卑弥呼
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一
西暦の紀元後一七〇年頃から一八〇年頃、八洲(本州・四国・九州)は百余りの小さい国々に分かれ、筑紫島(九州)の北部は三十ほどの都市国家が互いに争い合い、大いに乱れていた。
そこは近接する震旦(中国)の商人たちが海湾に面した地域に植民し、数多くの都市国家を作っていた。
それらは交易に有利な位置を占め、経済的に富強となり、土着の倭人たちを支配した。
しかし、それらの交易国家は陸地に基盤を持たなかったので、交易民の生活を支えるため、倭人たちが後背地で米などの食糧を作り、その生産力を基盤として幾つも都市国家を作り上げた。
それらの農業国がやがて交易国家よりも強大な経済力を握るようになると、交易民の支配に反旗を翻し、絶えず戦いが繰り返された。
これでは共倒れになってしまいかねなかったので、各国の王たちが集まって相談し、平和を祈る祭の間、同盟を結んで休戦することにした。
王たちは一時的な休戦を恒常化させるため、国々の同盟を一つの大きな連合国に発展させた。
連合国は女王国と称したが、それは倭人が神々の女王と崇める天照に平和を祈ったからだ。
震旦から渡来した交易民も、既に八洲へ土着して海人族と呼ばれ、倭人と信仰を同じくしていた。
それゆえ、交易国家の諸王たちも農業国の王たちと同様、天照を祀る巫女が女王国に君臨するのを受け入れた。
天照は太陽の女神であるため、女王国の君主たる巫女は日に向かって祈り、そのことから俾弥呼(日向)と称され、山門県(山門郡)の邪馬台国から輩出された。
山門県には鬼神道という巫術者の養成所があった。
そこは震旦の方士である徐福が倭人の巫術者たちと協力して創設し、方士と巫術者の信仰たる鬼神と神道を組み合わせて鬼神道と命名され、徐福の没後も倭人らに方術や巫術を教えていた。
そのような鬼神道を守るために作り上げられたのが邪馬台国だった。
山門県には広大肥沃な平野があり、それを鬼神道に助言されながら開発した邪馬台国は、筑紫島の北部で最も豊かであって人口が多かった。
また、鬼神道の巫術者たちを各国に遣わし、彼らは役に立つことを教え、暮らしを助けることで邪馬台国の影響力を高めた。
そうして邪馬台国は女王国の実質的な覇者となり、俾弥呼は邪馬台国の王女から選ばれた。
邪馬台国は王女を鬼神道の巫女にしており、俾弥呼は邪馬台国の覇権を鬼道と神道によって権威付けた。
諸王は邪馬台国の王ではなく、天照の依り代である俾弥呼に臣従することで面子を保ちながら、連合国を組織したことによる恩恵を享受した。
初代の俾弥呼たる卑弥乎(姫子)は韓郷(朝鮮)の東南部である辰韓の斯蘆国に使者を遣わして関係を修復し、韓郷の中南部たる弁韓の鉄を安定して入手できるようにした。
斯蘆国は辰韓で最大の都市国家で、飢饉などによって韓郷へ逃れてきた倭人の難民たちに悩まされており、八洲との関係が悪化していた。
これでは弁韓の鉄を入手するのに支障を来すため、一七三年から関係の修復が試みられるも上手く行かなかった。
だが、女王国を構成する諸国が一丸となり、韓郷の倭人を取り締まると、交渉は一気に進んだ。
そのようにして入手した鉄を卑弥乎は諸王に分配し、女王国にどれほど貢献しているかで分配に差を付け、諸王に忠誠を競わせた。
彼女は巫女として方術や巫術を学び、王女として政治的な教養を育んでいた。
決して傀儡ではなく、寧ろ邪馬台国の王を差し置き、俾弥呼を名実ともに女王国の頂点に立てようとした。
そのために卑弥乎は王女の卑弥呼(日巫女)を後継ぎとして養女に迎えた。
卑弥呼は幼くして目から鼻へ抜けるような利発さを示し、卑弥乎はその将来に大きな期待を懸けていた。
卑弥乎には倭人で唯一の知識層である巫術者にして王女たる誇りがあった。
彼女は名実ともに女王国の頂点となる夢を卑弥呼に託した。
二
卑弥乎が世を去ると、彼女から推挙されていた卑弥呼が即位し、二代目の俾弥呼となった。
小さい頃から美しい顔立ちをしていた卑弥呼は、﨟長けた麗人に成長したが、目元が涼しい割りに口元は猥雑だった。
俾弥呼になるべく育てられたからか、自尊心が強くて気性も荒かった。
卑弥呼の弟である男弟はそのような姉に萎縮させられているかのごとく如何にも弱々しかった。
男弟も邪馬台国の王に即位したが、姉の言うがままだった。
そうなるよう卑弥乎が仕向けたところもあったが、男弟は姉を心から崇拝していた。
女王国は連合した諸国の統治をそれぞれの王たちに委ね、彼らを監視するために代官を派遣し、都市という官人に諸国の市場を監督させてもいた。
更に代官たちは一大率、都市たちは大倭なる大夫に統監されていた。
大夫とは重臣のことで、豪族たちから任命されており、王と豪族は大人、庶民は下戸と呼ばれた。
卑弥呼は養母たる卑弥乎の教えを余すところなく受け継ぎ、一大率や大倭を駆使するだけではなく、鬼神道が各地に遣わした巫術者たちも間者として用いた。
そうして彼女は俾弥呼を名実ともに女王国の頂点へ押し上げた。
男弟はそのような姉を女神のごとく崇め、卑弥呼も弟を愛しく思った。
気が強い卑弥呼は色恋沙汰にも物怖じせず、寧ろ興味津々ではあったのだが、格下の者に身を委ねるのは自尊心が許さなかった。
自身を特別であると信じる卑弥呼が同格と認めるのは、血を分けた男弟のみで、恋人を求める卑弥呼の気持ちは男弟に集中した。
やがて卑弥呼は男弟に媚態を示すようになり、身に着けていた衣服を脱ぎ捨て、豊かな胸乳を露わにした。
彼女は自分から弟の首に腕を巻き付けて唇も押し付け、怒張している彼のものに手を掛けた。
男弟は自制の心を失い、卑弥呼を抱き締めて押し倒すと、獣のように挑み掛かって姉との近親相姦を遂げた。
邪馬台国の王たる男弟を介し、諸王を従えた卑弥呼は、海外に目を転じると、二三八年に華北の魏へ使節団を遣わした。
魏は江南の呉と四川の蜀ともども震旦を三分しており、韓郷の北西部や粛慎(満洲)を支配する公孫氏とも対立していた。
卑弥呼は魏が公孫氏の打倒に乗り出すと、韓郷の倭人たちに公孫氏の情報を収集させ、それを魏に垂れ込んだ。
正使の難斗米と副使の牛利に率いられた使節団は、命の危険も顧みず、魏の都である洛陽(洛陽市)に辿り着いた。
戦場となった韓郷を駆け抜けたので、使節団の貢納品は十人の奴隷と木綿の布だけだったが、魏は卑弥呼の朝貢を喜び、彼女を倭人の王と認めて金印紫綬を授けた。
その待遇は大月氏国(クシャーナ朝)の皇帝たる波調(ヴァースデーヴァ)に匹敵した。
また、魏は百枚の銅鏡や錦、金、鉛丹など沢山の珍奇な品物も下賜し、難斗米と牛利にも官職を与えた。
難斗米は儺県(博多区)の奴国出身の大夫、牛利は松浦(松浦郡)の末盧国出身の都市だった。
女王国は邪馬台国出身の大人でなくとも大夫に任じた。
それにより邪馬台国以外での優れた人材にも女王国に忠誠を誓わせようとにしたのだ。
二四〇年、卑弥呼が倭王たることを示す詔書や印綬を携え、魏の使者が女王国にやってきた。
女王国はまずは伊覩県(怡土郡)の伊都国で一大率に使者の応対をさせた。
伊都国は女王国の内外を中継するところだったので、一大率もそこに駐在して諸国に睨みを利かせていた。
使者は一大率によって邪馬台国へ送られた。
邪馬台国に宮殿を構える卑弥呼は、そこに鬼神道を移し、身の回りに千人の巫女を仕えさせ、一人の巫覡を秘書にしていた。
魏から倭王と認められた彼女は、使者から受け取った賜品を諸王に分け与え、大いにその権威を高めた。
すると、民衆は卑弥呼を天照の代理人どころか、女神そのものたる現人神であるかのごとく讃えるようになった。
卑弥呼は更に自尊心を強め、自分ならば筑紫島の南部も併合できると信じ、女王国に加盟するよう熊襲(熊本県・鹿児島県)の狗奴国へ要求した。
しかし、その要求は一蹴され、卑弥呼は狗奴国と交戦することにした。
狗奴国は隼人の領域国家だった。
隼人とは八洲に土着した夷洲(台湾)や亶洲(沖縄県)からの移民で、筑紫島の北部よりも厳しい自然を相手に生きており、平素から戦闘的に訓練されていた。
そのような隼人を統率する王は、強大な軍事力で都市国家よりも広い領域を専制的に支配し、卑弥呼の権威など意に介さなかった。
そうした諸王はそういった狗奴国と抗争することに反対したが、卑弥呼が聞き入れることはなかった。
無論、男弟は姉の意見に躊躇うことなく賛成した。
そうして女王国は狗奴国との戦端を開いた。
三
難斗米も女王国が狗奴国と戦うことに不満があった。
しかし、難斗米の不満はそれだけではなかった。
魏に派遣された難斗米は、洛陽で八洲よりも遙かに進んだ震旦の文明を見ていた。
そのような難斗米にしてみれば、巫女を君主とする女王国は野蛮で、遅れているように思えた。
奴国の王族である難斗米は八洲に土着した震旦からの移民たる海人族で、八洲で最も文明に理解があると自負していた。
かつては難斗米も卑弥呼の才知に惚れ込んでいたが、今となっては軽蔑するばかりだった。
二四三年に卑弥呼は奴隷や錦の布を魏に贈り、狗奴国との紛争で後ろ盾になってくれるよう求めた。
二四七年には難斗米たちを遣わし、魏に派兵を要請した。狗奴国は極めて強力で、女王国は負け続けていた。
難斗米は卑弥呼に幻滅し、敬愛は敵意に転じた。
卑弥呼は難斗米にとって女王国を腐らせる毒婦となっていた。
倭王と認められて自尊心が強まった彼女は、自らも己を現人神と信じ、男弟との近親相姦を大っぴらに行った。
これまでは卑弥呼と男弟の近親相姦を難斗米は彼らが神々に等しい存在であるからと黙認してきたのだが、彼女を見限ってからは禽獣の所業としか感じられなかった。
魏も卑弥呼を見捨てた。
南部の併合に失敗して筑紫島を混乱させた倭王など要らなかった。
奴国王を覚えていた魏は、その末裔たる難斗米を新たな倭王に任命すると、皇帝が権限を与えた印である黄幢を授けた。
黄幢は魏の色たる黄色に染められた旗で、難斗米は魏の使者である張政を伴って帰国した。
張政は難斗米を倭王とする詔書だけでなく、卑弥呼を弾劾する檄文ももたらした。
諸王は望まぬ戦争での連敗に厭いており、魏が卑弥呼を廃することに抵抗しなかった。
二四八年、卑弥呼は男弟に抱かれているところを襲われ、姉弟ともども青銅の矛で何度も刺し貫かれて絶命した。
武官たる張政は魏の軍も引き連れており、その武力を背景に女王国と狗奴国を停戦させ、難斗米を正式に即位させた。
卑弥呼の残滓を拭い去るため、難斗米は彼女の墓を敢えて作ると、殉葬と称して鬼神道の巫術者たちを生き埋めにした。
彼は女王国を文明化すべく宮廷で倭人の服装や言語を使用することを禁止し、習俗を震旦の漢人に合わせるよう強制した。
だが、その政策に牛利が異議を唱えた。
かつて難斗米と一緒に震旦を訪問した牛利は、その後も彼と行動を共にし、卑弥呼への謀叛にも賛同していた。
しかしながら、震旦に滞在した経験は、難斗米に震旦の文明を絶対視させたが、牛利には八洲と震旦の双方を相対化させた。
海商であったために牛利は使節や都市に任じられてきたが、海を渡って見聞を広めると、世界には多様な人々がいることが分かり、一つのやり方がどこでもそのまま通用するものではなかった。
彼は難斗米に政策を撤回するよう求めた。
けれども、難斗米は牛利を叛逆者として処刑した。
そうまでして彼は政策を推し進めたが、却って反発を激化させ、遂には諸王が叛乱を起こした。
諸王は難斗米を非難したが、彼を擁立した魏のことは責めなかった。
そこに張政は活路を見出した。
既に張政も難斗米を見放しており、魏の面子を保つ形で女王国の君主を交代させたかった。
張政は官位が低いにもかかわらず、女王国への使者に抜擢されるほどのやり手だった。
彼は邪馬台国に進駐させていた魏の軍を蹶起させ、難斗米を捕らえて諸王の前に突き出した。
震旦の文明に憧れた難斗米だったが、張政は彼を多少は開化した蛮族としか見ていなかった。
諸王は難斗米を天照への生け贄に捧げ、平和が蘇ることを祈った。
註
*八洲が百余りの小さい国々に分かれる:班固『漢書』
*女王国に俾弥呼が君臨する:陳寿『三国志』
*卑弥乎が斯蘆国に使者を遣わす:金富軾『三国史記』
*卑弥呼が鬼神道の巫女とされる:范曄『後漢書』