宿儺
宿儺はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/134487761)
一
難民たちが建国した大和王権は、彼らが安住できる楽土を建設するため、脅威を排除すべく皇軍がいつでも戦闘態勢にあった。
ただ、その維持には費用が掛かり、皮肉にも皇軍は平和を願いながら、戦争による略奪で賄われた。
戦争してでも楽土を建設しようとする姿勢は、皇道という大和王権の国是となったので、改められることはなかった。
大和王権が諸国と連合して大和政権を成立させ、邪馬台国の学府たる鬼神道が参加すると、皇道は八洲(本州・四国・九州)の土着信仰を外来思想で体系化された神道により弁証された。
皇軍の戦争は神々の女王である天照に祝福されており、征服地を文明化するものとされた。
当時、八洲の軍は農閑期に民を徴兵するのが一般的だったので、大和政権は秋津島(本州)の大部分と伊予島(四国)および筑紫島(九州)を征した。
ところが、皇軍が西遷して海外に遠征すると、戦力が手薄となった日高見(東日本)では豪族たちの間に独立の動きが見られた。
その動きを見逃さなかったのが荒覇吐王国だった。
道奥(東北地方)の大国たる荒覇吐王国は皇軍が侵攻してくるのを警戒し、大和政権が支配する国々の離反を画策した。
そのための工作は荒覇吐王国の王の一人である達麿が特に熱心だった。
荒覇吐王国はその領地を東西南北と中央に分け、それぞれに王を置き、彼らは荒吐五王と呼ばれた。
荒吐五王は中央の王が総代して荒吐王と称し、達麿はその地位にいた。
彼は皇軍に滅ぼされた「鳥見の里」の王を祖とし、荒覇吐王国の民が同じ目に遭わぬよう大和政権の打倒を掲げ、確固たる信念で人々を強く惹き付けた。
先祖や人民のために立ち上がるなど愛情深いが、大和政権との戦いが容易ではないことから思慮深くもあり、自分の掲げる信念から著しく逸脱した臣下には厳格だった。
達麿は戦争を繰り返す大和政権に深く失望し、妥協の余地はないと考えていた。
そのような達麿が工作の対象とした勢力の一つに飛騨王国があった。
飛騨国(岐阜県北部)の小国である飛騨王国は山中にあり、大和政権とはかつて初代の大王たる狭野と対等な同盟を結んだ間柄だった。
大王とは大和王権の君主で、いずれ天下を統一するため、その称号に地名を冠さなかった。
最初期に狭野の即位を認め、峻険な山岳に守られていたこともあり、飛騨王国は長らく皇軍に侵攻されなかった。
しかし、その独立性は歳月を経るに連れ、次第に浸食されていった。
達麿は飛騨王国の王である宿儺に働き掛け、大和政権に抵抗しないかと誘った。
飛騨王国は巫術者たる宿儺の一族が治めており、神々の末裔とされる彼らの血筋からは稀に両性具有の子が産まれ、男女の両面を兼ね備える現人神として両面宿儺の称号を襲名した。
飛騨王国の王は両面宿儺しか即位できず、両面宿儺がいない場合、統治は王が不在のまま一族の合議によって行われた。
宿儺は両性具有の体で産まれ、両面宿儺の称号を襲名し、誕生と同時に飛騨王国の王となった。
彼は大きな乳房を持ちながらもほっそりとして美しく、紅を引いたかのように朱い唇には常に微笑みが浮かび、肌は驚くほど色が白くて綺麗だった。
現人神であることから丁重に遇され、周りから畏敬の念を受けていた。
それ故に自由はなかったが、諦観と共にその境遇を受け入れ、王としての務めを果たした。
位山に七儺という賊が出没すれば討伐し、毒龍の仕業とされる疫病が流行すれば、知識人である巫術者としての知見を活かして対処した。
そして、とうとう皇軍が飛騨王国に進駐してくると、宿儺は国の独立を守らんとした。
達麿が宿儺に働き掛けてきたのはその最中だった。
二
大和政権は外征によって実力が認められ、海外からは八洲に土着する倭人の代表として認知された。
そうして対外的には倭国と名乗り、大王も倭国王と称した。
倭国は倭人を代表して海外との交易を牛耳り、韓郷(朝鮮)の鉄資源や先進技術を独占的に入手できた。
皇軍はそれらを利用し、遠征中に緩んだ支配の引き締めを図ったが、単に旧に復すのではなく、より強固な支配を打ち立てることが目指された。
それには儒教の導入が関係していた。
儒教は超大国である震旦(中国)の教えで、秩序の維持を重視しており、国際秩序の規範にもなった。
倭人を代表する倭国として承認された大和政権も儒教を重んじた。
そして、神道だけではなく儒教も皇道の弁証に用いられた。
儒教では秩序を維持するための制度たる「先王の道」を創始した人物が聖人と呼ばれ、大和政権は天照がそれに当たるとした。
聖人である天照は子孫に授けた「三種の神器」に「先王の道」を象徴させ、八洲に儒教を広めていたとされた。
それゆえ、天孫から「三種の神器」を受け継いだ大王が震旦の国内秩序に倣い、皇帝のごとく絶対的な権力を持つのは、天祖たる天照の御心に適う行為だった。
大和政権は日高見など各地に将軍を派遣し、遠征中に緩んだ支配を引き締めるだけではなく、諸国の力を弱め、全ての権力を大王に集中させようとした。
飛騨王国には和珥武振熊/武振熊という将軍が遣わされた。
武振熊は外征やそれに続く内乱で活躍し、気が短くて荒っぽく、本人も己の粗暴さを自覚してので、功臣として中央で栄華を極めることも出来たが、一介の武人として戦場に身を置く方が性に合っていると豪語した。
彼は息子の日触使主に家督を譲ると、老齢でありながらも地方への派遣に志願し、その申し出を聞き入れられ、飛騨王国に皇軍を進駐させた。
宿儺は武振熊から独立を放棄し、大和王権を盟主とする大和政権に飛騨王国を加盟させるよう要求された。
飛騨王国にとって武振熊の要求はとても受け入れるものではなかったが、拒否すれば皇軍との戦争は避けられなかった。
ひとまず時間を稼ぐため、宿儺は両性具有である自分を娶り、王配として飛騨王国を治めてはどうかと武振熊に提案した。
彼は男としては王家の血筋を残すため、複数の女性と関係を持っていたが、女としては夫がいなかった。
武振熊が宿儺の王配となれば、飛騨王国としては名目的に存続でき、大和政権としては実質的に支配を強化できた。
好戦的ではあるものの、武振熊も合理性を欠いてはいなかったので、犠牲を出さずに飛騨王国の実権を握れるのなら、時間を掛けて大和政権に加盟させるのも吝かではなかった。
また、兵士たちの間では同性で愛し合う善友が珍しくなく、武振熊も嗜んでいた。
寝椅子に横たわった宿儺は、長くて乳のように白い腿の間から太くて大きな陰茎を突き出し、襟を緩めて乳房をはみ出させた。
向かい合わせに坐った武振熊は、宿儺の赤い乳首を吸いながら、彼の重い睾丸を掌に乗せ、その陰茎を完全に勃起させた。
宿儺は裾を持ち上げ、尻を丸出しにすると、武振熊の上に乗り、自らを突き刺して腰を揺すった。
武振熊は下半身の固い肉塊を力一杯に突き入れた。
激しい責めに宿儺のものは脈打ちながら欲望を解放した。
宿儺は武振熊の妻になると、彼に依存していった。
飛騨王国の王たることを運命付けられていた彼は、武振熊へ実質的に譲位すると、ある種の解放感と共に空虚さを感じ、それを埋めようとするかのごとく夫にのめり込んだ。
そうしたこともあり、宿儺は達麿から密かに働き掛けられても応じるべきか逡巡した。
達麿は荒覇吐王国の助けを借りて皇軍を追い払わないかと持ち掛けた。
しかし、宿儺の感情を別にしても飛騨王国は武振熊を王配に迎えたことで独立を守れていた。
それに、荒覇吐王国は大和政権への抵抗を組織しようとしていたが、大和政権も荒覇吐王国の征伐を計画しており、下手に達麿の働き掛けに応じると、却って飛騨王国の独立が脅かされかねなかった。
荒覇吐王国を征伐するため、大和政権は将軍の上毛野田道/田道を道奥に派遣した。
田道は毛野国(群馬県・栃木県南部)に産まれ、毛人の血を引いてもいた。
毛人は日高見にいた狩猟民で、毛野国にはかつて彼らの部族国家である毛野王国があった。
田道の先祖たる豊城は毛野王国を征服し、その一族である上毛野氏は毛人の豪族とも婚姻した。
毛人との混血は日高見において珍しいことではなく、日高見の人々は東人とも呼ばれ、飛騨王朝の者たちも東人だった。
馬の飼育に適した日高見は、軍馬や騎兵を大和政権に供給し、田道も騎馬隊を率いて皇軍の遠征に参加した。
遠駆けなどの乗馬に早くから親しんできた田道は、遠征も苦ではなく、寧ろ見聞が広がるのを楽しんだ。
大和政権は西暦の紀元後四〇七年、韓郷の東南部にある新羅の辺境を侵したが、その遠征にも田道は兄の上毛野竹葉瀬/竹葉瀬と共に従軍し、敵軍の豪傑である百衝を討ち取った。
それにより新羅は四〇八年に皇軍が韓郷に程近い対馬国(対馬島)に軍営を設置しても手を出せなかった。
韓郷の西南部に位置する百済も、四〇九年に倭国から夜明珠を贈られ、新羅に対する共同戦線を張った。
副都たる難波(上町台地)に凱旋した田道は、荒覇吐王国を討つべく道奥に遠征するよう大王の大鷦鷯から命じられた。
竹葉瀬は毛野国に帰郷し、上毛野氏の後を継いだ。
三
武振熊は飛騨王国の物資や人員を動員し、田道の遠征を後方から支援するよう命令された。
田道は遠征の途上で飛騨王国に立ち寄り、武振熊の支援に感謝した。
礼儀正しく接してくる田道に武振熊も悪感情は抱かなかったが、自分が遠征できないことを残念がった。
武振熊は飛騨王国の実質的な王となり、宿儺に傅かれてもいた。
前妻に先立たれて年老い、後妻になった宿儺と過ごす内、武振熊もまた彼を愛するようになった。
しかし、平穏な日々に武振熊は満たされぬ想いを抱えた。
それに、その平和は仮初めのものでしかなかった。
飛騨王国の者たちは現人神である宿儺の自己犠牲により大和政権に蹂躙されないで済んだと思っていた。
それ故に彼らは宿儺を武振熊から解放しようとして達麿と内通した。
そうとも知らぬ皇軍は、道奥に攻め上がって荒覇吐王国と戦ったが、大敗北を喫して田道も死んだ。
田道の妻は夫が敗死したと聞き、その形見たる小手を抱きながら、首を括って後を追った。
飛騨王国の者たちは達麿が皇軍を大敗させたのに呼応して蜂起した。
だが、荒覇吐王国が勝ちすぎたため、皇軍の死体は余りにも多く、疫病が流行して達麿も犠牲となった。
飛騨王国の者たちが起こした蜂起は、荒覇吐王国からの支援を当てにしていた。
しかしながら、達麿の病死によって荒覇吐王国は混乱し、飛騨王国の者たちを支援できなかった。
それでも、王や国を救うために飛騨王国の者たちは立ち上がり、駐留していた皇軍を襲撃した。
宿儺も彼らを見捨てられず、やはり両面宿儺の運命からは逃れられなかったかと諦め、その旗印となるのを引き受けた。
武振熊は援軍を求め、一旦、飛騨王国を去るも態勢を立て直し、蜂起を完全に鎮圧した。
彼は蜂起に加わった者たちを捕らえ、次々と処刑していった。
宿儺は捕虜となり、その一族や彼が関係を持った女性たちは誅滅された。
飛騨王国は廃されて宿儺も王として扱われなくなった。
宿儺は地面に放り出されて四つん這いになり、乳房と陰茎がだらりと垂れた。
武振熊は大きな手で宿儺の脚を強引に開かせ、後ろから乱暴に押し入った。
宿儺は丸くて白い尻の割れ目を押し分けられ、硬直してそそり立った勃起を突き刺された。
彼は低く呻きながら身悶えした。
武振熊は宿儺を荒々しく攻め続け、折檻も加えて彼に悲鳴を上げさせた。
宿儺が背を仰け反らせて絶頂に達すると、武振熊は満足げな笑みを浮かべ、まだ固いものを引き抜いた。
縛られた宿儺が引っ立てられてきたのを見た時、彼はこれまでにない興奮を覚えた。
そして、敵将を拷問に掛けると称し、愛する妻を責め苛むと、平穏な日々では味わうことのなかった幸福感に満たされた。
宿儺は両面宿儺として皇軍に責め苦を負わされ、それにより武振熊の妻として彼を喜ばせるのが自分の運命であったと受け入れた。
けれども、老体を酷使したのが祟り、武振熊は心臓が破裂して死に至った。
嬲られ続けて衰弱していた宿儺も、武振熊の死を目の当たりにし、生きる気力を無くして息絶えた。
飛騨王国の遺民たちは宿儺が我が身を犠牲にし、武振熊を討ったと信じた。
彼らは墳墓を建設して宿儺を祀った。
大和政権も荒覇吐王国に大敗したのを反省し、反乱が起きるのを避け、宿儺の墳墓が建設されるのを黙認した。
最後の両面宿儺たる宿儺は飛騨国の守護神として長く信仰を集めた。
註
*飛騨王国が宿儺によって治められる:『千光寺記』
*七儺が宿儺に討伐される:長谷川忠崇『飛州志』
*宿儺が毒龍に対処する:岡田啓『新撰美濃志』
*聖人の天照が「三種の神器」に「先王の道」を象徴させる:雨森芳洲『橘窓茶話』
*倭国が新羅の辺境を侵し、新羅が対馬国に設置された軍営へ手を出せず、百済が倭国から夜明珠を贈られる:金富軾『三国史記』
*達麿が田道を敗死させる:『東日流外三郡誌』




