのようなことをしなかった。

 それにより彼は倭国王としてではなく、扶桑国の王たる()()として震旦に伝わっていた。

 飯豊はそうしたことを伝え聞きながら、吾田彦ともども穏やかに天寿を全うした。



   註


*倭国が新羅の各地を攻撃する:金富軾『三国史記』

*昆支王は大使として倭国を訪れる:『百済新撰』

*飯豊が大王とされる:皇円『扶桑略記』

*幼武が治天下大王を自称する:銀象嵌銘大刀

*哲の子が満と称する:「松野連系図」

*扶桑国の王が乙祁とされる:姚思廉『梁書』

*乙祁が意祁とされる:平田篤胤『大扶桑國考』


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