息長姫
一
大和政権が筑紫島(九州)の北部と道奥(東北)を除き、八洲(本州・四国・九州)の殆どを支配するようになった時、大和王権を盟主とするその連合政権には二つの選択肢があった。
外征を控えて内政に注力し、拡大した版図の支配を安定させるか。
それとも、戦勝の余勢を駆り、更なる遠征で版図をより拡大させるか。
君主である大王の大足彦は前者を選び、息子の一人たる稚足彦を太子とした。
稚足彦は内政に長け、過労で崩じた大足彦の後を継ぐと、国郡と県邑にそれぞれ造長と稲置を設置し、国県制を施行して地方支配を整備した。
服属した地方の王は造長、豪族は稲置としてそれまでの支配を許され、武力で征服した地域は、大和政権の王族が分封された。
しかし、稚足彦は地方支配の制度を整備するに当たり、支配の維持が困難な征服地は放棄した。
これが反発を招き、特に足仲彦の派閥は猛反発した。
足仲彦の父は稚足彦の異母兄にして征服戦争の英雄である小碓だった。
小碓は既に故人だったが、その人気は根強く、彼の遺児である足仲彦が担ぎ出されるほどだった。
稚足彦は足仲彦を太子に指名し、対立の解消を図ったが、結局、足仲彦の派閥が政変を起こして稚足彦を暗殺した。
そうして足仲彦は大王となったが、当然ながら稚足彦の派閥から反感を買っており、彼も対立の解消に尽力せねばならなかった。
それに対して足仲彦が打ち出した方針は、挙国一致で筑紫島の北部に自ら遠征することだった。
足仲彦の派閥は内政よりも外征で版図を拡大させたいと考えていた。
彼らに担ぎ出された足仲彦も、父たる小碓のごとく征服戦争の英雄となるのが夢だった。
小碓は男女の精気を一身に具有した両性具有者であって乙女のように愛らしく、それでいて益荒男のごとき怪力の持ち主で、現人神ではないかと思われてもいた。
大足彦は小碓のような両性具有者の英雄が産まれないかと考え、彼に男女と子作りさせた。
小碓は女性に種付けし、男性に子種を仕込まれた。
女性からは両道姫や吉備武媛/武媛が小碓の妻になった。両道姫は大王の一族たる阿毎氏の傍流で、足仲彦は彼女から産まれた。
武媛は吉備氏の出身で、その一族は小碓を支持する派閥だった。
男性からは久米七拳脛/七拳脛が小碓の夫になった。
七拳脛の一族である久米氏は大王の親征では先鋒を担い、忠義に篤いことで知られた。
だが、いずれの男女からも小碓のごとき両性具有者の英雄は産まれなかった。
七拳脛との息子たる田別王に至っては近江国(滋賀県)の豪族である息長氏の養子に出された。
父のようには産まれなかったことに足仲彦は劣等感を抱いて神経質になり、異母弟の蒲見別は小碓をどう弔うかで彼と揉めて殺された。
足仲彦は小碓の顕彰に努め、自分が彼の息子たることを強調し、父のごとき英雄となれる機会を探していた。
そして、筑紫島で反乱が起きると、足仲彦はその鎮圧を口実とし、筑紫島への親征を計画した。
足仲彦の派閥もその計画を支持した。
対立する派閥も親征に参加させることで連帯感が育まれると期待された。
稚足彦の最高顧問であった棟梁之臣の武内宿禰/武内は政界の長たる大臣に、有力な豪族である中臣烏賊津・三輪大友主・物部胆咋・大伴武以は四人の重臣たる四大夫になった。
また、足仲彦は稚足彦によって整備された地方支配の機構を活用し、全国の兵を動員した。
日高見(東日本)の豪族からは千熊長彦や荒田別、鹿我別らが親征に従軍していた。
それらの軍事動員を足仲彦は近江国の王宮にいながら行った。
近江国は淡海(琵琶湖)の水運を通じ、日高見や越国(北陸)と結び付いていた。
越国の角鹿(敦賀市)も出雲国(島根県東部)や長門国(山口県西部)と水運で結ばれており、筑紫島に進出するための基地とするのに打って付けだった。
足仲彦は後妻である息長足姫/息長姫を伴って角鹿に赴き、その地に行宮を建てた。
息長姫は息長氏の出身で、その一族は田別王を引き取ったことからも分かる通り小碓の派閥だった。
近江国は小碓を支持しており、足仲彦は香坂王および忍熊王という二人の息子を近江国の王宮に残らせて留守を任せた。
香坂王と忍熊王は足仲彦の亡き先妻たる大中姫の子で、足仲彦は紀伊国(和歌山県)に渡航して瀬戸内から、角鹿に留まっていた息長姫は、北ツ海(日本海)から筑紫島に遠征した。
二
息長氏は淡海や北ツ海を通じ、交易で莫大な財を得ているだけではなく、様々な技術を吸収してもいた。
勇敢な航海者の話を聞いて成長した息長姫も航海に憧れ、体を動かすことを好み、海の彼方からもたらされる学術にも興味を示した。
そうした息長姫を息長氏は一族の財によって伊勢太神宮(伊勢神宮)へ留学させた。
伊勢太神宮は知識人である巫術者の学び舎にして大和政権の最高学府で、そのようなところに留学しても息長姫は物怖じせず、立ち振る舞いは常に堂々としていた。
彼女は色が白く、鼻梁が高く整っており、その顔立ちは中性的で、切れ長の眼が釣り上がっていた。
大きな体は肉付きが良くて逞しく、胸も眩しく脂付いていた。
息長姫は勉学や修行に励み、伊勢太神宮の巫女の筆頭となった。
そうしたところに足仲彦との縁談が舞い込んだのだが、彼女はその話に乗り気だった。
活動的な息長姫は同じ伊勢太神宮の巫女たる倭姫が大足彦の、宮簀媛が稚足彦の下で活躍したがごとく自己の才覚を活かせる機会を求めていた。
小碓の下でも弟橘媛という伊勢太神宮の巫女が活躍しており、足仲彦は小碓の再来となることを目指していたので、美しくて賢い息長姫を自らの弟橘姫として遇した。
二人は己の夢のために互いに高め合い、やがて好き合うようにもなった。
息長姫は足仲彦の腕を握って胸乳に導き、足仲彦はしどけない姿を見せる息長姫の体に身を乗せ掛けた。
妻を組み敷いた彼は、忙しく体を動かし、彼女も燃え上がる感情に身を委ね、快感を募らせて女の歓びに達した。
そうして夫婦の間には息子の品夜和気が誕生した。
これに危機感を募らせたのが香坂王または忍熊王を次の大王と見なす派閥だった。
木津川の畔を基盤とする彼らは、琵琶湖の畔が基盤の息長氏とは微妙に立場が違った。
それでも、共に足仲彦を担ぎ上げている間は、対立が表面化することはなかった。
筑紫島への親征を開始した足仲彦は息長姫を同行させ、品夜和気を角鹿に留め置き、本土である畿内(奈良県・京阪神)を香坂王と忍熊王に委ねた。
彼は瀬戸内から筑紫島へと向かい、北ツ海から遠征した息長姫と穴門(関門海峡)で合流した。
筑紫島の征服に万全を期すため、足仲彦は百済に使者を派遣し、武器と鉄資源を求めた。
韓郷(朝鮮)の西南部にある百済は、中南部の弁韓にある伽耶の諸国を巡り、東南部の辰韓にある新羅と対立していた。
弁韓には八洲の土着民である倭人が任那なる居留地を設けてもいた。
そこの住民は筑紫島の北部から渡ってきた者が殆どで、彼らは政略結婚の失敗によって新羅と対立関係にあった。
それ故に倭人は百済に接近し、足仲彦は百済へ近付くことで筑紫島の北部と百済の協力を得ようとした。
筑紫島の反乱は限定的なものだったので、百済からの支援を待っていれば容易に鎮圧できた。
足仲彦は志摩郡(志摩町)の豪族たる斯摩宿禰を使いとし、新羅への出兵と引き換えに百済から物資を入手しようとした。
韓郷は鉄が豊富で、八洲は人口に富んでいた。
しかし、一刻も早く小碓の再来と認められたい足仲彦は、功を焦って百済からの支援を待たず、反乱の鎮圧に向かってしまい、敵の矢で負傷させられ、西暦の紀元後三六二年に亡くなった。
親征の失敗は大王の権威を著しく損なうため、息長姫が足仲彦との第二子を妊娠していたことが分かると、その子が新たな大王とされ、我が子の摂政として息長姫が親征を代行した。
武装して自ら前線に立つ息長姫は、臣下の信頼を集め、百済から武器や鉄を供給されたこともあり、反乱を鎮圧して筑紫島の征服を果たした。
三
筑紫島の平定に成功すると、息長姫はそれを援助してくれた百済の要請に応じ、新羅の勢力を駆逐すべく伽耶に出兵した。
伽耶は韓人の国々が加羅という緩やかな連合を形成しており、構成国の中には新羅に与する国もあった。
伽耶に出兵した息長姫は、新羅に与する加羅の七ヶ国を平定した。
彼女は更に兵を西に巡らし、古奚津(康津)に至って忱弥多礼(済州島)に攻め込んだ。
百済の王たる近肖古王と太子の貴須王も兵を率い、韓郷の西南部である馬韓の四邑を降伏させた。
息長姫は平定した地域を百済に全て譲り渡し、震旦(中国)の東晋が自分を倭人の王と認めてくれるよう口添えしてほしいと近肖古王に頼んだ。
近肖古王は百済の王と認められてもらうため、東晋に使節を遣わしていた。
先進的な震旦の王朝に王位を認められれば、その王は大いに威信を高められた。
息長姫は震旦の王朝に倭王と認められなければ、帰国できないと考えていた。
畿内の留守政府は息長姫を警戒しており、足仲彦を戦死させた責任を口実に彼女を処刑しようとしかねなかった。
しかも、息長姫は韓郷で足仲彦との第二子を産んだのだが、去来紗別と名付けられたその子は夭逝し、彼女は遠征軍を指揮する正統性を失っていた。
帰国すればまず間違いなく留守政府から軍の解散を命じられて抵抗できなくされ、そのまま捕縛されて処刑されるはずだった。
無論、息長姫にむざむざ処刑される気はなく、遠征軍も彼女を最後まで守り抜く覚悟でいた。
挙国一致で動員された遠征軍の将兵に息長姫は分け隔てなく接し、成果を上げればどのような者であろうとも取り立てて出世させ、例えば伴首は辺境たる隠岐国(隠岐諸島)の豪族だったが、兵船の管理を任された。
それゆえ、遠征軍は大和政権よりも息長姫に忠誠を誓い、留守政府と一戦を交えることも吝かではなかった。
ただ、そのためには正統性が必要で、震旦の王朝から与えられる倭王の称号は、息長姫の行動を正当化するのに十分だった。
近肖王は息長姫の頼みを聞き入れたが、それと引き換えに庶流の王族たる侯王と夫婦になるよう彼女に求めた。
断って倭王の称号を得られなければ、これまでの苦労が水の泡になりかねなかったので、息長姫は侯王を婿とした。
侯王は優秀な人物ではあったが、庶流なるがゆえに不遇で、劣等感をごまかすため、異様に自尊心が高く、倭人のことも見下していた。
そのせいで彼は息長姫の婿でありながらも倭人の間で孤立した。
近肖古王は貴族の木羅斤資に倭人との交渉を任せ、彼は伽耶において百済の勢力を維持しつつ、任那を介して大和政権との連絡を保った。
将軍たる木羅斤資は敵に対しては容赦しなかったが、友軍の者たちには寛容で、倭人とも理知的に交渉した。
侯王と違って倭人の間で木羅斤資の評判は良く、彼は伽耶での地位を息子の木満致に相続させることを近肖古王から許された。
それが侯王に更なる屈辱の念を覚えさせ、彼は息長姫を支配することで誇りを保とうとした。
侯王は仰向けにした息長姫にまたがると、彼女の衣服を引き裂き、豊満な胸の膨らみを飛び出させ、野獣のごとき咆哮を放ちながら媾合った。
息長姫は彼女は侯王との子を身籠もり、筑紫島まで戻ってきたところで男子を出産した。
その子は牛革の幕舎で産まれ、腕の肉が弓具の鞆のごとく盛り上がっていたことから誉田別と命名された。
誉田別は産まれて直ぐ大王に即位し、いずれ東晋に倭王と認められるため、震旦の漢人のように旨とも名付けられた。
近肖古王は誉田別のため、三六九年に七支刀という宝刀を造らせて侯王に下賜した。
彼は誉田別が侯王の子であることを強調し、いつか大和政権を属国にするための布石を打った。
百済は息長姫が帰国するための船団も用意し、名目上の船団長が侯王とされたため、倭人の軍兵は航海の神に因み、彼を隠語で住吉大神と呼んだ。
八洲において息長姫の再婚は公然の秘密とされ、誉田別は足仲彦との子として扱われた。
息長姫が八洲に帰ると、案の定、留守政府は足仲彦を戦死させた責任を追及し、軍を解散するよう命じてきた。
その命令を無視し、息長姫は百済などからも認められた大王として誉田別を担ぎ上げ、畿内に進軍していった。
そして、留守政府の抵抗を排除して政権を掌握し、大和政権の内戦に乗じて起こされた反乱も平定した。
彼女は誉田別を八洲に君臨させると、隠居して侯王と一緒に暮らした。
劣等感に悩む侯王は、息長姫に足仲彦を思い出させ、愛情のようなものを抱かせた。
息長姫は侯王を籠絡するためもあり、彼との媾合いに明け暮れ、誉田別に続いて天君を儲けた。
侯王が近肖古王から賜った七支刀は、無下にすることは出来なかったが、百済に服属した証と見なされかねなかったため、石上神宮に奉納する形で封印された。
註
*伴首が兵船の管理を任される:『伊未自由来記』
*誉田別が牛革の幕舎にて産まれる:「八幡重来授与記」
*住吉大神と息長姫が夫婦になる:『住吉大社神代記』
*近肖古王が旨のために七支刀を造らせて侯王に下賜する:七支刀
*息長姫が誉田別に続いて天君を儲ける:『幣立宮縁起』