磐之媛
磐之媛はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/133941787)
一
大和政権は畿内(奈良県・京阪神)の大和王権を盟主とし、諸国が連合して八洲(本州・四国・九州)の大部分を支配した。
その王朝が三輪王朝から河内王朝へと交替した時、河内王朝は海外から八洲に土着の倭人を代表する王朝と認められることで正統性を得た。
倭国とも呼ばれるようになった大和政権は、倭人の代表として海外と安定して取引でき、それで得た鉄資源や先進技術を支配下の諸国に与え、忠誠心を高めるのに成功した。
その体制を維持するには海外と交流するため、海路を掌握しておくことのが肝要で、政界の長である大臣の武内宿禰/武内がそれを担った。
紀伊国(和歌山県)の出身たる武内は日向国(宮崎県)の諸県氏と連携して南海道(和歌山県・淡路島・四国)を、吉備国(岡山県・広島県東部・兵庫県西部)の吉備氏と手を結んで瀬戸内を、近江国(滋賀県)の息長氏と組んで北ツ海(日本海)を掌握した。
また、彼は畿内の豪族である巨勢氏や蘇我氏、平群氏らを郎党として本土の水路網も掌握し、大和国(奈良県)と河内国(大阪府南東部)を繋ぐ葛城(葛城地域)を手中に収めた。
大和国には都が置かれ、港湾に近い河内国は海上交通の要衝だった。
河内国にある難波(上町台地)は副都となり、武内は大和政権の対外交渉を主導した。
そうして彼は君主たる大王に並ぶ権力を握ったが、異母弟の甘美内宿禰/甘美内や和珥氏に背かれるなど盤石ではなかった。
それに、その権力は飽く迄も武内という個人が握っているものだった。
武内が死ねばそれは霧散しかねず、誰かに継承させねばならなかった。
豪族たちはそれぞれに役割を担わせてはいたが、いずれも部分的なものでしかなく、全てを継がせるには倭国の全体を統轄する大王の一族から選ぶ必要があった。
そうして武内が目を付けたのが大鷦鷯だった。
大鷦鷯は大王たる誉田別の息子で、正妻の子として有力な後継ぎ候補の一人と目されていた。
誉田別には大鷦鷯の他に後継ぎとして有力視される候補が二人おり、大山守王子と菟道稚郎子がそうで、彼らはいずれも大鷦鷯の異母兄弟だった。
大山守王子は誉田別の長男で、菟道稚郎子は誉田別から溺愛されていた。
しかし、武張った大山守王子は将兵から愛されていたが、韓郷(朝鮮)や震旦(中国)の情勢には疎かった。
菟道稚郎子は海外の動向に明るかったが、文弱であって軍に好かれていなかった。
大鷦鷯は戦士たちと親しく、異国のことにも通じていた。
そして、何より彼は狡猾だった。
好淫な誉田別には多くの愛人と子供がおり、大鷦鷯はそのように複雑な家庭環境とそれに伴う宮廷での暗闘に揉まれ、飄々として捉え所のない態度の裏で奸策を弄するようになった。
彼は女好きであるかのような態度を見せ、様々な部族の姫君や女首長を誘惑し、彼女らを使って豪族の男たちも籠絡していった。
武内は大鷦鷯こそ自分の権力を継承するに相応しいと考え、孫娘の葛城磐之媛/磐之媛を貰ってはくれまいかと彼に持ち掛けた。
大鷦鷯は政争を勝ち抜くには武内の後ろ盾が欠かせぬと判断し、磐之媛を娶ることにした。
磐之媛の父親は武内の息子たる葛城襲津彦/襲津彦だった。
襲津彦は強弓を軽々と引くほどの猛者で、鬼のごとき将軍として恐れられた。
そうした父に似て磐之媛も猛々しかった。
磐之媛は常日頃から武芸の稽古に励み、気の強い言動が目立った。
もっとも、それは猛将たる襲津彦を敬愛し、その娘に相応しくあらんとする勤勉さの表れだった。
真面目な磐之媛は大鷦鷯の妻としても恥ずかしくないよう努力した。
彼女は大鷦鷯の共犯者となり、彼が生き残るため、異母兄弟を抹殺して大王となるのを助けた。
二人は考え付く限りの策略や陰謀を巡らし、大山守王子を姦計で破滅させ、菟道稚郎子を毒薬で暗殺した。
罪の記憶は二人を繋ぐ紐帯となり、彼らを激しく燃え上がらせた。
磐之媛は細身であるけれども大きな乳房と豊かな太腿を持ち、女性にしては長身の惚れ惚れするような美人だった。
強い輝きを放つ眼は、気位の高さをありありと窺わせた。
大鷦鷯と磐之媛は喘ぎながら、互いに体を押し付け合わせ、剥ぎ取られた衣服の間でもつれ合い、濡れた肉体が湯気を立てた。
大鷦鷯は磐之媛の白い腕に抱かれ、彼女の髪から放たれる香水の香りを嗅ぎつつ、その耳に淫らな言葉を囁きかけた。
磐之媛は大鷦鷯の愛撫に身を任せ、微かな叫び声と共に快楽を解き放った。
大鷦鷯と磐之媛は四人の息子を作った。
二
大鷦鷯は十六代目の大王になると、三年間、課税と労役を免除した。
大和政権は数度に渡り、韓郷に進攻したため、人民は疲弊していた。
大山守王子と菟道稚郎子を排除して即位した大鷦鷯は、徳政によって支持を固めようとした。
誉田別の母である息長足姫/息長姫も有徳者が不徳の者に取って代わる易姓革命の理論を利用し、先代の遺児たちを排除し、我が子を大王に即位させた。
易姓革命は儒教が説いた理論で、簒奪に正統性を与えられたが、簒奪者は徳のあるところを示さねばならなかった。
儒教は震旦の教えで、社会の秩序を重んじ、それを維持する能力が徳だった。
大鷦鷯は豪族の領民に課役を課さず、政費を節減して直轄地たる屯倉などから賄った。
民力を休養させて三年が経ち、社会に余裕が出てくると、彼はその余勢を駆って治水工事を実施した。
それは課税や課役を再開しての事業だったが、負担を補って余りあるほど生産力を向上させ、民は大鷦鷯を聖君と呼んだ。
聖とは霊を知る者のことで、ものに宿る力を引き出すのに長けているとされた。
大鷦鷯は大王として民の活力を引き出したことから聖君と称されたが、その呼称は好色な彼への揶揄でもあった。
大王となっても彼は魅力的な女性たちと浮き名を流していた。
しかし、大鷦鷯が誉田別のように多くの愛人たちを抱えるということはなかった。
磐之媛が彼女たちを大鷦鷯の下から次々と追い出していったからだ。
彼の共犯者たる磐之媛は自分以外の人間が夫に連れ合うことを許さなかった。
そうして大鷦鷯の愛人であった吉備海部黒日売/黒日売や桑田玖賀媛/玖賀媛が宮中を逐われた。
ただ、大鷦鷯は磐之媛に隠れて猟色を続け、寧ろ妻との遣り取りを楽しんでいるかのようだった。
また、彼は内政や恋愛だけではなく、戦争にも熱心に取り組んだ。
大鷦鷯は自ら甲冑を着け、東西を奔走することも厭わず、八洲ばかりか韓郷にも目を向けた。
韓郷は倭人の居留地たる任那が南端部にあった。
中南部では小国の連合である加羅が東南部の新羅と西南部の百済から干渉を受けていた。
百済は倭人の八須夫人が王妃となり、王女の新斉都媛が七人の婦女を連れ、倭国王たる大王に仕えるなど倭国と結び付きが強かった。
それゆえ、倭国は百済と同盟し、新羅や北部の高句麗と戦った。
もっとも、その一方で使者の往来や贈り物の遣り取りも行われ、倭人の全てが新羅や高句麗を敵視しているわけではなく、襲津彦もその一人だった。
西暦の紀元後三六四年に襲津彦は新羅へ出征し、新羅に敗れるも捕虜を連れ、倭国に帰還するなど新羅とは関わりが深かった。
だが、襲津彦が婿入りした葛城氏は、葛城で倭国の対外交渉を統轄し、現場を熟知していたため、大王の一族である阿毎氏とは外交方針が必ずしも一致しなかった。
倭人は百済に渡屯倉、新羅に内官家屯倉という居留地を設けており、葛城氏としてはいたずらにその利権を危険に曝したくなかった。
そういった事情から襲津彦は百済から倭国に帰化しようとしていた技術者たる弓月君らが新羅と加羅の紛争によって韓郷に足止めされ、彼らを倭国に連れ帰るよう韓郷に派遣されると、話し合いでの解決を図った。
しかしながら、当時の大王であった誉田別は長引く交渉に痺れを切らし、武内の子分たる平群木菟/木菟と的戸田/戸田を渡海させ、武力を行使して弓月君たちを連れ帰らせた。
襲津彦は強硬な外交を繰り広げる本国に危機感を募らせた。
誉田別は百済にも襲津彦の兄である角宿禰/角らを派遣し、高圧的な姿勢を見せた。
彼は震旦の東晋にも阿知使主と都加使主の親子を遣わしていたが、超大国に無礼を働いてしまわないか、襲津彦は冷や汗を掻かされた。
彼は武術に秀でた強者だったが、外交に携わるだけあり、無闇に揉め事を起こしはせず、有力者たちと飲み交わすなどして諸外国に人脈を作った。
しかしながら、韓郷では戦争の機運が高まりつつあった。
高句麗は優れた武器を倭国に贈って武威を示し、新羅は使者たる戸田の横柄な態度に倭国への反感を強め、百済は倭国に援助を要請した。
そこで、新羅に駐在していた襲津彦は、緊張を緩和させるため、同僚の千熊長彦が韓郷で職麻那那加比跪と称したのに倣い、新羅の将軍となって沙至比跪と名乗り、新羅が加羅を攻撃するのに加わった。
彼は新羅の女性を愛人にしており、新羅の宮中に伝手があった。
和珥氏の大矢田宿禰/大矢田が新羅の王である猶榻の娘を娶り、佐久および武義という兄弟を儲けるなど新羅の宮廷で活躍する倭人も少なくなかった。
襲津彦は体を張って尽くすことで新羅との関係を修復しようとした。
三
阿毎氏は震旦の漢人のごとく対外的には倭姓を称し、大鷦鷯も禰と名乗っていた。
それらは諸外国から倭国王と認められるためのものだったが、四〇四年、高句麗の王である好太王が帯方界(黄海道)に進出した倭国の軍を敗退させ、大王の威信は大いに傷付けられた。
大鷦鷯は直前の新羅による加羅への攻撃を高句麗と示し合わせてのものと考え、それに加わった襲津彦を裏切り者と見なした。
新羅に攻撃された加羅は、王の己本旱岐がその人民を連れて百済に逃げ、王妹の既殿至が大鷦鷯に襲津彦のことを直訴し、大鷦鷯は襲津彦を捕らえて処刑するよう命令した。
襲津彦の妹にして誉田別の愛人の一人であった伊呂比売が助命を乞うても無駄だった。
武内も政治の表舞台から退き、たまに大鷦鷯と雑談をするくらいで、影響力を失っていた。
四〇五年、襲津彦を捕らえるべく新羅に差し向けられた軍は、新羅の軍によって撃退されたが、襲津彦は新羅にいられなくなり、密かに倭国へ帰った。
彼は分国に身を隠し、機会を窺うことにした。
分国とは倭国に存在した高句麗・百済・新羅の居留地で、外交に携わる襲津彦は、そこにも伝手があった。
しかし、同じく分国に繋がりを持つ木菟により捕らえられた。
木菟は百済の貴族である木氏の傍系で、故国では出世の見込みがなく、武内の口利きで平群氏に婿入りしたのだ。
襲津彦を捕らえた木菟が彼をこのまま大鷦鷯に突き出すべきか迷っていると、磐之媛が秘密裏に接触してきた。
葛城氏の一員として磐之媛も分国には伝手があったので、その繋がりを利用し、襲津彦が木菟に捕らえられたと知ったのだ。
父を助けるため、磐之媛は彼を内密に引き渡してほしいと木菟に請うた。
それは磐之媛にとって大鷦鷯に隠れて行う初めての裏工作だった。
木菟は磐之媛の話を聞き終えると、彼女の頬に一方の手を寄せ、親指でその唇をなぞった。
磐之媛は木菟が何を対価に求めているのかを察して顔を背けず、そのまま彼に唇を奪われた。
木菟は荒い息を吐き出しながら、もう片方の手を磐之媛の太腿から腹部、更には豊満な胸元へと這わせ、その肉体を貪り、彼女は夫以外の男と初めて関係を結んだ。
大鷦鷯の寵臣たる木菟は彼と同い年でもあり、双子のようであるとも言われて自尊心を膨らませ、磐之媛の体を味わうことによって満たされた。
磐之媛は夫を裏切ったことに耐えきれず、彼が菟道稚郎子の妹である八田王女を愛人としたことに激怒した風を装い、筒城岡(都谷)の別邸に引き籠もった。
そこで自身の死を偽装し、密かに平群谷へ行った。
筒城岡に程近い平群谷は平群氏の本貫で、磐之媛は名もなき女奴隷として木菟の情婦となり、彼はそれと引き換えに襲津彦の復権に尽力した。
大鷦鷯は磐之媛を失い、気落ちしていたため、彼女の父たる襲津彦を許した。
襲津彦は百済の王族である酒君の護送などその後も外交で活躍したが、最期は海外での戦いに敗れ、落ち延びた洞窟で自害した。
大鷦鷯は八田王女を妻としたが、磐之媛がいなくなってから覇気を無くしていき、晩年にはすっかり無気力となって四二七年に亡くなった。
木菟は大鷦鷯と磐之媛の長男たる去来穂別の即位を助け、他の重臣たちと共に国事を執り、この世の栄華を味わい尽くした。
そのような木菟に身を捧げた磐之媛は、彼の没後はその遺言により殉葬を強いられ、同じ墓場に眠った。
註
*襲津彦が強弓を引く:『万葉集』
*禰が自ら甲冑を着け、八洲の東西を奔走して韓郷にも出兵する:沈約『宋書』
*倭国が新羅に出兵するも敗れる:金富軾『三国史記』
*大矢田が猶榻の娘を娶り、佐久と武義を儲ける:『新撰姓氏録』
*韓郷で千熊長彦が職麻那那加比跪、襲津彦が沙至比跪と名乗る:『百済記』
*好太王が帯方界に進出した倭国の軍を敗退させる:広開土王碑




