雌鳥王女
雌鳥王女はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/133656340)
一
韓郷(朝鮮)の西北部には楽浪郡および帯方郡という震旦(中国)の出先機関が存在した。
そこには震旦から渡来した漢人の移民が多く住んでいた。
ところが、粛慎(満洲)から南下してきた高句麗によって楽浪郡と帯方郡は滅ぼされた。
高句麗は騎馬民族の夫余により建国され、韓郷の北部を征服して南下を続けた。
南部では東南部である辰韓の新羅と西南部たる馬韓の百済が中南部の弁韓を取り合っており、そこに高句麗がやってきたので、韓郷の情勢は更に混迷を深めた。
そのような中で難民となった楽浪郡と帯方郡の漢人たちは、流浪しながら震旦の先進的な文物を韓郷の国々に提供することで生き延びた。
彼らは生き残るため、遠く離れても互いに連絡を取り合い、情報を交換していた。
そうして阿智王のところに倭国の情報がもたらされた。
阿智王は帯方郡の名門に連なり、多くの漢人を率いていた。
漢人の難民には韓郷の国々に居場所を見付けた者も少なくなかったが、未だ不安定な立場にいる人々も、相当な人数に上った。
そのような人々の移住先として倭国は魅力的だった。
八洲(本州・四国・九州)の土着民である倭人を代表するのが倭国で、大和政権の君主たる大王が倭国王と称していた。
大王は震旦の文物を導入し、自身が倭人を代表するに相応しいと海外に認めさせ、倭国王の自称に正統性を持たせていた。
しかし、文物の導入はなお道半ばで、阿智王はそこに好機を見出した。
未だ不安定な立場の漢人たちを集団移住させれば、難民たちは居場所を得られ、倭国も震旦の文物を一挙に導入できた。
無論、韓郷の各地で不安定な立場にいる難民を集団移住させるのは、大きな危険を伴ったが、十七の地域から漢人たちが阿智王の下に集った。
阿智王は自身の直観に従い、突飛な行動に出て周囲を戸惑わせることがあった。
だが、それは聡明さに裏打ちされており、判断を誤ることはなかった。
また、名門ならではの鷹揚さか阿智王には危険が伴ってもそれを楽しむ稚気があった。
それゆえ、周囲の漢人たちも阿智王を信頼し、七姓漢人と呼ばれる難民らが彼と共に八洲へ渡来した。
阿智王たちが倭国を訪れた時、倭国王は誉田別という大王だった。
誉田別は倭国王としては漢人のごとく旨と名乗っていた。
大王の一族も国内においては阿毎氏と呼ばれたが、海外では倭姓を称した。
そのようなところでも震旦の文物は重んじられていたため、誉田別は阿智王を受け入れて重用した。
阿智王は難民らを各地に移住させ、自らはその統率に当たり、震旦の文物を倭国に広めさせた。
彼は倭国に帰化して阿知使主と名乗り、大王が誉田別の息子である大鷦鷯に代替わりしても厚遇された。
阿知使主は大和政権の本土たる畿内(奈良県・京阪神)で地位を得ると、阿毎氏とも繋がりが出来て特に大中彦王子と仲を深めた。
大中彦王子は大鷦鷯の異母兄である大山守王子の同母弟だった。
大山守王子は大王の地位を巡る内乱に敗れて死んだが、そうした兄を間近で見てきたからか、大中彦王子は政治に関わるのを避け、気儘な自由人として生きた。
道楽に耽る彼は諸国を漫遊し、風光明媚な土地を見付けると、そこが大王の直轄領たる屯田であっても別荘を建てようと考え、管理人たる屯田司の淤宇宿禰を困らせるなどしていた。
そのように酔狂な大中彦王子は海外の文化に通じた阿知使主にも興味を示し、阿知使主も奔放に振る舞う大中彦王子を面白がった。
それゆえ、二人はよく行動を共にし、連れ立って山城国(京都府南部)の菟道(宇治市)に赴いた時もそうだった。
阿知使主は山城国に移住した難民たちの視察、大中彦王子は物見遊山が目的で、そのついでに菟道の隼別王子を訪ねた。
隼別王子は大鷦鷯や大中彦王子の異母弟で、桜井田部氏の糸媛を母としていた。
大鷦鷯は隼別王子を菟道に派遣し、そこの統治を任せた。
菟道はかつて菟道稚郎子が治めていたところで、彼もまた大鷦鷯の異母弟だった。
菟道稚郎子は誉田別から次の大王に指名されていた。
しかしながら、彼は即位する前に急死し、大鷦鷯が大王となった。
菟道稚郎子の息子である大日下王は母親の髪長媛ともども菟道から河内国(大阪府南東部)へと移され、菟道には菟道稚郎子の妹たる八田王女と雌鳥王女が残った。
二
誉田別が死んで大王の地位を巡る内乱が起きた時、隼別王子は余りにも幼く、争いに加わることが出来なかった。
彼はそれを悔しがった。
育ちの良さによる責任感の強さから隼別王子は誰にも負けない男たらんとし、粗暴なほど言動が武張っていた。
隼別王子と同じくらい年若い者たちはその傲慢さを純粋であるがゆえのものであると寿いだ。
内乱に参加できなかった彼らは、隼別王子の下に集い、若い血潮の滾りを訓練に費やした。
大鷦鷯はそれを暴発させぬため、隼別王子たちを菟道に派遣することにした。
大王になるはずの菟道稚郎子を失った菟道は、大鷦鷯を敵視していた。
そうした菟道と場合によっては少しばかり戦わせ、隼別王子たちの鬱憤を晴らさせようと考えたのだ。
ところが、隼別王子が菟道の姫たる雌鳥王女と出会い、事態は思わぬ方向に発展した。
雌鳥王女は大鷦鷯が兄の菟道稚郎子を毒殺したと固く信じていた。
それにより抱かれた恨みは、雌鳥王女を猛々しくさせ、彼女は口が悪い上に喧嘩っ早かった。
しかし、そのことが血の気が多い隼別王子たちには却って清々しく感じられた。
また、怒りの炎は雌鳥王女を醜くはせず、寧ろ灯りが照らすかのごとくその美しさを引き立てた。
雌鳥王女の魅力は匂い立つかのようで、肩の線はなだらかに丸く、形良く張った両胸は、大きく盛り上がっていた。
腰は良く熟れて弾力があり、肌には些かの弛みもなく、体は均整が取れていた。
互いに情熱を持て余す隼別王子と雌鳥王女は惹かれ合い、隼別王子は雌鳥王女の股に顔を埋め、雌鳥王女は隼別王子の性器を何度も握った。
隼別王子は着物を脱ぎ捨てて雌鳥王女にのし掛かり、二人は抱き合って胸や腹をくっつけ、汗にまみれながら接吻した。
大鷦鷯が八田王女と雌鳥王女の姉妹を女官である采女として宮仕えさせるよう隼別王子に命じると、隼別王子は八田王女だけを大鷦鷯の下に送り、雌鳥王女を自分の妻とした。
大鷦鷯は隼別王子と雌鳥王女の結婚に驚いた。
だが、隼別王子が雌鳥王女を抑えてくれるのなら不満はなかった。
八田王女と雌鳥王女を采女にしようと考えたのも、旗印たる彼女たちを奪い、菟道の勢力を削ぐためだった。
かつて菟道稚郎子を支持した勢力が菟道には盤踞していた。
彼らは大鷦鷯への対抗心を失っていなかった。
菟道稚郎子の妹である八田王女と雌鳥王女はそのような彼らにとって心の拠り所だった。
八田王女を采女として宮中に召し上げた大鷦鷯は、菟道に留まった雌鳥王女が担ぎ出されぬよう隼別王子が監視することを望んだ。
大鷦鷯は大王の弟たる隼別王子が政治的な敗者である菟道の勢力に同情するとは考えず、雌鳥王女との結婚も彼らを懐柔するためのものと見なしていた。
しかしながら、隼別王子は大鷦鷯を倒し、自分の野心と雌鳥王女の復讐心を満たそうとしていた。
菟道稚郎子を失った菟道の勢力は、雌鳥王女の夫となった隼別王子に希望を見出した。
隼別王子の下に集った若者たちも、雌鳥王女との関係は良好だった。
復讐の炎を燃やす雌鳥王女は、それだけ活力があり、普段は快活であって人当たりも悪くなかった。
こうして隼別王子たちは一丸となり、叛乱の準備を進めた。
そして、その最中に大中彦王子と阿知使主が隼別王子を訪問した。
大中彦王子は華やかな空気を好むがゆえにきな臭さを敏感に嗅ぎ取った。
けれども、政治に関わるつもりはなかった。
それゆえ、同母兄の大山守王子が政争に敗れてどうなったかを語り、まだ若い異母弟にそれとなく熟考を促すだけで済ませた。
隼別王子は異母兄の話を大人の繰り言としか捉えなかった。
彼は雌鳥王女と共に遊猟を主催して大中彦王子たちを接待した。
大中彦王子もそれ以上は忠告することはせず、隼別王子と雌鳥王女による持て成しを楽しんだ。
大中彦王子は恋や叛乱の夢に酔う若者たちと遊んでいると、自分も若くなったような気がした。
阿知使主も野原や山での狩りを満喫していた。
八洲の豊かな自然は阿知使主の目にも魅力的に映った。
阿知使主にとって隼別王子と雌鳥王女は野を彩る花のようで、彼らの若さを祝わずにはおれなかった。
三
隼別王子たちは日高見(東日本)の半独立的な豪族たちや道奥(東北地方)の大国である荒覇吐王国にも使者を送り、密かに連絡を取って蹶起に備えた。
大和政権では大鷦鷯への不満が高まっていた。
大鷦鷯は百済と協同し、高句麗および新羅と戦ったところ、敗れて求心力が弱まったのだ。
百済は夫余の王が韓郷の韓人を治め、肥沃な土地を有していたが、夫余と韓人の和合を欠き、夫余ばかりの高句麗や韓人ばかりの新羅に攻められていた。
そのような百済が手を組んだのが倭国だった。
初代の大王たる狭野も夫余と同じ粛慎人の一派が土着した天孫族で、種族が異なる他の倭人も傘下に収めていた。
そうした背景もあり、百済は倭国と組んだ。
大鷦鷯は倭国王としては禰と名乗り、高句麗の王たる好太王が百済に遠征すると、西暦の紀元後三九九年に新羅へ派兵した。
新羅は高句麗に救いを求め、四〇〇年、好太王は激戦の末に倭国の軍を壊滅させた。
大鷦鷯は敗戦処理のため、海外の要人を宮殿での宴に招いた。
倭国には使者として百済の王太子である腆支や新羅の王子たる未斯欣が滞在していた。
会議も兼ねた饗宴の支度に気を取られ、大鷦鷯は隼別王子たちの襲撃を許した。
しかし、隼別王子たちは大鷦鷯の軍と比べて数が少なかった。
それゆえ、不意を突いて大鷦鷯を討ち取り、一気に片を付けて日高見や荒覇吐王国、海外などからの支持を取り付けるつもりだった。
だが、大鷦鷯は襲撃が隼別王子たちの仕業であることを知ると、その狙いを見抜いて守りに徹し、数で劣る相手が疲弊したところで反撃した。
潰走させられた隼別王子たちは倉椅山(音羽山)で大鷦鷯の軍に追い付かれた。
追撃したのは将軍の山部大楯/大楯で、彼の率いる兵士たちは隼別王子たちを全滅させた。
隼別王子は兵士たちに矢で眉間を撃ち抜かれ、雌鳥王女は彼らに捕らえられた。
兵士たちは雌鳥王女を裸にして縛り、代わる代わる馬乗りになった。
彼らは喘ぎながら雌鳥王女の胎に精液を流し込んだ。
それから、剣で彼女の首を斬り、脱がせた着物でその血を拭った。
隼別王子と雌鳥王女の屍は身に着けるもの一切を剥ぎ取られた裸体で木に吊され、大鴉に体を啄まれた。
なお、大楯は雌鳥王女から奪った宝玉を着服し、妻に与えていたのを八田王女に見咎められて死罪となった。
大鷦鷯は菟道の勢力を完膚なきまで叩き潰し、一族は皆殺しにされ、幼児は奴隷となった。
隼別王子と雌鳥王女の娘である中斯知も奴隷にされたが、大中彦王子によって引き取られた。
中斯知は大中彦王子の養女となり、息長氏の意富富杼王に嫁いだ。
意富富杼王は息長氏へと婿入りした二俣王の息子だった。
二俣王は誉田別の息子で、息長氏は雌鳥王女の母方の実家たる和珥氏と親しかった。
ただ、彼らは意富富杼王が謀叛人である隼別王子の義理の息子となるのに難色を示した。
そこで、大中彦王子から頼まれた阿知使主が震旦の文物を提供すると約束して息長氏を納得させた。
日頃の行いが幸いしたというべきか、大中彦王子が中斯知の面倒を見たことは、遊び人の気紛れとして問題視されなかった。
その後も大中彦王子は政治に関わらず、道楽に耽って諸国を漫遊した。
彼は旅先で氷室を見付けると、その氷を大鷦鷯に献上し、氷の浮かんだ酒を大鷦鷯と一緒に飲むなど晩年まで気儘に生きた。
阿知使主は大鷦鷯が亡くなった後も、その長男たる太子の去来穂別に召し抱えられた。
彼は去来穂別が弟の墨江中王に叛乱を起こされると、重臣である平群木菟/木菟および物部大前/大前と共に太子を逃がした。
その功により阿知使主は官物を収納する内蔵に抜擢され、百済の学者たる王仁と共にその出納を記録し、難民たちの地位を安定化させるために最後まで第一線で活躍した。
註
*高句麗が百済に遠征し、倭国の軍が新羅へ派兵されるも好太王に壊滅させられる:広開土王碑
*腆支や未斯欣が使者として倭国に滞在する:金富軾『三国史記』
*二俣王が息長氏へと婿入りする:「北村某の家記」
*意富富杼王が隼別王子の息子とされる:『水鏡』
*阿知使主と王仁が内蔵の出納を記録する:斎部広成『古語拾遺』




