忍坂姫
忍坂姫はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/135580776)
一
大和政権は大和王権を盟主とし、各国の諸王が連合した政権で、八洲(本州・四国・九州)に土着の倭人を代表する倭国でもあった。
君主たる大王や諸侯である豪族たちは巨大な墳墓を造営し、権力の強大さを示した。
大王の大鷦鷯が葬られた墳墓は面積が世界最大級で、内外の船が行き交う茅渟海(大阪湾)を望み、大和政権の君主が倭国王たることを外国の使者にも見せ付けた。
そうした墳墓に葬られた大鷦鷯には息子が四人おり、稚子はその末っ子だった。
彼は体が弱くて愚鈍と見られた。
しかし、動作の鈍さから愚かと思われただけで、実際は歴史の研究を趣味とし、偉大な先人たちを教訓に知性を磨いていた。
それでも、馬鹿にされていることに変わりはなく、稚子は公職に就けなかった。
大和政権に貢献する仕事が出来ず、彼は自分が大王の一族である阿毎氏の鼻つまみ者のように感じた。
名誉欲を持て余した稚子は、それを歴史の研究に転嫁し、王宮の奥深くでひっそりと暮らした。
宮廷医たちも稚子を壮健には出来ず、彼は我流で養生を試みたこともあった。
だが、却って体を壊したため、父の大鷦鷯から厳しく叱責され、兄の去来穂別や瑞歯別からも呆れられた。
大鷦鷯は先進国の震旦(中国)から儒教という教えを取り入れ、統治に役立てていたが、儒教は親から貰った体を粗末に扱うなと説いていた。
母の葛城磐之媛/磐之媛は稚子の無聊を慰めるため、忍坂大中姫/忍坂姫を妻に宛がった。
忍坂姫は息長氏の出身で、息長氏は大鷦鷯の祖母たる息長足姫/息長姫を世に送り出していた。
息長姫は大王であった足仲彦の後妻で、前妻の子供たちを倒し、我が子の誉田別を即位させた。
そのような女傑の再来とされる才媛が忍坂姫だった。
忍坂姫は息長姫と同様、大和政権の最高学府たる伊勢太神宮(伊勢神宮)に留学していた。
磐之媛は同じ好学の士として気が合うであろうと思い、稚子と忍坂姫を結婚させた。
また、二人の縁組みには大豪族の息長氏を取り込むという目的もあった。
大和政権は倭国と認められるため、震旦に倣って大王に権力を集中させようとしていた。
もっとも、それは皮肉にも大豪族の葛城氏が権勢を振るうことに繋がった。
葛城氏は磐之媛の実家で、一族の女性を次々に阿毎氏へ嫁がせ、大王の外戚となり、王権の伸長に伴って自身も発展した。
磐之媛の兄にして葛城氏の総帥たる葛城玉田/玉田は老齢を理由に隠居していたが、影の権力者として隠然と影響力を保っていた。
玉田の弟である葛城葦田/葦田も分家を率い、息子たる葛城円/円を国政に参加させ、その勢力は本家に匹敵した。
同じ大豪族であっても息長氏は葛城氏の後塵を拝した。
息長氏は葛城氏の郎党からも侮られ、忍坂姫も闘鶏国造から侮辱されたことがあった。
闘鶏国(都祁村)を治める闘鶏国造は、葛城氏の派閥に属していた。
彼は忍坂姫に卑猥な言葉を浴びせて彼女をからかった。
辱められた忍坂姫は顔にかっと血が上るもやり返せず、拳を握り締めることしか出来なかった。
彼女は不遇を託っている稚子に同情心を覚え、彼の傍で過ごす内にその真価を見抜き、いつか必ず世に容れられると夫を励ました。
自分を認めてくれた忍坂姫に稚子は惚れ込んだ。
稚子に抱いた忍坂姫の同情も、やがて狂おしい恋心に変わった。
細くて切れ長な目を柔らかな瞼が覆った忍坂姫は、類い稀な美貌を誇り、ほっそりしてその動きは滑らかで、雪のように透き通った肌や美しい曲線を見せる腰、豊かな乳房に恵まれていた。
稚子は忍坂姫の体を押し倒し、接吻で彼女の唇を塞いだ。
忍坂姫は激しく燃え、稚子を情熱的に抱擁し、彼の唇を喉に這わせられながら、固くなって脈打つ夫のものに手を伸ばした。
稚子は忍坂姫の胸をまさぐり、桃色の乳首が興奮して固くなる感触を楽しんだ。
彼は妻の裾を腿の上まで捲り上げ、彼女の湿った辺りに陰茎を突っ込んだ。
そうして二人は悦楽に没頭し、やがて絶頂に激しく息を喘がせ、満ち足りた様子で仰向けになった。
二人の間には長男の軽王子と次男の黒彦王子、三男の穴穂王子、長女の軽王女、四男の白彦王子、五男の幼武が誕生した。
二
去来穂別の地位は葛城氏らともども彼の即位を支援した瑞歯別に引き継がれた。
瑞幅別の治世は概して平穏だったが、騒動が皆無というわけではなかった。
例えば信濃国(長野県)では和泉真郎/真郎の子である和泉太郎/太郎が賊を退治していた。
そのように大和政権の支配は未だ安定していなかった。
本土たる畿内(奈良県・京阪神)でも豪族たちの思惑が錯綜し、誰が瑞歯別の後を継ぐかで意見が分かれた。
稚子は自身の虚弱な体質を受け入れ、大王になろうという野心を既に失っていたが、忍坂姫は彼を即位させ、世に認めさせようとしていた。
彼女はそのために配下の巫術者たちを駆使した。
祈祷や呪薬などの巫術による治療を生業とし、諸国を渡り歩く巫術者は、知識人であると同時に間者だった。
そうした巫術者たちによって忍坂姫は瑞歯別が大王となるのを助け、稚子を太子にする密約を結んだ。
ところが、瑞歯別は日下宮王家の幡梭王女を娶り、彼女の兄たる大日下王を後継ぎにするかと思われた。
日下宮王家は大鷦鷯の異母弟である菟道稚郎子の家系で、彼は「菟道の大王」と呼ばれていた。
また、同家は初代の大王たる狭野の血を引いてもおり、阿毎氏の本家と並んで「二つの大王家」と称された。
大日下王が大王になるのを阻止するため、忍坂姫は瑞歯別を毒で暗殺した。
瑞歯別を毒殺したのは大日下王を殺しても瑞歯別がその気なら、大日下王の縁者を大王にしかねなかったからだ。
太子を決めないまま瑞歯別が亡くなると、豪族たちは誰を大王に推挙すべきか、繰り返し会合を行った。
大和政権は倭国として中央集権が進んでもまだまだ連合政権の性格が抜けきらず、大王の即位には豪族たちの推挙が必要だった。
会合は最大の豪族である葛城氏の総帥として玉田が主導し、まずは子供のいない大日下王を即位させ、次に押磐王子を推挙すると取り決められた。
押磐王子は去来穂別の息子で、母は葛城氏の葛城黒媛/黒媛だった。
彼はまだ幼く、大日下王はその中継ぎで、「二つの大王家」の両方に配慮しながら、最終的に葛城氏の血筋を即位させようとしていた。
しかも、その取り決めでは対抗馬たる稚子と彼の子供たちを排除するとの密約も交わされた。
忍坂姫はそのことを巫術者たちの報告によって知り、夫と子供たちを守るため、密かに玉田を訪ねた。
彼女は稚子を大王にする利を玉田に説いた。
壮健な大日下王や押磐王子なら、いずれ王権を強化し、絶対的な君主になるかも知れない。
しかし、虚弱な稚子ならば傀儡にし、彼を担ぎ上げる間に葛城氏の覇権を確立できるだろう。
命乞いをする哀れな妻を演じながら、忍坂姫は玉田を冷静に観察した。
玉田は大王の義妹から這い蹲られるのに興奮している様子だった。
確かに彼は最大の豪族を率いる傑物だったが、流石に老いには抗えず、有能であるだけに自身の衰えを受け入れられなかった。
それによる焦りは判断を鈍らせ、忍坂姫が媚びてくると、いとも簡単に引っ掛かった。
玉田は男根を忍坂姫の口に突き付け、喉が詰まるほど吸わせた。
彼は低い呻きと共に忍坂姫の口から彼自身を引き出すと、彼女の顔や頸、髪などにたっぷりと射精した。
老いてもそちらの方は未だ盛んな玉田は低く唸りを漏らし、忍坂姫の上へ体を投げ、両足の踵を肩の上に担ぎ上げた。
動物じみた歓びの鼻息を立てながら、彼は尻を持ち上げ、奥まで突き通せるよう荒々しく押し入り、前後への短くて烈しい往復運動で忍坂姫を責めた。
忍坂姫は玉田の体を引っ掻いて喘いだ。
老身の玉田は病身の稚子よりも忍坂姫を歓ばせた。
だが、忍坂姫は玉田を嫌悪し、それでいて笑顔を作って彼に甘え、彼の頭に手を掛けると、ぐいと引き寄せて接吻した。
玉田は忍坂姫を抱き寄せてその首筋に顔を埋め、吐息を漏らしながらぴったりと寄り添った。
忍坂姫は玉田を説得し、稚子を大王に推挙させた。
大王の候補に名乗りを上げていなかった稚子は辞退しようとしたが、手洗いの水を捧げた忍坂姫から彼女がどのような犠牲を払ったか聞かされた。
忍坂姫は玉田との娘たる次女の橘大娘を産んでおり、これには稚子も推挙を拒めず、十九代目の大王となった。
三
即位した稚子は玉田、延いては葛城氏を打倒せねば、真の大王になれぬと考えた。
そこで、息長氏と関わりの深い韓郷(朝鮮)の新羅から良医と名高い金波鎭漢紀武/金武を招聘し、体質を改善するのに成功した。
健康になった彼は精力的に活動し、氏と姓を正すべく盟神探湯を行った。
盟神探湯とは神に誓った後、熱湯に手を入れる神明裁判で、稚子は巫術者たちの入れ知恵でそこに細工した。
氏は一族郎党を示し、姓の称号によって序列付けられた。
稚子はそのような氏姓を恣意的に操作し、豪族たちの競争心を煽り立て、彼らが団結するのを妨げた。
そうして彼は分断された豪族たちを個々に引き抜いていった。
稚子が玉田のところに遣わした尾張吾襲/吾襲も、そのような豪族の一人だった。
玉田は瑞歯別の遺体を安置する殯宮の管理を命じられていたのだが、地震があったため、吾襲はその様子を見に行かせたのだ。
もっとも、それは表向きの理由だった。
稚子の真意は吾襲に傲慢な振る舞いをさせ、葛城氏を反発させてそれを叛意と見なし、彼らを滅ぼすことにあった。
吾襲はその密命に相応しい柔軟さを持ち合わせており、どのような時でもどこか惚けた態度を取るほど強かだった。
ところが、盟神探湯によって葛城氏は稚子の予想以上にぴりついており、血気に逸る若い衆が吾襲を殺した。
そのことを吾襲と同じ尾張氏である小墾田采女が稚子に報告した。
稚子は吾襲の死を惜しみつつ、これを好機と捉え、玉田を討つ兵を整えた。
それには葛城氏の分家たる円も参加していた。
円は稚子と密約を結んでおり、葛城氏の本家を円の家系にするという条件で稚子に協力した。
稚子と円の兵は玉田の家を囲み、彼を捕らえて討ち取り、その派閥に属していた闘鶏国造らも、死罪や降格となった。
こうして稚子は国内に勢威を示し、海外にも威を振るった。
倭国が辺境の支配を確かなものにするため、対馬国(対馬島)の軍を充実させると、新羅は倭国の襲撃を警戒し、先手を打って対馬国に出兵しようとした。
稚子は牽制のため、西暦の紀元後四四〇年と四四四年に新羅に侵攻し、散々に脅かしてから撤兵した。
また、彼は震旦の漢人に倣って済と称した。
その呼び名で震旦の宋に遣使して奉献し、四四三年に安東将軍たる倭国王に任命された。
四五一年には稚子の推挙した豪族たちが宋から倭国の軍号と郡号を認められた。
それぞれ軍号は軍事の、郡号は行政の称号を意味した。
稚子の推挙で超大国の震旦から爵号を授かったことは、大王の権威を高めた。
即位するまで書斎に籠もってきた稚子は、現実の軍務や人事に携わってこなかったが、歴史書に学んだ知見が活かされ、彼の行った政事は高く評価された。
長く蚊帳の外に置かれていながら、政治の実権を握ってからの働きぶりは実に立派なものだった。
そのような稚子の統治を忍坂姫も大王の妻として支えた。
忍坂姫は夫が過労で体を壊して四五四年に逝去した後も、息子たちを即位させて大王の母となったが、権力を巡って我が子らが殺し合うのを目にすることとなり、悩みと悲しみの内に死んだ。
稚子が逝った時は、新羅からも弔問の使者たちが参列した。
韓郷の東南部にあった新羅は、北部の高句麗と同盟していたのだが、高句麗が新羅を属国のごとく扱うのに反発し、敵国であった西南部の百済と関係を改善するなどしていた。
それ故に倭国とも友好を深めておこうとした。
ところが、倭国はそうした新羅の姿勢を弱腰と見なし、居丈高な態度に出た。
稚子は新羅も含め、韓郷の南部における軍事権を許可してくれるよう宋に要請し、倭国よりも早くに朝貢してきた百済を除いて許可された。
そのようなこともあり、新羅からの使者たちは弔問したにもかかわらず、倭国からぞんざいな扱いを受け、新羅は倭国と積極的に誼を通じようとはしなくなった。
註
*玉田が磐之媛の兄とされる:『公卿補任』
*瑞歯別の治世に真郎の子である太郎が賊を退治する:『信濃国川会御諄詞并縁記』
*倭人が新羅に侵攻し、散々に脅かしてから撤兵する:金富軾『三国史記』
*済が宋に遣使して奉献し、安東将軍である倭国王に任命され、推挙した豪族たちに倭国の軍号と郡号を認められる:沈約『宋書』




