幡梭王女
幡梭王女はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/135031891)
一
淡路国(淡路島)は大和政権に海の幸や山の幸を納める御食国で、君主の大王が静養する場でもあった。
大王の妻たる葛城磐之媛/磐之媛は淡路国で静養していた時に三男の瑞歯別を産んだ。
瑞歯別は産まれながらにして歯が生えていた。
それにより彼は鬼子と気味悪がられた。
無論、そのような態度を表に出す者はいなかったが、瑞歯別は幼いながらに周囲の雰囲気を察し、偉くなって誰も彼もを見返してやると心の中で誓った。
成長してもその上昇志向は衰えず、瑞歯別は淡路国に産まれた縁を活かし、海洋民である海人族に接近した。
海人族は大和政権が八洲(本州・四国・九州)に土着の倭人を代表する倭国として認められるため、海を越えて外国と交渉するのに力を貸していた。
本土たる畿内(奈良県・京阪神)と瀬戸内の間にある淡路国は、そうした海人族にとって重要拠点だった。
磐之媛の夫にして瑞歯別の父たる大王の大鷦鷯も淡路国を重宝し、そこに近い副都の難波(上町台地)に宮殿を構えた。
瑞歯別が海人族の中でも特に目を付けたのは阿曇浜子/浜子と倭吾子籠/吾子籠だった。
阿曇氏は筑前(福岡県北西部)にいた海人族の一派で、大栲成が筑紫島(九州)にやってきた大王の御間城に御膳を奉って以来、大和政権との関係が続いており、御間城の子孫である大王の大足彦にも阿曇百足/百足が仕え、一族を難波に移住させた。
大鷦鷯の父である誉田別の治世に海人族の一部が叛乱を起こすと、阿曇大浜/大浜が叛乱の鎮圧に当たり、海人族の宰領に任じられた。
倭氏も海人族の一派で、始祖たる珍彦は初代の大王である狭野の建国に貢献し、大倭(天理市)を治める大倭国造となった。
珍彦の子孫たる長尾市は御間城の知恵袋である百襲姫から信頼され、韓郷(朝鮮)の中南部たる伽耶から遣わされた都怒我阿羅斯等/阿羅斯等を接待し、野見宿禰/野見を出雲国(島根県東部)から招聘して中央で出世させた。
出雲国は北ツ海(日本海)を挟んで韓郷と近く、長尾市は出雲国に便宜を図り、韓郷との交渉で口利きしてもらった。
そうして倭氏は大和政権の外交で活躍し、吾子籠も韓郷に派遣され、兄の麻呂は出雲氏の淤宇宿禰/淤宇と親しかった。
淤宇は土地の所有権を巡り、大鷦鷯の異母兄たる大中彦王子と揉めた際、土地問題に詳しい吾子籠を寄越してくれるよう麻呂に頼んだ。
吾子籠は韓郷にいたが、淡路国の海人族たちが迎えに行き、彼らは浜子の統率下にあった。
浜子と吾子籠も懇意にしていた。
二人が組めば瀬戸内と北ツ海の航路を押さえられ、無視できぬ勢力となった。
瑞歯別はその力を頼ろうとしたのだが、浜子と吾子籠は大鷦鷯と磐之媛の次男である墨江中王を推していた。
墨江中王は大豪族たちに支持された長男の去来穂別さえいなければ即位でき、鬱屈を募らせていたのだが、それは中小豪族たる阿曇氏や倭氏の共感を誘った。
海人族が集う淡路国に産まれた縁を頼っても受け入れられず、瑞歯別は世の中への憎しみを更に募らせた。
また、河内国(大阪府南東部)の住吉(住吉区)に基盤を置く墨江中王は、同じ地域にある草香邑(日下町)の日下宮王家とも関係が深かった。
日下宮王家は菟道稚郎子および諸県髪長媛/髪長媛を祖とする家系だった。
菟道稚郎子は大鷦鷯の異母弟であって「菟道(宇治市)の大王」とも呼ばれた。
髪長媛は狭野の血筋に連なっていた。
そのような日下宮王家は大王の一族たる阿毎氏の本家にも引けを取らず、両家は「二つの大王家」とも称された。
狭野は日向国(宮崎県)の出身で、そこには漁撈民の隼人が住んでおり、河内国には狭野の東征に同行した隼人たちが移民した。
墨江中王も隼人の曽婆訶理が近習となっていた。
阿曇氏や倭氏だけではなく、日下宮王家や隼人とも懇意である墨江中王に瑞歯別は激しく嫉妬した。
なお、日下宮王家には幡梭王女という姫君がいた。
幡梭王女は菟道稚郎子と髪長媛の娘で、兄の大日下王は日下宮王家の家長だった。
止ん事無き姫君である幡梭王女は愛らしい顔立ちと姿をしており、引き締まった乳房は大きく、優雅な脚はすらりと官能的だった。
しかし、副都の難波がある河内国の出身にしては田舎臭かった。
それは母親の髪長媛が日下宮王家の地位を向上させるため、有力者の男たちと浮き名を流したからで、幡梭王女は母の艶聞を恥じ、色事を避けていた。
それゆえにか、瑞歯別が求婚しても幡梭王女が応じることはなかった。
しかも、幡梭王女は色事に疎いせいで相手の顔を立てることもせず、馬鹿正直に瑞歯別からの求婚を断ってしまった。
大日下王もまさか幡梭王女がそこまで色事に疎いとは知らず、瑞歯別に更なる屈辱を与える結果となった。
二
結局、瑞歯別は海人族の和珥氏である津野媛を娶った。
しかし、津野媛は香火姫王女・円王女・財王女・多訶弁郎女の四姉妹を産んで早逝した。
そのような報われぬ津野媛に瑞歯別は同情し、四姉妹を粗略には扱わなかった。
それにより彼は和珥氏から好感を得た。
大鷦鷯と比べて地位が不安定な去来穂別は大豪族に頼り、特に葛城氏には妻たる葛城黒媛/黒媛の実家として格別に配慮した。
これが葛城氏ではない大豪族に危機感を抱かせた。
和珥氏もそうした豪族の一つで、同じような一族に息長氏がいた。
息長氏は和珥氏ともども越国(北陸)の海運を司っており、大鷦鷯と磐之媛の四男である稚子のところに忍坂大中姫/忍坂姫を嫁がせた。
忍坂姫は息長足姫/息長姫の再来と呼ばれていた。
息長姫は息長氏の出身で、愛人との子たる誉田別を大王にしたほどの女傑だった。
忍坂姫は息長姫と同様、大和政権の最高学府である伊勢太神宮(伊勢神宮)の出身者で、夫の稚子を大王にせんとした。
だが、稚子は病弱なため、去来穂別と墨江中王が大王の地位を争う中、瑞歯別よりも扱いが悪かった。
そこで、忍坂姫は瑞歯別と組むことにした。
瑞歯別にしても味方が増えるのは歓迎で、自分が大王になれればそれで良く、即位の暁には稚子を太子にするという密約を交わし、瑞歯別は和珥氏ばかりか息長氏の支援も得られた。
伊勢神太宮は知識人たる巫術者を養成する場所だったが、彼らは全国に散らばって情報を集める間者でもあった。
忍坂姫は伊勢神太宮の出身者として間者たる巫術者も使役し、同盟者である瑞歯別のために役立てた。瑞歯別は忍坂姫から借り受けた巫術者たちを駆使し、去来穂別の情報を集め、それを墨江中王に流した。墨江中王は去来穂別についての情報を得たこともあり、尚更、兄に取って代わろうとした。
その企みに浜子は心から賛同した。
船乗りは「板子一枚、下は地獄」と言われるほど危険な仕事で、命知らずの荒くれ者が多かった。
海人族の宰領たる浜子も主君と見なした墨江中王を即位させられるなら、危地に飛び込むのも吝かではなく、寧ろ荒事に心を躍らせた。
対して吾子籠は危険な航海に臨むからこそ慎重だった。
吾子籠も墨江中王を支持してはいたが、全面的に信用してはいなかった。
去来穂別を目の敵にする墨江中王は、兄への意趣返しにこだわるなど近視眼的なところがあった。
吾子籠は墨江中王のそうした点を危ぶみ、陣営の異なる豪族たちとも密かに接触していた。
そして、墨江中王が去来穂別への叛乱に踏み切ると、吾子籠の懸念は的中した。
蹶起した墨江中王は去来穂別の宮殿を焼き討ちし、兄嫁の黒媛を連れ去った。
ところが、彼は兄を辱めるために兄嫁を凌辱すると、それに執着して次の行動に移ろうとしなかった。
浜子は勝手に兵を動かし、吾子籠は墨江中王を見限った。
しかも、瑞歯別が忍坂姫から借り受けた巫術者に墨江中王の情報も集めさせ、それを去来穂別に流していた。
そうしたこともあり、去来穂別は墨江中王に宮殿を焼き討ちされたが、脱出して伊勢太神宮の巫女たる少女に導かれ、無事に武器庫でもある石上神宮へ逃げ延びた。
瑞歯別としては去来穂別と墨江中王には長く争ってくれた方がその分だけ勢力を増せたのだが、傍観しすぎて勝ち馬に乗れなくなっては意味がなかった。
情勢を見極めた瑞歯別は、長兄である去来穂別の下に馳せ参じた。
去来穂別は瑞歯別もまた叛くのではないかと疑い、忠誠の証として墨江中王を討つよう命令した。
瑞歯別は曽婆訶理を調略し、排便している最中の次兄を討ち取らせた。
浜子は最後まで墨江中王の側に立って戦うも捕らえられた。
吾子籠は栗林に隠れて時機を窺い、去来穂別が優勢と見るやそちらに寝返った。
瑞歯別は墨江中王が従えていた海人族らを傘下に収めるため、去来穂別に浜子や吾子籠の助命を嘆願した。
去来穂別も勝利の立役者たる瑞歯別の嘆願は無視できなかった。
そのおかげで浜子や吾子籠は死刑を免れた。
代わりに浜子は罪人の刺青を施され、吾子籠は妹の日之媛を人質に差し出させられた。
それでも、命は助かったため、墨江中王に与していた中小豪族たちは、瑞歯別に掌握されることとなった。
三
去来穂別は墨江中王を討ち、大鷦鷯の後を継いで即位した。
彼は倭国の王である讃として西暦の紀元後四三〇年に震旦(中国)の宋へ貢ぎ物を納め、四三一年に韓郷の東南部にある新羅を東の辺境から攻めた。
それらの外交や外征は瑞歯別の協力なくしては不可能だった。
瑞歯別は航海民の海人族を味方に付け、倭氏や韓郷と関係の深い出雲国とも懇意になっていた。
大豪族たちに担がれた去来穂別は、無理をすれば震旦との外交や韓郷への外征も強行できなくはなかったが、その場合における負担を考えれば現実的ではなかった。
そうしたこともあり、彼は瑞歯別を太子とせざるを得なかった。
阿曇氏の故地たる筑紫国(福岡県北西部・南部)や海人族の鷲住王も去来穂別には従わないで瑞歯別に仕えた。
筑紫国は去来穂別に税を納めたがらず、讃岐国(香川県)を統べる鷲住王は、彼が召しても応じなかった。
統治が上手く行かない去来穂別は懊悩し、墨江中王から取り戻した黒媛も、心を病んで身投げしたため、自身も発狂して国を治められなくなった。
そうして瑞歯別が実質的な大王となり、彼はその立場で再び幡梭王女に求婚した。
今度は瑞歯別の地位が大違いで、大日下王は前回の轍を踏まぬようにしていた。
幡梭王女も今回ばかりは断れなかった、縁談は即座にまとまった。
床入りした幡梭王女は目を瞑って横臥し、瑞歯別は両腕で彼女を愛撫した。
両手が汗ばんで柔らかな巨峰をままさぐり、乳首を摘まんで幡梭王女を喘がせた。
彼は幡梭王女の両膝を広げて踝を掴み、両脚を肩に担ぎ上げ、焼け付くような膣の中に陰茎の先端を荒々しく差し込んだ。
瑞歯別が唸りながら幡梭王女の中に自らを深く突き刺し、彼女は赤らんだ顔で激しく息を弾ませた。
幡梭王女の乳房や首筋に瑞歯別の汗が滴り、彼の発情した体臭が彼女の鼻孔に入り込んできた。
瑞歯別が幡梭王女から離れると、彼女は失神したように横たわり、その太腿に白い筋が滴った。
これまでの屈辱を晴らそうとするかのごとく瑞歯別は幡梭王女を貪り、彼女は中蒂姫と若日下王の姉妹を産んだ。
自身の血筋が「二つの大王家」を統合するかも知れないことに瑞歯別は狂喜した。
去来穂別が狂死して瑞歯別が十八代目の大王になると、彼は珍の名で宋に遣使して貢献し、義兄の大日下王も隋と名乗らせ、共に官爵を求めた。
これに忍坂姫は疑念を募らせた。
瑞歯別は密約を反故にし、義兄の大日下王に大王の地位を引き継がせるのではないか。
そう疑った忍坂姫は、瑞歯別に毒を盛り、四三七年に彼は暗殺された。
皮肉にも瑞歯別の死後、彼に安東将軍の官位と倭国王の爵位を賜る宋からの使いがやってきた。
大日下王も安東将軍と同格の平西将軍とされており、大豪族たちも征虜将軍・冠軍将軍・輔国将軍の官位を授けられた。
忍坂王は疑われるのを避けるため、大日下王らを毒殺するのは流石に控えた。
おかげで浜子や吾子籠も天寿を全うできた。
しかし、幡梭王女は瑞歯別から来る日も来る日も肉体を蹂躙され、服従するより他なく、生きる気力を失い、彼の後を追うように早世した。
中蒂姫と若日下王は大日下王に引き取られた。
註
*瑞歯別が淡路国で産まれる:産宮神社の伝承
*筑前に大栲成の一族がいる:源順『和名類聚抄』
*大栲成が御間城に御膳を奉る:『高橋氏文』
*百足が大足彦に仕える:『肥前国風土記』
*難波へと百足が移住する:『播磨国風土記』
*讃が宋へ貢ぎ物を納める:李延寿『南史』
*倭人が新羅を東の辺境から攻める:金富軾『三国史記』
*珍が安東将軍と倭国王の官爵を賜って隋が平西将軍の、豪族たちが征虜将軍・冠軍将軍・輔国将軍の官位を授けられる:沈約『宋書』




