淀姫
一
大和政権は大和王権を盟主とする連合政権で、大和王権の君主である大王が大和政権の君主を兼ねていた。
武内宿禰/武内は世が世なら、大王になっていたかも知れなかった。
武内の父たる武雄心は八番目の大王である国牽の孫だった。
しかし、既に大和王権の王朝は国牽ら葛城王朝から三輪王朝に交替していた。
武内が大王になることは、万に一つもなく、本人もそれを気にせずに一生を送るはずだった。
ところが、武雄心の先妻たる紀氏の山下影媛が武内を出産したのと同じ日、大王である大足彦には息子の稚足彦が産まれていた。
武雄心は大足彦の寵臣で、武内は稚足彦の友となり、双子の兄弟のようによく遊んだ。
それにより彼は自分が大王となれぬことを却って痛感させられた。
しかも、稚足彦は大王の有力な候補とされながら、その位に興味がなかった。
稚足彦の飄々たる態度が武内には持てる者の余裕に見え、尚更、彼を暗澹とさせた。
だが、武内は稚足彦と仲が良く、彼に嫉妬するのは筋違いであると考え、妬みを捨てようとして感情を押し殺した。
そして、臣下として望める地位を極めるため、危険な任務にも自ら志願した。
大和政権の支配が不安定な日高見(東日本)の調査も進んで引き受けた。
道奥(東北地方)にも命懸けで潜入し、武内が報告した情報は、大和政権が日高見へ遠征するのに役立てられた。
ただ、度重なる危険な任務は武内の心を更に荒ませた。
武内は気難しくなり、腹の底を見せようとせず、滅多に言葉を吐かなかった。
稀に口を開けば、冷たくて不気味な声で人々を恐れさせた。
それでも、彼は大王となった稚足彦から最高顧問である棟梁之臣に任じられ、地方支配の制度を整備するのに尽力した。
稚足彦は甥の足仲彦に暗殺されたが、即位した足仲彦は稚足彦の派閥が反発するのを抑えるため、武内を政界の長たる大臣に取り立てた。
しかしながら、武内の異母弟である甘美内宿禰/甘美内はそれが不満だった。
甘美内は武雄心が後妻たる葛城高千那毘売/高千那毘売との間に儲けた子で、葛城(葛城地域)に勢力を有していた。
葛城には葛城王朝の王宮が多く置かれた。
そのことが甘美内に武内と同じく三輪王朝への妬心を抱かせたが、彼は大王の下で出世する異母兄のことも妬んだ。
武内に嫉妬する甘美内は、異母兄と正反対の人間になっていった。
彼は感情を表に出さない武内と違って短気だった。
また、ことに当たる時は、自ら先頭に立って突き進み、部下からの信頼が厚かった。
裏で糸を引くのが得意な武内は周りから気味悪がられていた。
けれども、足仲彦は頭脳明晰な武内を寵愛し、彼に息長氏の淀姫を娶らせた。
淀姫の姉は足仲彦の後妻である息長足姫/息長姫だった。
顔立ちが美しい淀姫は大きく盛り上がった胸に信じられないほどの細腰、丸くて豊満な尻、長くて優雅な首、ほっそりしてしなやかな手足をしており、その肉は堅く締まっていた。
息長姫と淀姫は知識人たる巫術者でもあり、大和政権の最高学府たる伊勢太神宮(伊勢神宮)にて教育を受けていた。
淀姫は大王の妻である姉に嫉妬し、夫たる武内の地位を足仲彦に劣らぬものにしようと企んで彼に尽くした。
彼女は大きな乳房と石のように堅くなった乳首を武内に押し付け、彼の上に跨がり、喉から搾り出すがごとき狂乱の叫びを上げながら腰を振った。
そうして武内と淀姫は息子の角宿禰/角と襲津彦を儲けた。
角は紀氏に婿入りし、山下影媛の姪たる宇乃媛を義理の母とした。
武内は淀姫との結婚によって彼女の実家である息長氏と結び付き、角の婿入りにより母方の実家たる紀氏との結び付きを強めた。
息長氏は近江国(滋賀県)の豪族で、旦波国(三丹地方)の王であった道主の系譜に連なっていた。
道主は主君たる大足彦から疎まれ、中央に出仕できなくなったが、代わりに自領の開発に注力し、そのおかげで息長氏は淡海(琵琶湖)の水運網を掌握できた。
紀氏は紀伊国(和歌山県)の豪族で、交易民である海人族を配下に有し、漁撈民たる隼人とも手を結んでいた。
二
足仲彦は政変によって大王の位に即き、派閥間の対立を抱えていたので、挙国一致の親征により内部対立を解消しようと考えた。
そこで、彼は大和政権への反乱が起きていた筑紫島(九州)に進攻した。
武内は参謀として遠征軍に参加し、甘美内は外征の間、内政を担当する留守政府に抜擢され、本国である畿内(奈良県・京阪神)に残った。
息長姫と淀姫は遠征に従軍した。
諸国を回遊する巫術者は、間者として情報を収集してもおり、その元締めたる息長姫と淀姫は巫女と軍師の役割を果たした。
しかし、反乱を鎮圧している最中に足仲彦が戦死し、息長姫の立場は危ういものとなった。
留守政府には足仲彦の先妻である大中姫が産んだ香坂王と忍熊王がいた。
息長姫は彼らから足仲彦を戦死させた責任を問われかねず、淀姫としても姉が失脚すれば、自身や武内の身も危うかった。
それゆえ、足仲彦との息子たる去来紗別を妊娠していた息長姫がその子を大王とし、留守政府を黙らせられるような功勲を立てるべく遠征を続行すると、淀姫もそれに賛同した。
彼女は遠征が続行されるよう根回しし、諸国の説得に手を尽くした。
それにより豊国(福岡県東部・大分県)の秦王国さえ淀君たちに味方した。
秦王国は震旦(中国)の秦から渡来した方士たちの流れを汲み、筑紫島でかなりの権威を誇った。
そのような秦王国をも説得したので、淀君は豊姫とも呼ばれた。
そうした淀君の支えもあり、息長姫は筑紫島の反乱を鎮圧できた。
その際に彼女は韓郷(朝鮮)の百済から物品を供給されていたので、百済の要請に応じて韓郷へ出兵した。
その途中で去来紗別が夭逝し、息長姫は百済の王子である侯王の愛人になると、彼との息子たる誉田別を大王とした。
当然ながら留守政府は誉田別の即位を認めなかった。
息長姫は百済に援助され、難波から上陸して留守政府を倒した。
武内は誉田別を擁し、南海道(和歌山県・淡路島・四国地方)の南を航海して紀伊水門(新和歌浦)から上陸すると、紀氏の豊耳から支援されて息長姫に合流した。
それには日向国(宮崎県)の豪族である諸県氏が貢献していた。
諸県氏は紀氏と同様、海人族と隼人との繋がりが深く、その縁で武内に与した。
香坂王と忍熊王を滅ぼした息長姫は、誉田別を正式に即位させた。
武内は息長姫が留守政府の残党を狩るべく越国(北陸)に遠征すると、誉田別ともどもそれに同行した。
越国には品夜和気がいた。
足仲彦と息長姫の息子たる品夜和気は留守政府から身を隠し、越国に潜伏していた。
武内は品夜和気を見付け出すと、彼に大王の継承権を放棄させて誉田別に臣従させた。
それによって誉田別は去来紗別の立場を完全に引き継いだ。
だが、彼は長じるに連れて不満を募らせた。
胎児の時点から大王とされていたが、その実は傀儡に過ぎなかった。
息長姫は大和政権が百済の属国となるのを避けるため、侯王を籠絡すべく彼と爛れた生活を送り、実質的に隠居していたが、彼女を補佐した武内は未だ現役だった。
彼は和珥氏と連携し、淀川と木津川の水運網を握った。
和珥氏の祖である彦国葺は道主と同じく大足彦から疎まれ、自領の開発に注力し、同じ境遇の道主とは親しかった。
武内は淀姫に仲介してもらい、息長氏と和珥氏を繋げ、畿内と北ツ海(日本海)を結んだ。
また、彼は紀氏と諸県氏とも手を結んだことで南海道の交通路も利用できた。紀氏は吉野川と紀ノ(の)川の交通を確保していた。そうして武内は南北経路を専掌し、大和政権の対外交渉を主導した。
三輪王朝の血を引かない誉田別は、韓郷や震旦から八洲(本州・四国・九州)の土着民たる倭人の王と認められることで君臨できた。
それは裏を返せば、外交が上手く行かないと、たちまち正統性を失うということだった。
そのことから誉田別は外交を主導する武内に首根っこを押さえられていると言えた。
誉田別にはそれが不満で、そこに甘美内が付け入った。
甘美内は留守政府にいながら、誉田別を即位させるべく暗躍していた。
それによって彼は留守政府が敗北して以後も、一定の影響力を保てていた。
三
甘美内は誉田別に武内への讒言を行った。
武内が大王の地位を狙っていると誉田別に吹き込んだのだ。
誉田別は甘美内の讒言を信じ、西海道(九州地方)の巡察を名目に武内を筑紫島に左遷した。
更に甘美内は武内が筑紫島で謀叛を計画していると密告し、誉田別は武内を誅殺すべく筑紫島に兵を差し向けた。
しかし、武内の甥である真根子が囮になり、伯父を韓郷に逃亡させた。
真根子はかつて息長姫による韓郷への遠征に加わり、その頃から武内を警護していた。
淀姫は誉田別に武内の無実を訴えるも取り合ってもらえず、息長姫も侯王との荒淫が祟り、愛人ともども既に世を去っていた。
そこで、彼女は甘美内に額ずき、武内の命ばかりは助けてほしいと乞うた。
甘美内はあれほど羨んだ異母兄の嫁が跪いているのに歓喜し、自身に体を売るなら、異母兄の助命を誉田別に嘆願するのも吝かではないと約束した。
淀姫はその取り引きに応じた。
野心のためとは言え、武内に尽くしている内、彼女は本気で夫に身を献げるようになっていた。
甘美内は武内を侮辱するだけではなく、美しい兄嫁を慰みに用いることにも興奮を覚えた。
彼は淀姫を裸に剥き、首に巻いた革紐を引っ張りながら、四つん這いの彼女を後ろから激しく突き上げた。
屋敷の厩に放り込まれた淀姫は、甘美内との娘たる摩伊刀比売と伊呂比売を産んだ。
妻が獣のように飼われている間、武内は任那に身を寄せ、伽耶にいる木羅斤資と接触した。
任那は倭人の居留地で、韓郷の中南部である弁韓にあり、伽耶も弁韓の一部だった。
木羅斤資は百済の貴族で、伽耶の諸国が連合した加羅に進駐し、百済がそこに権益を保護していた。
武内は自分の復帰を支援しなければ、誉田別は百済からの自立も志向し、百済は八洲(本州・四国・九州)における権益を失うと訴え、木羅斤資に支援を約束させた。
百済が息長姫を援助して獲得した権益を守るため、木羅斤資は木満致を代理とし、大和政権に使節団を派遣した。
木満致は木羅斤資が新羅を討った時、新羅の女性を娶って産ませた息子で、新羅は百済が韓郷の西南部たる馬韓に位置しているのに対し、東南部である辰韓にあった。
木満致は父に討たれた新羅の女性を母とするため、後ろ指を指されぬよう優秀たらんとする一方、孤独に苦しめられてそれを紛らわそうとするかのごとく女癖が悪かった。
武内は木満致に随行し、誉田別の下に辿り着いた。
使節団の一員である武内に危害を加えれば、百済と戦争になりかねなかったので、流石の甘美内も手出しできなかった。
それに、甘美内は淀姫に溺れ、武内が不在の宮中を取り仕切れていなかった。
誉田別も有能な大臣たる武内を欠いた途端、国家の舵取りが上手く行かなくなり、弱気になっていた。
それ故に誉田別は甘美内を斬り捨て、武内は無実であったとして彼を復帰させた。
甘美内は誣告の罪で奴隷に落とされ、今度は己が死ぬまで獣のように扱われた。
武内は甘美内が葛城に有していた支配権を手中に収め、それを襲津彦に継承させた。
襲津彦は葛城氏に婿入りし、葛比売を義理の母とした。
そうして武内は葛城氏の掌握する大和川の水運や難波と住吉(住吉区)の港を抑え、吉備氏や尾張氏とも結び、瀬戸内や日高見にも手を伸ばした。
東西南北の海上交通網を握った彼は、実際において大王を超える地位を占め、平群氏や巨勢氏などの有力な豪族を子分とした。
だが、野望が成就しても武内は虚しさに襲われ、引退して淀姫と諸国を旅した。
武内も献身的な妻を心から愛するようになっていた。
肥前(佐賀県・長崎県)において淀姫が亡くなると、生きる気力を無くした武内は、人知れず因幡国で自ら命を絶ち、行方知れずとして処理された。
武内が密かに親近感を抱いていた木満致は、百済の権臣となり、宮廷内で相当な権勢を振るったが、王の母と通じて国外追放になった。
彼は大和政権に亡命すると、武内の伝手を頼り、蘇我氏に婿入りして名も蘇我満智/満智と改め、倭人として余生を過ごした。
註
*息長姫の妹が淀姫または豊姫とされる:『肥前国風土記』
*淀姫が武内に娶られ、肥前において亡くなる:與止日女神社の伝承
*角が紀氏の宇乃媛を、襲津彦が葛城氏の葛比売を母とする:『紀氏家牒』
*豊姫が豊国を味方させる:豊比咩神社の伝承
*真根子が息長姫による韓郷への遠征に加わる:『松尾社家系図』
*武内が因幡国において行方知れずになったとされる:『因幡国風土記』
*木満致が木羅斤資が娶った新羅の女性から産まれ、百済の王母と通じて大和政権に亡命する:『百済記』