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ヤマト奇談集  作者: flat face
三輪王朝
19/20

忍熊王


   一


 (たらし)(なかつ)(ひこ)は叔父の(わか)(たらし)(ひこ)を倒し、大和(やまと)(せい)(けん)の君主である(おお)(きみ)となったため、稚足彦を支持していた派閥と対立した。

 そこで、彼は内部対立を解消すべく挙国一致の親征を企てた。

 遠征先は大和政権に対する反乱が起きていた(つく)(しの)(しま)(九州)で、そこは大和政権の本国たる畿内(うちつくに)(奈良県・京阪神)から遠く離れていた。


 外征の最中も内政を疎かには出来ず、畿内には留守政府が置かれた。

 その代表は足仲彦の息子である(かご)(さかの)(みこ)(おし)(くまの)(みこ)の兄弟だった。

 二人の母は足仲彦の先妻たる(おお)(なかつ)(ひめ)で、彼女は夫の遠縁でもあったが、既に亡くなっていた。


 足仲彦は後妻として(おき)(なが)(たらし)(ひめ)(おき)(なが)(ひめ)を迎え入れた。

 息長姫は足仲彦との間に息子である(ほむ)()()()を儲け、自ら遠征する夫に同行し、(つぬ)鹿()(敦賀市)から筑紫島に渡海した。

 まだ幼い品夜和気は角鹿に残った。


 香坂王と忍熊王も若くはあったが、香坂王は内政に才があり、それを磨く努力も怠らなかったので、留守政府にて期待の新星と目された。

 忍熊王も祖父たる()(うす)の血を色濃く受け継いでいた。

 小碓は足仲彦の父にして両性具有者の英雄で、乙女のように愛らしくいながら、益荒男のごとき怪力を誇って(あら)(ひと)(がみ)のように崇められた。


 忍熊王は両性具有者でこそなかったが、胸が膨らんでおり、乙女のごとく愛らしい美少年だった。

 すっきり整った顔立ちや体付きが魅力的で、小振りな乳房も艶めかしかった。

 子供の姿で体の成長が止まったにもかかわらず、益荒男のような怪力の持ち主だった。


 彼は弱輩の身で(こしの)(くに)(北陸)に遠征し、小碓の伯父たる五十()()(しき)の神剣を掲げ、賊徒の討伐に当たって無事に平定した。

 その際に同行したのが忍熊王の(もり)(やく)である五十()()(ちの)宿(すく)()五十()()()だった。

 五十狭茅は()(さしの)(くに)(東京都・埼玉県)の豪族で、稚足彦の派閥に属していたが、融和のために忍熊王の傅役となった。


 忍熊王の傅役となった五十狭茅は、相撲や乗馬で忍熊王を鍛え上げた。

 五十狭茅の教育は王子といえども手加減せず、それでいて親身に指導したので、忍熊王は五十狭茅を慕うようになった。

 大柄な体型の将軍たる五十狭茅は子供の姿で成長が止まった忍熊王にとってそうありたかった存在で、五十狭茅に対する忍熊王の慕情は、恋情に変わっていった。


 そうして忍熊王は五十狭茅を誘惑するようになった。

 彼は己の美しい容姿を自覚しており、五十狭茅に滴るような微笑みを向け、くすくすと笑いながら抱き付きもした。

 憧れの男に愛されたい忍熊王は、誘惑を繰り返す内に寵童としての才能を開花させていった。


 抗えなくなった五十狭茅は、忍熊王と男色を行うようになった。

 五十狭茅は胸の上に乗り掛かってきた忍熊王が口付けを求めると、彼の甘い唇を啄んだ。

 忍熊王は嬉しそうに体を開き、五十狭茅に組み敷かれて手足を絡ませた。


 彼は嬌声を上げ、腰を掴み絞めるがごとく五十狭茅のにしがみつき、皮膚と筋肉に爪を立てた。

 五十狭茅は忍熊王の膝と股を一杯に広げ、躙るように動きながら徐々に挿入を深めていった。

 忍熊王は頭ごと引き寄せられて口に舌をねじ込まれたばかりか、反り返った胸も愛撫され、快感の余り鹿のように跳ねて射精した。


 五十狭茅と仲を深めたことで彼は稚足彦の派閥とも懇意になった。

 香坂王も稚足彦と同じく内政に長けていたからか、彼の派閥と親しかった。

 忍熊王の方が英雄たる祖父に似ていたので、香坂王は兄であっても傲ることはなく、それでいて稚足彦の派閥から評価されたため、卑屈になることもなかった。


 そのように人の出来た香坂王には忍熊王も甘え、自分は気儘な次男坊でいた。

 香坂王も甘え上手の忍熊王を可愛がり、弟の恋人たる五十狭茅とも親密になった。

 こうして留守政府における足仲彦と稚足彦の派閥は融和していった。


 遠征軍の方でも共に遠征することを通し、両派の融和が進んだ。

 ところが、今度は留守政府と遠征軍の間において対立が生じた。

 その原因となったのは、他ならぬ足仲彦の親征だった。


   二


 留守政府の役目は内政だけではなかった。

 遠征軍の外征への後方支援も留守政府の役目だった。

 しかし、全国から動員された遠征軍への後方支援は重い負担となり、留守政府にのし掛かっていた。


 そこに対立の芽が生じ、遠征の長期化で大きく育っていった。

 遠征軍にしてみれば、自分たちが戦場で命を張っているにもかかわらず、留守政府は安全圏で不満を垂れているばかりだった。

 他方の留守政府からすれば、遠征軍は野放図に戦線を拡大し、国を疲弊させていた。


 それでも、足仲彦の親征が続いている間は、双方ともまだ我慢できた。

 ところが、足仲彦が戦死して息長姫が遠征の続行を決定すると、留守政府と遠征軍の対立は決定的なものになった。

 対立の融和に努めた大王の親征であるからこそ留守政府も負担に我慢した。


 だが、足仲彦の子供たる()()()(わけ)を孕んでいた息長姫は、その子を大王に据え、親征を続けようとした。

 大和政権は長期化した遠征で疲弊しており、留守政府には最低限の軍しか残されていなかったので、治安の維持もままならず、()()(うち)では海賊が跋扈して後方支援にさえ支障を来していた。

 しかしながら、遠征軍は留守政府から抗議されても足仲彦の弔い合戦を邪魔するものとしか受け取らなかった。


 また、留守政府と遠征軍の対立を煽り立てる者もいた。

 足仲彦の甥である(くら)()(わけ)がそうだった。

 倉見別の父は足仲彦の兄たる(いな)(より)(わけ)で、稲依別は足仲彦ほど支持されなくて即位できず、愛犬の()(いし)(まる)を斬り殺すなど荒んだ生活を送り、失意の内に亡くなった。


 そうした父の無念を忘れず、倉見別は足仲彦よりも稚足彦の派閥に接近し、彼らに近い留守政府を支持した。

 もっとも、留守政府に心から帰属しているわけではなく、飽く迄も足仲彦への意趣返しが目的で、彼が率いる遠征軍を敵視していた。

 それゆえ、倉見別は香坂王と忍熊王を補佐しつつ、その裏で留守政府と遠征軍の対立を煽った。


 彼は治安の悪化を口実にわざと補給を滞らせ、相手を挑発するだけではなく、隠匿した物資を自軍の増強に流用した。

 それには留守政府に属する稚足彦の派閥も、一部の者が手を貸した。

 彼らは稚足彦の派閥で留守政府を牛耳らんとしていた。


 また、倉見別は息長姫が香坂王と忍熊王を退け、胎中の我が子を大王にしようと謀っていると宣伝した。

 香坂王か忍熊王を次の大王と考えていた留守政府は、倉見別の宣伝にまんまと乗せられ、遠征軍への敵愾心を募らせていった。

 足仲彦を失った上、補給も滞っているため、遠征軍が自壊するのは時間の問題で、勝機は十分にあると思われたが、息長姫は倉見別たちの予想を遙かに上回っていた。


 彼女は兵員の提供と引き換えに(から)(くに)(朝鮮)の百済(くだら)から鉄資源や武器を供給され、留守政府が滞らせた補給を補った。

 しかも、百済の王子たる(こう)(おう)の愛人となった。

 そして、夭逝した去来紗別に代わり、侯王との子である(ほむ)()(わけ)を大王とした。


 それにより誉田別は百済を介し、(しん)(たん)(中国)の(とう)(しん)から()(しま)(本州・四国・九州)の土着民たる()(じん)の暫定的な王と認められた。

 知識人たる巫女でもあった息長姫は、東晋の権威を利用し、大義名分を手に入れた。

 そもそも、連合政権の大和政権において盟主の地位にある大和(やまと)(おう)(けん)は、大王が(すめら)(みこと)が神から預かった勅言に従い、天下を統べる(すめら)(みち)の思想を国是としていた。


 その天下は震旦にまで及ぶはずだから、東晋にも認められた誉田別こそ大王に相応しいと息長姫は主張した。

 更に彼女は易姓革命の理論さえ持ち出した。

 震旦では天からの命を受け、国を治める王朝がそれに足る徳を失えば、天命が(あらたま)まって別の姓を冠した一族が国を治めるとされていた。


 こうした易姓革命の理論によって息長姫は誉田別の即位を正統化した。

 震旦から()(おう)と認められた誉田別は、たとえどのような血筋であっても大王となって然るべき徳の持ち主だった。

 誉田別と比べれば他の人間は徳が不足しており、不徳の者と言えた。


 そして、誉田別は震旦の(あや)(ひと)のごとく()(せい)を称して()とも呼ばれた。

 それは新姓を付け加えるという形での易姓革命だった。

 百済の援助で筑紫島の反乱を鎮圧した息長姫は、留守政府にも誉田別を大王と認めるよう通達し、この義母の振る舞いには香坂王と忍熊王も怒りを覚えた。


 亡夫の喪も明けぬのに、他の男との間に儲けた子を勝手に即位させるなど許しがたかった。

 留守政府は軍を解散して出頭するよう息長姫に命じた。

 息長姫は留守政府の命令を無視し、畿内に向かって進軍した。


   三


 息長姫は軍を二手に分けた。

 一方は息長姫が自ら率いて()()(うち)を進ませ、もう片方は誉田別を擁し、南海(みなみの)(みち)(和歌山県・淡路島・四国地方)を回って(はや)()の兵を募った。

 漁撈民の隼人は筑紫島の南部から(くろ)(しお)の流れに乗り、南海道や東海(うみつ)(みち)(東海地方・関東地方)に移住していた。


 隼人の祖先は初代の大王たる狭野が日向(ひゆうがの)(くに)(宮崎県)から東征するのに協力した。

 息長姫の軍はその故事を持ち出し、狭野の先妻が隼人の()(ひら)()(ひめ)であったことも挙げ、好待遇を約束することで隼人の協力を取り付けた。

 自身の進軍を狭野の東征と重ね合わせる息長姫は、兵たちに()()(うた)を歌わせた。


 久米歌は()()()という集団の歌で、彼らは大王の親征ではその先鋒を担い、狭野の東征でも活躍した。

 そうした久米部が歌う久米歌は、英雄についての叙事詩だった。

 英雄とは建国の精神を体現する存在で、久米歌においては皇道が建国の精神に当たった。


 もっとも、皇道は皇尊が神から預かった勅言で、大王はそれを代行する()(こと)()ちの一人に過ぎなかった。

 それゆえ、久米歌では御言持ちたちそのものが「(われ)」として主役に据えられ、狭野はその理念を象徴するだけの散文的な英雄とされた。

 また、息長姫は自身の前夫が小碓の息子であることも強調した。


 小碓は父親の大王から良いように利用されて戦場で果てた。

 それは大和政権から冷遇され、その建国の精神に疎外されたように感じる者たちを感動させた。

 そうした浪漫的な英雄たる小碓を前面に押し立て、息長姫は隼人の共感を誘った。


 隼人は狭野の東征に協力したが、後に叛乱を起こし、待遇が悪化していた。

 彼らは息長姫の約束を信じて彼女に与した。

 隼人にとって息長姫が侯王の愛人で、誉田別が不義の子であることも問題ではなく、香坂王や忍熊王は小碓の血を引いてはいるが、その魂は受け継いでいないとされた。


 留守政府は息長姫を売国奴と非難し、このままでは大和政権が百済の属国になると訴えた。

 彼らは百済と組んだ息長姫に対抗し、(みち)(のく)(東北地方)の(あら)()(ばき)(おう)(こく)と結んだ。

 そして、(あか)(しの)(おお)()(明石海峡)で息長姫を待ち受けた。


 息長姫は海賊のいる瀬戸内を進軍するので、明石大門に至る頃には賊との戦いで消耗しているはずだった。

 そこを叩くのが留守政府の狙いだった。

 ところが、明石大門で待ち受けている間、香坂王が訓練も兼ねた狩りの最中に急死した。


 それは猪に変装した刺客による暗殺だったが、留守政府は息長姫の差し金と気付かず、事件は事故として処理された。

 彼らは香坂王の急死により足並みが乱れ、軍を(すみ)(よし)(住吉区)に撤退させた。

 息長姫は海賊との戦いで誉田別が死に、自身もそれを嘆いて自死したとの虚報を流した。


 その虚報を信じた留守政府の軍は、誉田別と息長姫の喪船を受け入れたが、その船には兵士たちが隠れていた。

 留守政府の軍は不意を打たれて敗走し、住吉から()()(宇治市)に退いた。

 そこで陣を立て直した彼らは、(くま)()(こり)という将軍の奮闘もあり、息長姫も攻め倦ねて和睦を提案した。


 二手に分かれた息長姫の軍は、既に合流していた。

 留守政府は住吉での敗北で離反者が相次いでいたため、劣勢を覆す展望を描けず、和睦を受け入れることにした。

 しかし、息長姫が和睦のため、敵陣に派遣した使者たちは、武器を隠し持っており、外の友軍と呼応して敵を撃ち破った。


 忍熊王と五十狭茅は敗走するも捕まり、縛られたまま兵士たちに凌辱され、屍となって()()(がわ)に捨てられた。

 倉見別は道奥まで逃げ延び、荒覇吐王国から援軍を借りると、再び息長姫に挑んだ。

 だが、息長姫は倉見別を返り討ちにすると、道奥に遠征して荒覇吐王国と和睦した。



   註


*忍熊王が越国に遠征し、五十瓊敷の神剣を掲げ、賊徒の討伐に当たって無事に平定する:劔神社の伝承

*稲依別が愛犬の小石丸を斬り殺す:犬上神社の伝承


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