宅媛
宅媛はデザインをpixivにアップしています(https://www.pixiv.net/artworks/132593863)
一
誉田別は大和政権の君主である大王で、母親たる息長姫の胎中にいる時に十五代目の大王となったが、大和政権の王統である三輪王朝の血を引いていなかった。
息長姫の愛人たる侯王が誉田別の父親だった。
侯王は百済の王子で、百済は韓郷(朝鮮)の西南部である馬韓にあり、誉田別は百済など海外から八洲(本州・四国・九州)の土着民たる倭人の王と認められることで大和政権に君臨できた。
彼は海外との関係上、海上交通に便利な河内国(大阪府南東部)の難波(上町台地)を副都とし、河内王朝を新たに開いた。
しかし、それらは政界の長である大臣の武内宿禰/武内が主導したもので、大和政権は倭人を代表する国として倭国と呼ばれた。
誉田別も倭国王と称され、その称号を辱めぬよう武内から帝王学を叩き込まれた。
それでいて誉田別は実権を与えられなかった。
武内は誉田別に代わって貯水池を造り、大王の直轄民たる部民や海外から渡来した知識人や技術者の管理を行ったばかりか、息長姫との酒宴で大王の誉田別が母と歌を交わすことさえ代行した。
決して暗愚ではなかっただけに誉田別は鬱屈し、気晴らしのために放埒の限りを尽くした。
彼は大酒を食らって愛人たちを囲い、何人もの子供を作った。
晩年に誉田別は大王の巡察たる国見の途中で宅媛と出会い、彼女を寵姫とした。
宅媛は知識人である巫術者として大和政権の最高学府たる伊勢太神宮(伊勢神宮)で学び、優れた巫女として宮主の称号を冠されていた。
彼女は才媛であるゆえに自尊心が強く、勝ち気であって感情の起伏が激しい一方、教養の高さから柔軟でもあり、気さくな態度を見せることもあった。
そうした宅媛と一緒にいることで誉田別は自分も若い気になれた。
宅媛の父親たる日触使主/日触も娘と大王の関係を歓迎した。
日触の父である和珥武振熊/武振熊は誉田別を即位させるのに尽力した将軍で、和珥氏は河内王朝で重きをなしていた。
三輪王朝の時代には冷遇されていたので、和珥氏としてはこの好機を逃すわけには行かなかった。
日触も和珥氏の再興を一途に願い、宅媛が誉田別から見初められたのを幸いに酒宴を催した。
宴に招かれた誉田別は、宅媛から酒を注がれた。
日触が自らも遊興を好んでいたため、宴は豪奢を極め、誉田別は大いに満足し、そのまま宅媛と枕を共にした。
宅媛は誉田別を寝床の上に座らせ、衣をするりと脱いだ。
和珥氏として宅媛も自身の才色によって一族を再興させようと野心を滾らせていた。
誉田別は宅媛の若々しい色香に目を見開いた。
宅媛の細面は人目を惹き付けずにおかないくらい美しく、艶やかな肌をしており、歯並びは白くて完璧だった。
濃い乳首を戴いた胸の膨らみは、誉田別の掌から零れそうなほど大きかった。
誉田別は宅媛を引き寄せ、彼女の艶めかしい乳房や温かい唇を味わい、その胎内に子種を授けた。
宅媛は三人の子供を産み、特に息子の菟道稚郎子が誉田別から溺愛された。
誉田別は年長の王子らを差し置き、菟道稚郎子を後継ぎたる太子に任命して周囲を驚かさせた。
傀儡に過ぎぬ誉田別がそう決めただけなら、揉み消すことも出来たが、その決定は背後に和珥氏や息長氏がいた。
畿内(奈良県・京阪神)の北部を本拠地とする彼らは、武内が瀬戸内を海上交通の中心と見なしたのに対し、北ツ海(日本海)の方を重視した。
和珥氏や息長氏は日触の孫である菟道稚郎子を即位させ、北ツ海を海上交通の表玄関とするために手を結んだ。
無論、武内たちも主導権を譲り渡すつもりはなく、誉田別に意見して和珥氏や息長氏とも折衝を重ねた。
度重なる協議の末、菟道稚郎子は太子に据え置かれ、彼の即位と引き換えにその異母兄たる大山守王子と大鷦鷯が摂政になると取り決められた。
大山守王子と大鷦鷯も異母兄弟だったが、二人とも母は三輪王朝の末裔で、大山守王子は誉田別の長子に当たり、大鷦鷯は武内の孫娘である葛城磐之媛/磐之媛を妻としていた。
和珥氏や息長氏は菟道稚郎子を、武内たちは大鷦鷯を支持した。
大山守王子を支持したのはどちらにも与しない中立派だった。
取り決めでは菟道稚郎子が名目だけの大王となり、実権は大山守王子と大鷦鷯が握るとされた。
誉田別は菟道稚郎子が名ばかりといえども大王に即位することに満足した。
そして、酒色に溺れたのが災いして西暦の紀元後三九四年に頓死した。
二
誉田別の頓死を受け、日触たちは直ぐにでも菟道稚郎子を即位させようとした。
武内たちは大和政権が三九一年から百済と協同し、新羅と戦っていることを理由に挙げ、菟道稚郎子の即位はそれが済んでからにすべきであると主張した。
新羅は韓郷の東南部たる辰韓にあり、中南部である弁韓の加羅を巡って百済や大和政権と争っていた。
大王がいない状況下では大臣が最高位にあったので、武内たちの主張が通り、菟道稚郎子は太子のまま大山守王子と大鷦鷯が兄として実権を握った。
それぞれ大山守王子は東部の統治と国内の異族との交渉を、大鷦鷯は西部の統治と海外の異国との交渉を担当した。
大和政権の東部では吉野の国栖のように同じ八洲であっても風俗が大きく異なる種族が力を持っており、大王は彼らを朝貢させ、自らの威光が広く及んでいることを示した。
西部には難波があり、韓郷や震旦(中国)に通じていた。
大鷦鷯の妻たる磐之媛は実家の葛城氏が葛城(葛城地域)を地盤とし、葛城は大和政権の都がある大和国(奈良県)と難波を繋いでいたため、大鷦鷯が西部を受け持った。
それ故に東部は大山守王子が受け持つことになったのだが、本人はそれに納得が行かなかった。
そもそも、大山守王子は長子でありながらも大人になりきれておらず、自分が大王に相応しいと無邪気に信じていた。
もっとも、彼は子供っぽい男ではあったが、その勇ましさや雄々しさから人望は厚かった。
そうした大山守王子が不満を抱いているとあっては日触たちも無視できず、何らかの手を打つ必要に迫られた。
すると、宅媛が自分が大山守王子と再婚すると言い出した。
菟道稚郎子の義父となり、大王の一族たる阿毎氏の長という地位を占めるなら、大山守王子も納得するであろうと考えたからだ。
ところが、事態は予想外の方向に推移していった。
大山守王子は宅媛たちの予想を超えて単純で、阿毎氏の家長となることだけではなく、彼女との結婚を心から喜んだ。
これには宅媛も毒気を抜かれたどころか、子供っぽい大山守王子と接する内に母性愛のごとき感情が芽生えた。
大山守王子と宅媛は蒸し暑い部屋の中、汗まみれの全裸で絡み合い、性の饗宴に没頭した。
床の上で宅媛は大山守王子に跨がり、恍惚の表情で豊かな乳房を揺らし、動物の鳴くような高音の声を上げた。
大山守王子と宅媛は離れがたい仲となり、その勢力は結び付きを強固なものにするかと思われた。
ところが、これに大鷦鷯が危機感を募らせた。
大山守王子は武内たちによって摂政に推されたが、それは本命の大鷦鷯と菟道稚郎子が直接に対峙するのを避けるべく勢力を均衡させるためだった。
しかし、宅媛を介して大山守王子と菟道稚郎子が結び付くと、北ツ海を重視する和珥氏や息長氏の勢力が増し、瀬戸内を重んじる武内たちの目論見は根底から覆されかねなかった。
そこで、大鷦鷯は武内たちの意を受け、大山守王子と菟道稚郎子を離反させるべく暗躍した。
彼はまず菟道稚郎子の仕業に見せ掛け、大山守王子の館に火を放った。
火事が無事に消し止められると、大鷦鷯は密かに大山守王子と接触し、菟道稚郎子が宅媛に大山守王子を籠絡させ、大山守王子と大鷦鷯を殺そうとしていると告げた。
直情的な大山守王子は放火されて気が立っていたこともあり、大鷦鷯の密告を信じ込んでしまった。
彼は宅媛を閉じ込め、大鷦鷯が手を組もうと持ち掛けてきたのに応じ、菟道稚郎子への叛乱を起こした。
だが、大鷦鷯は菟道稚郎子に内通し、大山守王子の叛乱を報せていた。
菟道稚郎子は急いで兵を召集し、大鷦鷯からの救援も得た。
大山守王子は菟道稚郎子との戦端を開き、彼の拠点たる菟道(宇治市)を攻めるため、兵を率いて宇治川を渡ろうとした。
しかしながら、大山守王子は菟道稚郎子に逆襲されて敗戦し、その軍兵の死体が宇治川を流れ下った。
菟道稚郎子の軍は鉤の付いた竿に引っ掛けて敵兵を引き上げ、大山守王子の遺体を捜索した。
やがて大山守王子と思われる遺体が発見された。
菟道稚郎子は叛乱を無事に平定できたことに安堵したが、それから程なくして急死した。
余りにも急な死だったので、大鷦鷯による暗殺ではないかと疑われたけれども証拠は見付からなかった。
御旗である菟道稚郎子を失った和珥氏や息長氏は、武内たちの軍門に降らざるを得なかった。
日触は一族の悲願が潰えて憤死した。
そうして武内たちの援助の下、大鷦鷯が新たな大王となった。
三
大山守王子は宇治川で死んではいなかった。
菟道稚郎子の軍が発見したのは、大山守王子に良く似た者の遺体だった。
生き残った大山守王子は名を変え、甲斐国(山梨県)へと密かに落ち延びた。
彼はその逃亡に宅媛も同行させた。
大山守王子が宅媛を閉じ込めたのは、彼女を敵と見なしたからではなく、敵軍に奪還されるのを防ぐためだった。
菟道稚郎子に裏切られたと思い込んでも大山守王子は宅媛を恨んでいなかった。
それほど宅媛に惚れ込んでいたのだが、彼女にしてみれば、いきなり閉じ込められた挙げ句、甲斐国に連れ出されてわけが分からなかった。
それは大鷦鷯が宅媛の才知を恐れ、彼女には悟られぬようにことを運び、大山守王子に閉じ込めさせて動きを封じたからだった。
大鷦鷯としては謀殺したいところだったが、宅媛は普段から信頼できる者たちで身辺を固め、大山守王子も閉じ込めた彼女を厳重に警護していた。
それゆえ、逃げ延びた大山守王子は宅媛と無事に合流できた。
そうしてやっと事情を把握した宅媛は、大山守王子が大鷦鷯に嵌められたと直ぐさま悟った。
彼女は大山守王子を罵倒したが、どれだけ罵ろうとも後の祭りだった。
それに、挫折して落ち込む大山守王子を目にし、惚れた弱みから宅媛は自分が彼を支えなければと気を取り直した。
幸いいつもの大山守王子は陽気であって気前が良く、軍兵たちに人気があったので、彼らから見捨てられていなかった。
兵を率いて甲斐国にやってきた彼は、日高見(東日本)においても勇将の誉れが高かったので、現地の住民からも歓迎された。
甲斐国は三輪王朝の時代に大王の大足彦が鹽海宿祢/鹽海を派遣していた。
鹽海は甲斐国を開拓した土本毘古の子孫たる雛鶴姫を娶り、塩の自給を図るなどの事業を行った。
甲斐国は武田王も迎え入れており、彼は大足彦の息子である小碓の子だった。
そうした土地柄から大山守王子は受け入れられやすかった。
また、甲斐国など日高見は大和政権にとって混乱の種たる大山守王子を保護し、大和政権に揺さ振りを掛けようとした。
甲斐国や信濃国(長野県)には広々とした高原があり、そこでは馬が放し飼いにされていた。
日高見は大和政権に軍馬や騎兵を供給し、見返りに戦利品を分け与えられて潤った。
そして、その取り分を増やすため、大和政権からの亡命者を受け入れ、政争への介入を仄めかし、商談を有利に運ぼうとすることもあった。
誉田別が始めた新羅との戦争でも日高見から軍事援助を受けていたため、大鷦鷯も大山守王子が甲斐国に保護されたのを黙認せねばならなかった。
宅媛はそれを利用し、日高見で勢力を蓄え、大和政権に返り咲こうと知恵を絞った。
大山守王子も元気を取り戻し、出羽国(山形県・秋田県)へと出掛けていった。
目的は道奥(東北地方)の荒覇吐王国と接触することにあった。
荒覇吐王国は八洲において大和政権が未だ征服していない大国だった。
大山守王子はその力を借り、大鷦鷯に対抗しようとしたのだが、宅媛から離れたのがいけなかった。
韓郷での戦争を一段落させた大鷦鷯は、出羽国に刺客を送り込んで大山守王子を討たせた。
宅媛は大鷦鷯が本気で自分たちを潰しに来たと理解し、大山守王子との間に産まれた子供たちともども身を隠した。
大鷦鷯は大山守王子および菟道稚郎子と鼎立していた時と違い、大王に即位して武内も引退していたので、大和政権を完全に掌握していた。
やがて宅媛は大鷦鷯の放った追っ手に見付かり、大勢の男たちに甚振られて死んだが、子供たちは母の手で逃がされて子孫を残した。
註
*倭国が加羅を巡り、百済と協同して新羅と戦う:広開土王碑
*大山守王子が菟道稚郎子に敗戦するが、死なずに甲斐国へと落ち延びる:『富士宮下文書』
*鹽海宿祢が大足彦によって甲斐国に派遣され、土本毘古の子孫である雛鶴姫を娶って塩の自給を図り、甲斐国が小碓の息子たる武田王を迎え入れる:『甲斐古蹟考』
*大山守王子が出羽国で討たれる:荒井太四郎『出羽国風土記』
*大山守王子の子供たちが子孫を残す:日置神社の伝承




