若日下王
若日下王はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/137219645)
一
かつて日向国(宮崎県)は鵜萱朝という王朝が治めていた。
戦乱や天災で日向国が壊滅的な打撃を受けると、鵜萱朝の人々は一部が移民し、残りは故郷に留まった。
移民は東征して大和国(奈良県)で大和王権を建国し、日向国に残った人々は祖国を復興した。
祖国の復興に当たった鵜萱朝の王族は、その後に大和政権から氏名を授けられて諸県氏と名乗った。
大和政権は大和王権が諸国と連合した政権だったが、その君主である大王は鵜萱朝と異なる血統に交替していた。
諸県氏に氏名を授けたのは、河内王朝という王朝で、その王朝に諸県氏は諸県髪長媛/髪長媛を嫁がせた。
髪長媛は大王の息子たる菟道稚郎子と結婚し、彼は正式に即位してはいなかったが、「菟道(宇治市)の大王」と呼ばれてもいた。
菟道稚郎子と髪長媛の息子である大日下王は日下(日下町)に宮殿を構え、その一族は日下宮王家と称された。
日下宮王家が拠地とする日下は河内国(大阪府南東部)にあり、そこは港湾に近く、副都の難波(上町台地)が存在した。
河内王朝は海外交易を管理し、海外から八洲(本州・四国・九州)に土着の倭人を代表する倭国と認められ、正統性を得ていた。
大王の一族たる阿毎氏は超大国である震旦(中国)の漢人に倣って倭姓を自称し、大日下王にも隋なる異名があった。
河内国が本貫の日下宮王家は阿毎氏の分家として海上交通に利権を有し、河内王朝で無視できぬ勢力を誇った。
もっとも、大日下王に大王となる野心はなかった。
震旦の宋から平西将軍という将軍号を与えられた大日下王は、それで満足していた。
しかし、震旦に倣って集権化を目指す河内王朝にとって日下宮王家は邪魔な存在だった。
大和王権と連合した国々の諸王たる豪族たちもそれに乗じ、日下宮王権が有する利権を奪おうと画策した。
そして、大王である穴穂大王が大日下王の排除を決断すると、事態は日下宮王家の滅亡へと動き出していった。
穴穂大王は大日下王の妻たる中蒂姫と互いが初恋の相手だった。
彼は大王に権力を集中させ、中蒂姫を奪い返すために日下宮王家を滅亡させた。
その口実に利用されたのが大日下王と中蒂姫の娘である若日下王だった。
穴穂大王は末の弟たる幼武の結婚を世話し、若日下王との縁談を大日下王に打診した。
幼武は乱暴者として悪名高かったので、これまで何度も縁談を断られており、穴穂大王は大日下王に求婚は内密にしてほしいと頼んだ。
大日下王はそれを了承し、幼武と若日下王の縁談も快諾した。
だが、穴穂大王は縁談が内密であったのを良いことに大日下王が無礼な態度で拒否したと言い立て、叛意があるとして日下宮王家を滅亡させた。
大日下王は殺されて中蒂姫は穴穂大王に奪われ、若日下王も白彦王子に預けられた。
白彦王子も穴穂大王の弟で、白瓜のごとく蒼白くて病弱だったが、それ故にか乱暴者の幼武と違って穏やかな常識人だった。
父を殺されて家族と引き離された若日下王を心配し、白彦王子は彼女を安心させられるよう気を配った。
ところが、実際に若日下王を出迎えてみると、案に相違して彼女は溌剌としていた。
野心のない大日下王は我が子にも強権的に振る舞わず、寧ろ自由にさせた。
対して中蒂姫は躾けに厳しく、若日下王は母の締め付けから逃れ、同じ年頃の悪童たちと遊び、父に取り成してもらう日々を送った。
それによって彼女は父から甘やかされながら、母を出し抜こうとし続けることで却って逞しく育ち、強かなところを見せた。
若日下王は怯めば奪われるばかりと考え、父を殺した穴穂大王の弟たる白彦王子にも弱気なところを示さないよう努力した。
しかしながら、病という弱さを抱える白彦王子は、若日下王が強がっているを見抜き、なおかつそれに同情を寄せた。
白彦王子の対応に若日下王は意表を突かれた。
まだ若い彼女は強がりながらも内心では父が殺され、家族と引き離されたことに不安を感じていた。
若日下王はその原因たる男の弟に慮られるとは思ってもみなかった。
二
白彦王子に預けられた若日下王は、表向き溌剌としていたが、父を殺された恨みを忘れてはいなかった。
しかし、日下宮王家は解体されてしまい、大日下王を殺した穴穂大王に復讐しようにも若日下王には力がなかった。
そこで、若日下王は白彦王子に穴穂大王を討たせようとした。
彼女は目鼻立ちがくっきりとし、整った顔が美しかった
。豊かな胸乳と太い腿をしており、四肢は長く伸びていた。
若日下王は可愛い声で白彦王子に甘え、彼から寵愛されようと試みた。
病弱な白彦王子は女性経験に乏しく、女性に免疫がなかった。
彼は若日下王に同情していたこともあり、その虜となった。
若日下王は白彦王子と床を共にし、気に入られるよう演技した。
白彦王子は若日下王を抱き寄せて押し伏すと、口を吸って舌を絡め合い、胸元に手を差し入れた。
若日下王の上に乗った白彦王子は彼女を刺し貫き、ゆっくり腰を動かして抽送した。
よがる若日下王の口から咽ぶような大声が漏れた。
白彦王子が腰の動きを速めると、若日下王の喘ぎ声もいよいよ高まり、陽根の汁を放たれた。
喜悦した若日下王は白彦王子にしがみつき、放埒な絶叫と共に果てた。
白彦王子は若日下王と体を重ねる内に彼女から離れがたくなった。
彼は若日下王が穏やかな日々を送れるよう心を砕いた。
憎き穴穂大王の弟だったが、白彦王子の心遣いには若日下王も安らぎを覚えていた。
けれども、若日下王は穴穂大王に復讐することを諦めていなかった。
折りしも穴穂大王は人心を失っていた。
大日下王から中蒂姫を奪った穴穂大王は、彼女を自分の妻にした。
中蒂姫も我が子らの安全を守るため、穴穂大王との再婚を受け入れると、初恋が再燃して彼と心から愛し合った。
初恋を成就させた穴穂大王と中蒂姫だったが、日下宮王家がその犠牲となったことに二人は耐えられず、情事に耽って現実から目を背けた。
国政は中央の豪族たちが壟断するようになった。
倭国は穴穂大王の代でも先代と同様、宋に使いを出し、西暦の紀元後四五九年・四六二年・四六三年には韓郷の東南部にある新羅に侵攻した。
それらはいずれも結果がはかばかしくはなく、宋は穴穂大王に先代よりも格下の将軍号を与え、新羅にも大敗させられたばかりか国境での築城を許した。
これを危ぶんだ者たちは、穴穂大王の廃位を望んだ。
ただし、穴穂大王を廃するのなら新たな大王を立てねばならず、白彦王子もその候補に挙げられた。
すると、これまで目立たなかった白彦王子のところにも人が来るようになった。
若日下王は白彦王子に兄の黒彦王子と結ぶよう耳打ちした。
黒彦王子のところには大日下王と中蒂姫の息子にして若日下王の弟たる眉輪王が預けられていた。
眉輪王は黒彦王子の寵童となっており、若日下王と眉輪王の仲介で病弱な白彦王子が黒彦王子の即位を支援すると取り決められた。
それには従兄の押磐王子も加勢した。
押磐王子は穴穂大王が大王となるのに協力したが、それは押磐王子の家系から次の大王を出すという条件によるものだった。
その条件も穴穂大王が廃位されれば意味をなさなかったので、押磐王子は彼を見限り、黒彦王子に味方することにした。
黒彦王子は穴穂大王と同様、自分の次代は押磐王子にすると彼に約束した。
穴穂大王を廃するための勢力がまとまり、その一翼を担う白彦王子にも豪族たちの注目が集まった。
病弱とは言っても直ぐに死ぬわけでもなく、白彦王子も阿毎氏の本家に属していた。
そうした白彦王子の下を吉備下道前津屋/前津屋や文石小麻呂/小麻呂が訪問した。
前津屋は吉備王国の王で、小麻呂は播磨国(兵庫県南西部)の土豪だった。
吉備王国は大和政権に与する吉備国(岡山県・広島県東部)の王国で、海上交通の要衝であるだけではなく、塩や鉄を産し、肥沃な耕作地が広がってもいた。
そのように恵まれた広大な国土を統治するため、王族たる吉備氏は幾つにも分かれ、吉備下道氏はその嫡流だった。
前津屋は大王に対抗心を抱いており、黒彦王子の即位を助け、恩を売ることで優位に立とうとした。
小麻呂は播磨国で物資の運送に従事しており、海と陸の双方で仕事した。
播磨国は交通の要所で、多量の物資が水路と陸路で輸送されていた。
その物資を海賊や山賊が狙い、彼らと渡り合う小麻呂は、自らも賊のごとく荒っぽかった。
三
黒彦王子や白彦王子の後ろ盾を得た眉輪王は、穴穂大王の宮殿に忍び込み、彼を刺し殺すのに成功した。
中蒂姫との情事に溺れた穴穂大王は、宮殿の規律を保てず、警備も手薄になっていた。
眉輪王は大日下王の跡継ぎとして日下宮王家を復興するため、それに相応しいことを示すべく父の仇を討った。
彼は眠っていた穴穂大王を暗殺したが、その計画は押磐王子によって幼武に漏らされていた。
押磐王子は黒彦王子の次に即位する手筈となっていたが、同じような約束を交わしていた穴穂大王が即位した後に堕落したので、黒彦王子のことも信用していなかった。
それゆえ、彼は幼武を黒彦王子や白彦王子と争わせ、漁夫の利を得ようとした。
ところが、幼武は白彦王子を急襲して即座に攻め滅ぼすと、返す刀で黒彦王子や眉輪王も討ち取った。
これには押磐王子も危機感を覚え、幼武を罠に掛けて殺そうとした。
しかし、押磐王子の企みを見抜いた幼武は、彼を返り討ちにして大王となった。
実弟の眉輪王ばかりか白彦王子も殺されて若日下王は涙した。
初めは仇討ちに利用するために籠絡したのだが、白彦王子の心遣いが嬉しく、気付けば彼を好ましく思うようになっていた。
若日下王が悲しみに沈んでいると、幼武が彼女を訪ねた。
即位した幼武は全ての権力を大王に集中させようとしていた。
そのために彼は各勢力の妻子を人質として召し出そうと図った。
幼武は人質の妻子を住まわせる場所として後宮を作り、それを若日下王に管理させようとした。
彼はそのために日下宮王家の遺臣を若日下部という阿毎氏の直轄民に再編した。
それは日下宮王家の再興とも言えた。
白彦王子や眉輪王を殺した幼武は、和解の印として若日下王に大后の称号を授与し、珍しい白犬を彼女に贈答した。
若日下王はその白犬に蒼白かった白彦王子を重ね合わせ、幼武の要望を聞き入れた。
こうして日下宮王家の若日下王が幼武の後宮を管理し、そこに最大の豪族であった葛城氏の葛城韓媛/韓媛や吉備王国の吉備窪屋稚媛/稚媛、外戚たる和珥氏の童女君らが入れられた。
あたかも阿毎氏の分家や各地の王族が大王にひれ伏したかのようだった。
だが、前津屋や小麻呂は幼武に叛逆した。
彼らは黒彦王子の即位を助けて恩を売り、地方の勢力を伸張させようとしていた。
前津屋は大王を呪詛する儀式として女相撲や闘鶏を催し、小麻呂は自らが海賊かつ山賊となって大和政権の輸送を妨害した。
幼武は警察を司る物部氏に前津屋を賊として討ち殺させた。
小麻呂も和珥氏の郎党である小野氏の小野大樹が斬った。
その際に小麻呂は白犬の毛皮をまとっていたが、それは彼が白彦王子を訪ねたことを若日下王に思い出させた。
若日下王は幼武から譲り受けた白犬を白彦王子に見立て、その犬と性交した。
それでいて彼女は大后としての務めを立派に果たした。
幼武が狩りで猪に臆した従者の舎人を斬ろうとすれば、その振る舞いは狼と変わることがないと恐れ気なく諫めてみせた。
幼武は若日下王の進言を的確と判断し、舎人を許すことにした。
そのように幼武は若日下王の意見を尊重したので、彼女の意見に従って根使主を処罰した。
根使主は穴穂大王が大日下王を殺すのに協力し、日下宮王家の旧殿を賜っていた。
そこに彼は中蒂姫を監禁し、日下宮王家の嫁にして大王の妻たる彼女が勝手を図らぬよう見張った。
それと同時に根使主は中蒂姫を好き放題にした。
幼武も中蒂姫を女奴隷のように奉仕させる根使主には難色を示していたため、若日下王の訴えにより彼を罰した。
他にも若日下王は女官の采女が葉っぱの落ちた酒を幼武に献げると、無礼であると怒った彼を慰撫した。
そうした若日下王も、獣姦に淫して日下宮王家の跡継ぎを残さずに亡くなった。
ただ、若日下王は若日下部の保護に尽力し、彼らは日下部氏となって存続した。
註
*倭人が新羅に侵攻するも大敗させられたばかりか、国境での築城を許す:金富軾『三国史記』




