弟橘媛
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一
大和政権は葛城王朝の建国した大和王権を三輪王朝が継承し、各地の王国などを連合させて成立した。
君主は大王と称され、初代の狭野は皇道を国是とした。
皇道とは大王が預言者である皇尊を代理し、この地上に王道楽土を実現させるため、聖戦によって天下を統一しようとするものだった。
葛城王朝を廃して三輪王朝を興した御間城は、大和王権だけではなく皇道も継いだ。
それゆえ、大和政権は諸国に遠征し、秋津島(本州)の西部や伊予島(四国)、筑紫島(九州)の南部を版図に含め、その北部も従属させた。
大王の大足彦は秋津島の東部にも目を向けた。
そこは照葉樹林が広がる八洲(本州・四国・九州)の西部と異なり、落葉広葉樹林が広がっていた。
樵や楢などが生い茂る日高見(東日本)は、畑作に向いており、鮭や鱒が豊富に獲れ、米はそれほど重んじられていなかった。
それは大和政権にとって野蛮なことだった。
八洲の西部は稲作が盛んで、大和政権は米作りを神聖視していた。
御間城は王朝の開闢に当たり、鬼神道の助けを借りた。
山門県(山門郡)の邪馬台国にあった鬼神道は、方士や巫術者を育成する学び舎で、戦乱に荒れる筑紫島を離れて御間城ともども東遷し、その知識で三輪王朝に理論武装をさせた。
水稲の栄養価や生産性は圧倒的で、鬼神道はそれを産霊によるものとした。
産霊とは物事を産み出す神霊の働きだった。
天下を統一して水田を広げる大王は、正しく神々の恩寵を受けるに相応しい存在で、水稲耕作は灌漑などの事業を伴うため、文明を象徴しているともされた。
そうであるがゆえに大和政権の支配に服さず、稲作も行わない日高見は文明化すべき蛮地で、鬼神道は八洲の土着民たる倭人を啓蒙するのが悲願だった。
それは鬼神道が伊勢太神宮(伊勢神宮)に再編されても変わらず、伊勢太神宮の巫術者は大和政権の征服戦争に協力した。
大足彦の妹にして伊勢太神宮の斎王である倭姫も兄の東征に弟橘媛を従軍させた。
弟橘媛は倭姫の後継ぎと周囲から目される巫女で、日高見の文明化という使命を課せられた。
倭姫は弟橘媛に神宝たる天叢雲剣を授け、聖火を点す火打ち石も持たせた。
大足彦も息子の小碓に斧と鉞を渡して出征させた。
斧鉞は震旦(中国)において君主が出征する将軍に統率の証として渡すものだった。
小碓はかつて倭男具那と呼ばれる稚児だったが、筑紫島への西征で武勲を立て、倭建と讃えられる英雄になっていた。
そのような小碓を総大将とする遠征軍は、吉備武彦/武彦および大伴武日/武日の両将軍が副大将として小碓を後見し、両将も大足彦から王権の象徴である柊の長い矛を賜った。
武彦は吉備王国を征服した稚武彦の孫に当たり、小碓の生母たる稲日姫の同族で、その誼で小碓を支援していた。
武日は先代の大王である活目の治世において重臣たる大夫となり、軍の長老と言える立場にあった。
彼は小碓に兵法や戦術を教え、その武才を高く評価し、師匠として小碓に意見できる数少ない人物だった。
小碓はこれまで全軍を指揮したことがなかったので、厳格な武日は何かにつけて彼に指南した。
武彦はそうした小碓と武日の間に立ち、角が立たないようにした。
言動や仕草が軽い武彦は相手の警戒を解くのに長け、なおかつ大事なところは譲らない強さを秘めていた。
尾張国(愛知県西部)を起点として小碓は三河国(愛知県東部)から遠江国(静岡県西部)へ海沿いに進んだが、駿河国(静岡県東部)の焼遣(焼津市)で火攻めに遭い、浮島ヶ原でも激しい抵抗を受けた。
それらは阿久留王の軍によるものだった。
阿久留王は上総(千葉中央部)の毛人を統べる王で、東海(東海地方)にも進出していた。
毛人は八洲に土着した渡嶋(北海道)からの移民だった。
狩猟民である彼らは渡嶋の神々たる島津神を信仰しており、族長に率いられて奴隷狩りを行うなど他の倭人と同様、その社会にも身分や戦争があった。
毛野国(群馬県・栃木県南部)では毛野王国なる毛人の部族国家が形作られた。
毛野王国は強大な勢力で、小碓の東征より前から大和政権に攻められても耐え抜いていた。
阿久留王もそのような毛野王国に匹敵する勢力を誇っていたため、大和政権を迎え撃つことも出来た。
そして、相模国(神奈川県)の走水海(浦賀水道)で小碓を敗北させるのに成功した。
二
阿久留王は大和政権の脅威に危機感を抱き、同胞を守るために立ち上がった熱血漢で、厚かましいくらいの人懐こさから皆に信頼されていた。
それゆえ、焼遣や浮島ヶ原で小碓に敗れても支持を失わなかった。
そもそも、それらの敗退は小碓を勢い付かせ、走水海へ誘い込むための撤退だった。
小碓は大量の兵員や物資を輸送するため、おびただしい数の大船を用意しており、勝利の勢いに乗って走水海を渡ろうとした。
すると、入り江に潜んでいた阿久留王が小回りの利く小舟で小碓の船団を襲撃した。
緒戦の連勝で油断していた小碓の船団は、縦横に動き回る小舟に全く敵わず、逃げるか沈められるかのどちらかだった。
弟橘媛が乗っていた船は沈められ、身一つで逃れた彼女は、上総の海岸に辛くも泳ぎ着いた。
浜まで辿り着いたところで弟橘媛は体力が尽き果て、そこで阿久留王に捕まった。
小碓に勝利した阿久留王は上総へと引き上げ、その途上で弟橘媛を見付けたのだ。
彼は一目で彼女を大和政権に仕える高位の巫女であると看破し、本拠たる神野山(鹿野山)に連れていった。
そして、弟橘媛は阿久留王の妻にされた。
高位の巫女は国土の霊力をその身に宿し、国を霊的に体現する存在と見なされていた。
そのような巫女を娶れば、夫はその国を霊的に征したとも言えた。
弟橘媛もそうしたことは承知していたが、敢えて阿久留王と夫婦になった。
それは敵情を探り、何とか脱出して味方に報告するか、最悪、阿久留王と差し違えるためだった。
弟橘媛はそのような真意を悟られぬよう従順に振る舞い、正体を隠して数いる姫巫女の一人と偽った。
表向き彼女は小碓が阿久留王に負けた以上、勝者には従うと宣言した。
野の百合のごとく清楚な姫巫女の降伏は毛人たちを満足させた。
美貌の弟橘媛は豊かな乳房の膨らみが上衣を突き上げており、肌は白銀の雲も負けそうなほど白く、女人の色香を備えていたけれどもそれだけではなかった。
倭姫の愛弟子と周りから目されただけあり、彼女は責任感や正義感が強く、融通が利かないほどに真っ直ぐだった。
阿久留王が統べる毛人たちのため、伊勢太神宮で学んだ知識を活かそうとした。
それは毛人たちを皇道に改宗させることが目的ではあったが、善意から発しているのに違いはなかった。
毛人たちと直に接した弟橘媛は、知識人である巫女として彼らの役にも立ちたいと本心から思うようになった。
弟橘媛が阿久留王に提供した知識は、大和政権との戦争による生活苦を緩和するのに役立った。
そのように色香だけではない弟橘媛に阿久留王も本気で惚れ込み、やがて彼女と閨を共にした。
当初、弟橘媛との婚姻は飽く迄も政治的な宣伝に過ぎなかったのだが、阿久留王は彼女を心底から好くようになっていた。
弟橘媛も阿久留王と一緒に過ごす中で彼に惹かれていった。
知識人たる巫術者は諸国を流浪してもいたので、間者としても活用された。
敵情を報告する間者は、対象を正確に把握せねばならなかった。
弟橘媛は偏見なく阿久留王の人物を見極めようとした結果、彼の心意気に魅せられた。
阿久留王は弟橘媛の胸を鷲掴みにし、彼女の真白い両脚を開いた。
弟橘媛は羞じらって叫びを上げ、その濡れた股間を阿久留王の熱くて太い棒で嬲られた。
甘い疼きに顔を赤らめながら、彼女は彼の種を胎内で受け止めた。
三
敗走した小碓の船団は、阿久留王の追っ手から逃れて木更津に漂着した。
軍が大きな痛手を受けていたので、小碓はその立て直しに取り掛かった。
彼は武彦や武日を従えて各地を廻り、散り散りになっていた兵をまとめ上げ、陣地を作っていった。
阿久留王が追撃を加えてきたので、軍の立て直しは難航した。
それでも、安房国(千葉県南部)の豪族が阿久留王の背後を突いたため、全滅することだけは免れた。
上総と接する安房国は、狭野の臣下である天富が開拓した土地で、小碓の方に味方した。
他方の阿久留王も毛野王国に使節を派遣し、小碓を挟撃しようと試みた。
しかし、毛野王国は毛野国と接する信濃国(長野県)に美濃国(岐阜県南部)の軍が駐留し、牽制していたせいで動けなかった。
その軍を率いていたのは小碓の兄である大碓だった。
大碓はかつて小碓に誤って怪我を負わされたが、兄弟で一緒に越国(北陸)の賊を討伐したこともあった。
彼は美濃国に婿入りしており、妻の兄遠子は弟橘媛の姉で、親族の弟彦は小碓の東征に付き従っていた。
信濃国も御間城が狭野の子孫たる武五百建に治めさせて以来、大和政権の版図に含まれており、大碓が毛野王国を牽制するのに協力した。
こうして小碓は太田山に本陣を構えると、上総の制圧を開始した。
阿久留王はそれを迎え撃つに当たり、小碓の軍について知ることを教えるよう弟橘媛に求めた。
だが、弟橘媛はもう阿久留王を裏切ることはしなかったが、戦渦に巻き込まれた毛人の生活を改善するためにしか知恵を貸さなかった。
阿久留王もそのような弟橘媛の意志を尊重した。
彼は毛人が得意な狩りの要領で小碓と戦うことにした。
小碓の軍は阿久留王のものよりも規模が大きく、優れた鉄器で武装していた。
そうした小碓の軍を阿久留王は山の中に誘き寄せ、山中を我が庭とする毛人に奇襲させた。
小碓は兵員や武器の優位を活かせず、森に隠れた毛人に軍兵を狩られていった。
彼は撤退して軍議を開き、将軍たちと相談して作戦を練り直した。
かつての小碓なら自ら精鋭を率い、敵陣に潜入して阿久留王を暗殺したことだろう。
だが、総大将がそのようなことをするわけには行かなかった。
そこで、彼は物量にものを言わせ、押し潰すことにした。
幸い小碓は走水海を渡り、上総に拠点を設けていたので、東海から補給を受けられた。
彼は本土や安房国からの援軍も動員し、神野山を四方から同時に攻撃して敵戦力を分散させ、敵に奇襲されても対応できるようにした。
また、小碓は森の木を伐採させ、それを防冊に充てながら前進した。
今度は自分が狩られる立場になり、阿久留王は次第に追い詰められていった。
小碓は阿久留王を神野山の北嶺まで追い込むと、総攻撃を仕掛けて彼を負かした。
阿久留王は小碓に降伏し、せめて女子供は助けてくれと頼んだ。
小碓はそれを聞き入れ、阿久留王についてはその首を刎ねた。
そして、捕虜の中に弟橘媛がいるのを見て驚愕した。
しかも、弟橘媛は阿久留王の子を孕んでおり、なおさら小碓を驚かせた。
彼女は走水海で死んだことにされ、姉の兄遠子がいる美濃国に帰された。
そこで弟橘媛は息子の稚武彦王を産んだが、自身は産後の肥立ちが悪くて命を落とした。
東征を終えた小碓は、その帰路に信濃国を越えて美濃国へ立ち寄り、妻の下に戻っていた大碓とも話し合った末、稚武彦王を養子にした。
上総で阿久留王に勝った後、彼は下総(千葉北部)を経て道奥(東北)に至り、毛人や八束脛を平定した。
八束脛は山岳民たる土雲の一派だった。
彼らを平定した小碓は、それを東征の区切りとして竹水門で引き返し、常陸国(茨城県)から武蔵国(東京都・埼玉県)を通って甲斐国(山梨県)に入った。
甲斐国は治安が乱れていたので、武日が留まって統治に当たり、そこに骨を埋めた。
小碓は上野(群馬)まで来ると、悪勢という山賊と死闘を繰り広げて彼を討伐した。
彼は越国にも不穏な空気が漂っていると聞き、そちらには武彦を遣わした。
武彦は越国を安定させると、伊勢国(三重県中部)の能煩野(鈴鹿市)で亡くなった小碓に代わって大足彦に復命した。
大足彦は武彦らの前で息子を失って悲しむ父親を演じてみせた。
武彦は小碓の子を次の大王とすることに残りの生涯を費やした。
註
*小碓が尾張国を起点として東征する:『尾張国熱田太神宮縁起』
*浮島ヶ原で小碓が激しい抵抗を受ける:『駿河国風土記』
*阿久留王が駿河国で小碓を迎え撃つ:釈重如『鹿野山一覧記』
*天種が安房国を開拓する:安房神社の伝承
*大碓と小碓が越国の賊を討伐する:剣神社の伝承
*御間城が武五百建に信濃国を治めさせる:『先代旧事本紀』
*東征の帰路に大碓と小碓が美濃国で話し合う:清瀬神社の伝承
*武日が甲斐国の統治に当たる:弓削神社の伝承
*悪勢が小碓と死闘を繰り広げて彼に討伐される:片品村の伝承




