衣通姫
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一
大和政権の君主である大王の稚子は長男の軽王子を太子とした。
立太子は諸侯たる豪族たちの推挙を待たずになされ、彼らの懸念を招いた。
大王は大和政権が連合政権であるため、形式上、豪族たちに推挙されて即位した。
しかし、稚子は大王たる自己の意志のみで軽王子を即位させようとした。
彼は大和政権を超大国の震旦(中国)のように集権化させようとしていた。
八洲(本州・四国・九州)の大部分を支配する大和政権は、八洲に土着の倭人を代表する倭国と見なされており、その地位を保つには震旦のごとく君主に権力を集中させねばならなかった。
震旦は周辺諸国を遙かに凌ぐ文明国で、震旦のようにあることが文明的とされた。
そのために大王の一族である阿毎氏は倭国王として震旦の漢人のごとく倭姓を名乗り、稚子も済と称した。
だが、中央集権を果たさねば文明的と見なされず、倭国王の地位も失われかねなかった。
そこで、稚子は豪族たちの第一人者でしかない大王を専制君主に変えようとした。
軽王子の立太子もその一環だった。
震旦は領土が広いため、強権的に法を守らせるだけでは国を治められず、権威を尊ばせて人々を自発的に従わせる儒教の教説が採用された。
儒教では長幼の序や男女の別など年長者や男性の権威が重んじられ、長男が優遇されていた。
そうして長男の軽王子が太子となったのだが、やはりこれまでの慣例を破ったことは反発を招いた。
それでも、稚子は豪族たちの反発に屈さず、軽王子も太子となるのを拒まなかった。
寧ろ軽王子は豪族たちに対抗心を抱いた。
彼は本質的には純粋な正義感を持ち主で、虚弱な稚子が長らく不当に日陰者とされてきたことを恨んでいた。
しかしながら、子供の力では父親の境遇を好転させられず、己の無力を強く呪い、常に気を張っていた。
そのせいであらゆるものに怒りを感じるかのごとく過剰な反応を見せ、稚子に反発する豪族たちにも憤った。
もっとも、当の稚子は搦め手にも出ていた。
いきなり震旦のようにあれと強いるのは無理な話で、八洲の実情に落とし込むことで豪族たちにも受け入れやすくしようと試みた。
彼はそのために巫術者たちも登用した。
巫術者たちは八洲の知識層で、薬草や祈祷により人々の心身を癒やし、社会の安定を保っていた。
稚子の妻たる息長氏の忍坂大中姫/忍坂姫も巫女で、大和政権の最高学府である伊勢太神宮(伊勢神宮)に留学しており、その才覚と美貌で夫を支えた。
幾ら人材がいても足りなかったので、稚子は忍坂姫の妹たる衣通姫も出仕させようとした。
衣通姫も姉に劣らず、明晰な頭脳を備えていると誉れ高かった。
けれども、衣通姫は政争に巻き込まれることを恐れ、後進の育成に従事すると言い、故郷の近江国(滋賀県)を離れたがらなかった。
何度も召喚を固持された稚子は、中臣氏の烏賊津使主を使者として遣わした。
烏賊津使主は稚子に近侍し、護衛にはてんで向いていなかったが、知識があって悪知恵も働いたので、雑務に携わって何かと重宝されていた。
彼は坂田(米原市)の衣通姫を訪ねて庭に伏すと、彼女を連れ帰れないのならここで死ぬと告げた。
烏賊津使主は庭から動かず、食べ物を与えられても手を付けなかった。
実は懐中に潜ませた携行食を口にしていたのだが、そうとは知らない周囲は、大王からの使者を飢え死にさせては謀叛を疑われかねないと憂慮した。
結局、衣通姫は周りに強いられ、出仕することとなった。
それでも、彼女は政治に携わるのではなく、巫術者たちの教育に当たりたいと稚子に願い出た。稚子は衣通姫の希望もある程度は聞き入れねば、折角の人材を不意にしかねなかったので、藤原(高殿町)に学舎を造り、そこで彼女に巫術者たちを教育させた。
忍坂姫よりも学者肌の衣通姫は政界から距離を取り、巫術者たちの教育に専念した。
学問を愛する彼女は、物静かでありながらも生徒たちに愛情豊かで、彼らからも好かれていた。
稚子は衣通姫を宮中に呼び付けず、用事があれば烏賊津使主を藤原に派遣した。
二
軽王子は叔母たる衣通姫に会ってみたくなった。
衣通姫は稚子と忍坂姫にだけ挨拶すると、そのままそそくさと藤原に去り、それ以後は一度も宮中に出入りしなかった。
ところが、彼女はその美しさが衣を通し、光輝いて見えるほどの類い稀なる美女と噂され、軽王子も好奇心に駆られた。
親族として一度くらいは挨拶するのが礼儀であろうと考え、軽王子は衣通姫を訪問することにした。
その訪問には軽王子の長妹たる軽王女が同道した。
軽王女は軽王子と仲が良く、余りの親密さから近親相姦を疑われてもいた。
もっとも、実際は単に家族の中でも特に馬が合うだけだった。
どちらも相手に恋愛感情を抱いてはいなかった。
ただ、軽王子は周囲への反発心から軽王女との仲を噂されると、却って意地になり、彼女との親密さを周りに見せ付けた。
その一環で衣通姫を訪問するのにも軽王女を同道させたが、彼は叔母を見て直ぐさま恋をした。
軽王子と軽王女に応対した衣通姫は噂に違わず、その艶色は衣を通して照り映えるようで、豊かな髪は白いうなじに支えられており、憂わしげな眉も優雅だった。
肌はぬめりを帯びて輝き、むっちりと肉の付いた体は嫋やかで、乳房も官能的に盛り上がっていた。
衣通姫が軽王子と軽王女に対する応接で見せた教養も、彼の心を掴んだ。
軽王子はその後も軽王女を連れず、足繁く衣通姫を訪ね、何度も彼女に求愛した。
最初、衣通姫は戸惑いを覚えたが、情熱的な軽王子に惹かれ、普段は大人しいだけに一旦、火が点いたら止まらなかった。
軽王子は衣通姫に愛撫や接吻を加え、彼女の乳房をしゃぶり、股の間に激しく杭を打ち込んだ。
衣通姫は軽王子の睾丸を舐め、肛門に舌を挿入した。
軽王子は藤原に入り浸り、衣通姫との結び付きを強めていった。
彼女は軽王子との娘である酒見王女を出産した。
二人は幸せに包まれたが、軽王子への風当たりは更に強くなっていった。
妹の軽王女と近親相姦に及ぶばかりか、叔母の衣通姫とも関係する好色漢と中傷された。
豪族たちばかりか大王の一族からも非難の声が上がったため、稚子も対処せざるを得なかった。
太子の軽王子を処罰すれば、彼を後継ぎにした稚子の威厳も損なわれかねなかったので、軽王女が伊予国(愛媛県)に流刑となった。
衣通姫も大和国(奈良県)から遠ざけられ、和泉国(南西部)の沿岸たる茅渟に住まわされた。
表向きは罰せられなかった軽王子だったが、裏では物部氏の監督下に入っていた。
物部氏は大和政権の警察を司っており、物部大前/大前が軽王子を監督した。
大前は密偵を駆使し、大王や豪族など様々な勢力に取り入りつつ、常に一定の距離を保った。
それでいて愛妻家かつ子煩悩で、稚子はそうした大前の人柄を信頼し、軽王子が問題を起こさぬよう彼を見守らせた。
しかし、大前は稚子が亡くなると、彼の意志を蔑ろにし、軽王子を善導しようとはしなくなった。
稚子は最終的に震旦の宋から安東大将軍に任じられ、先代の大王である兄の瑞歯別よりも格上とされた。
だが、そのような権威を以てしても軽王子を即位させるのは難しかった。
近親相姦の噂で軽王子は人望を失っており、そうした彼に付き添っていては失脚しかねず、大前は妻子ら一族を守るため、稚子の遺命に違背した。
彼は軽王子を監視し、太子の情報を彼と敵対する勢力に売り渡した。
その勢力で筆頭とされたのが稚子と忍坂姫の三男たる穴穂王子で、彼は大王の座を狙っていた。
穴穂王子は豪族たちの権益を保護すると約束し、彼らの支持を取り付けた。
大前も軽王子に見切りを付け、穴穂王子の勢力に参加した。
当の軽王子は稚子の死で衣通姫との逢瀬が制限されなくなり、茅渟から殆ど離れなかった。
その間で穴穂王子は外堀を埋めていった。
気付けば軽王子は豪族たちから背かれ、孤立無援となっていた。
彼は裏切られているとは知らず、僅かな手勢を率いて大前を頼ったが、騙されて穴穂王子に突き出された。
穴穂王子は廃太子となった軽王子を軽王女がいる伊予国に流した。
彼は軽王子の流刑地を軽王女と同じにし、彼女との近親相姦に真実味を持たせ、兄を更に貶めようとした。
三
穴穂王子は軽王子に近しい者も粛清していった。
衣通姫や彼女が教育した巫術者たちも粛清されるかと思われたが、烏賊津使主が奔走したおかげで助命された。稚子は軽王子と関わりが深い衣通姫のことも心配し、彼女を守るよう烏賊津使主に命じていた。
美女に目のない烏賊津使主は大前と違い、美しい衣通姫を守った。
しかし、衣通姫は軽王子の後を追うことにした。
彼女はその決心を姉の忍坂姫に告げ、教え子たちと娘の酒見王女を預かってくれるよう頼み込んだ。
その頼みを聞き入れた忍坂姫は、妹が教育した巫術者たちの後ろ盾となり、酒見王女を養女に迎え入れ、自身の三女とした。
忍坂姫は夫を失った悲しみに暮れ、我が子らの争いを止められず、そのことを悔いていた。
それ故に彼女は各所に働き掛け、死刑とされていた軽王子への刑罰を流刑に引き下げさせた。
また、少しでも罪滅ぼしになればと衣通姫を送り出し、軽王子が愛する者と再会できるようにした。
衣通姫の教え子たちは保護してくれた忍坂姫に恩義を感じ、彼女に忠誠を誓った。
烏賊津使主に付き添われ衣通姫は、船に乗って瀬戸内を渡り、伊予湯(道後温泉)にやってきた。
伊予湯は大王たる大足彦や足仲彦も訪れた名湯で、太子であった軽王子が余生を過ごすのに相応しいと見なされた。
軽王女も彼女を軽王子の身代わりとして追放した稚子から配慮され、伊予湯に流されていた。
軽王子と衣通姫は伊予湯で再会すると、言葉を交わすのも忘れて愛し合った。
兄と一緒にいた軽王女も、叔母の入来を喜び、彼らのために宴が催されて烏賊津使主も招かれた。
その宴席で衣通姫と烏賊津使主は軽王子が兵を募っていると知った。
軽王子は流刑地から脱出しようとさえしなければ、自由気儘な生活を許された。
彼は土豪の一部と繋がりを持ち、伊予国を自身の王国に築きつつあった。
本土の畿内(奈良県・京阪神)にいた時と異なり、悪意のある噂が流されなかったので、軽王子は流人でありながらも貴種として遇された。
太子ではなくなったことで彼は肩の荷が下り、気張ることを止め、本来の天真爛漫さを示すようになった。
それが土地の豪族らを惹き付け、軽王子を推して我が身を立てようとする者たちも現れた。
中央の政局は変転が激しく、軽王子が返り咲くのも有り得なくはなかった。
だが、それを望まぬ者たちもおり、大前もその一人で、島流しの後も軽王子を監視していた。
大前は軽王子の下に兵が集まっていると穴穂王子に報告し、穴穂王子は軽王子に止めを刺すよう命じた。
伊予国には穴穂王子を支持する土豪たちもいた。
大前は彼らに軽王子を襲撃するよう命令した。
物部氏の間者たちによって軽王子たちの情報は筒抜けだった。穴穂王子に与する土豪たちは、手下の男たちに軽王子たちを襲わせた。
軽王子と烏賊津使主は無惨にもその場で斬り捨てられ、死体は海に投げ込まれた。
大前は軽王子さえ殺せれば、残りは好きにして良いと指示していた。
軽王子を支持した土豪たちは粛清され、衣通姫と軽王女は何人もの男たちに次から次へと犯された。
衣服を剥ぎ取られた叔母と姪は、のし掛かってくる男たちに荒々しく抱かれ、完全に抵抗できなくなるまで輪姦された。
彼女たちは死んだことにされ、奴隷として売られた。
二人を買ったのは海賊の頭領で、彼は軽王女を人質に取り、衣通姫を妻にしたが、手下に反乱を起こされて夫婦ともども斬り殺された。
そのような衣通姫の最期を大前が知ることはなかった。
大前は愛する妻子ら一族に囲まれ、満ち足りた様子で穏やかに逝った。
軽王子の暗殺は彼が反乱を企てたことへの処罰として正当化され、大前は忠臣と讃えられた。
註
*済が安東大将軍に任じられる:沈約『宋書』
*大足彦や足仲彦が伊予湯を訪れる:伊予湯岡碑




