小碓
一
粛慎(満洲)の騎馬民族である夫余が族長たる御間城に率いられて南下し、渡海して三輪山の麓に築き上げたのが三輪王朝だった。
一代で征服王朝を築いた御間城は、征服した大和王権の王号を継いで大王と名乗り、大和国(奈良県)から四方に遠征して大和政権という連合政権を樹立させた。
彼は戦争に明け暮れたので、平和な時代に育って穏和な息子の活目を後継者に指名し、王朝を守成させようとした。
しかし、活目の穏やかさは弱さと受け取られ、却って叛乱を招いたため、太子の大足彦には強さが求められた。
大足彦は妻妾や子女にも強くあるよう要求し、手柄を立てるよう競争させ、それが息子の一人である小碓を歪ませた。
小碓は功績を挙げるためなら、死地に赴くことも辞さず、手段も選ぶこともなかった。
彼は男女の両性を兼ね備える両性具有者だった。
男と女の精気を一身に具有した小碓は乙女のように愛らしく、それでいて重い鼎を持ち上げられるほど力が強かった。
だが、彼はその怪力で兄の大碓に誤って大怪我を負わせたことがあった。
大碓は一族を競わせる父に嫌気が差し、会食の儀礼に顔を出さなかった。
会食の儀礼は一族が顔を合わせ、結束を固めるためのものだった。
それに顔を出さないことは、一族の和を乱し、大王に叛逆するものと受け取られても仕方がなかった。
小碓は大碓が父に叛くのを許さず、兄が厠に入るところを襲い、つい力が入りすぎてしまったのだ。
人々は小碓の荒々しさに恐れを抱いたが、大足彦は彼が不届きな兄を罰したことを立派であると褒め讃えた。
もっとも、本心からそう思っているわけではなかった。
大足彦は小碓の猛々しさに利用価値があると考えていた。
彼は地位を振りかざして支配するのではなく、友のごとく接して人を誑し込むことを好んだ。
小碓も大足彦から褒められるのが嬉しかった。
その怪力や気性、何より両性具有者たることから小碓は鬼子と見なされ、本人もそれを気にしていた。
そうであるからこそ大足彦に認められることを喜んだ。
大王たる父から評価されれば、皆にも受け入れてもらえるように思えたからだ。
それゆえ、彼は大足彦に逆らう者を許さず、その期待に応えるため、剣術や馬術を稽古し、川で水練に励むなどした。
豪族である大伴武日/武日がその面倒を見た。
大伴氏の祖である道臣こと厳媛は初代の大王たる狭野の護衛を務め、その子孫も大王を護衛し、武術や兵法などを伝承していた。
また、大伴氏の配下には久米部という集団がおり、大王の親征では先鋒を担った。
久米部を構成する久米氏は、厳媛と同じく狭野に仕えた大久米を祖とした。
そうした一族から久米七拳脛/七拳脛が小碓の膳夫に付けられた。
膳夫とは食膳を供する人々で、久米部は彼らも久米氏で賄った。
七拳脛は小碓と寝食を共にして一緒に訓練し、食事だけではなく身の回りを全て世話した。
それには夜伽の世話も含まれていた。
男女の気が入り乱れた小碓は、力だけではなく性欲も強かった。
血族ないし姻族ではない者を同族のように阿豆那比は罪と見なされたが、同性間において愛し合う善友は、兵士たちの間では珍しくなかった。
七拳脛は兵の身を養うことに誇りを持ち、小碓のことも鬼子と見なさず、腹も空けば愛にも飢える一人の人間として扱ったので、小碓も七拳脛のことを信頼していた。
七拳脛は小碓の耳たぶを咥え、吸ったり舐めたりしながら、腰を抱き合わせて股間をこすり付けた。
唇を触れ合わせながら小碓は七拳脛と互いの体をまさぐりあい、悩ましげな表情で美しい顔を上気させた。
小碓の長い脚と括れた腰は釣り合いが取れ、胸が隆く盛り上がり、桜色の乳首はぴんと張って上を向いていた。
白く光る小碓の裸身を愛撫する七拳脛は、彼に女のような甲高い声を上げさせ、股間のものをこすった。
小碓は夢中で腰を振って熱を放ち、満足の吐息を漏らしながら、快感の余韻に暫し放心した。
彼は七拳脛の胸にぐったりともたれ掛かった。
二
大足彦が妻妾や子女にまで強さを求めたのは、八洲(本州・四国・九州)の全土をまとめ上げるためだった。
狭野が難民たちを率いて築き上げた葛城王朝は、天下を統一することで脅威を無くし、安住の地を得ようとした。
三輪王朝もそれを引き継ぎ、本土である畿内(奈良県・京阪神)だけではなく、秋津島(本州)の西部と伊予島(四国)にまで支配を及ぼした。
それをより広げるのに資するのが大足彦の求める強さだった。
大足彦はまず西方に目を向け、筑紫島(九州)の征服を企てた。
粛慎の御間城が韓郷(朝鮮)から渡海し、筑紫島の北部を経て大和国に至ったので、かつての三輪王朝は筑紫島の北部に利権があった。
しかし、その利権は王朝の内紛によって失われ、大足彦はそれを回復しようとした。
筑紫島は八洲で最も大陸に近く、その進んだ文明や鉄資源を手に入れるのに有利な立地をしていた。
大和政権はそれらを入手するのに女王国に頭を下げねばならなかった。
女王国は筑紫島の北部にある都市国家の連合体で、震旦(中国)からは八洲の土着民たる倭人を代表する国家と見なされていた。
だが、熊襲(熊本県・鹿児島県)の隼人を統べる狗奴国との抗争で疲弊し、先住の山岳民たる土雲にも苦しめられた。
土雲は牧畜民である天孫族や漁撈民たる隼人、海洋民の海人族らに押されていたが、女王国と狗奴国の抗争を奇貨として勢力を盛り返した。
大足彦は友邦の女王国を狗奴国や土雲の魔手から守ると称し、自ら筑紫島に遠征した。
手始めに彼は瀬戸内に跳梁跋扈する海賊を討った。
兵員や物資を大量に遠方へ運ぶには海上輸送が便利だった。
しかしながら、畿内と筑紫島を繋ぐ瀬戸内の海は、悪樓という頭目に率いられた土佐国(高知県)の海賊たちが荒らし回っていた。
その海賊を討伐するため、大足彦は大王に直属の間者である八咫烏に悪樓の居所を探り出させると、小碓にそこを強襲するよう命じた。
父と共に出征していた小碓は、弓の名手たる弟彦やその部下である横立、田子、乳近ら少数の精鋭を引き連れて敵の懐に飛び込み、悪樓を討ち取って海賊を混乱させ、自軍の本隊に撃破させた。
美しくも勇猛な彼は兵士たちの人望を集め、兵士たちはどれほど困難な任務でも彼に忠実だった。
大足彦も小碓の軍功を賞讃し、王子の一人を讃岐国(香川県)に留め、瀬戸内の航路を守らせた。
その王子は讃留霊王ないし讃王と呼ばれた。
瀬戸内を西進した大足彦は周防国(山口県東部)に到ると、周防灘を渡って豊国(福岡県東部・大分県)に上陸した。
豊国では土雲の豪族たちが争っており、神夏磯媛および速津媛という女王は自分たちの領地を安堵してくれるなら、大和政権に協力すると申し出ていた。
大足彦は土雲の抗争に介入すると、その対立を煽り、豪族たちが団結できないように仕向け、神夏磯媛および速津媛と共に挟撃することで個々に倒していった。
彼は神夏磯媛に豊前(福岡県東部)の、速津媛に豊後(大分県)の土雲を取りまとめるよう命じると、南下して日向国(宮崎県)に入った。
狭野の故郷である日向国は葛城王朝の時代には結び付きがあったが、王朝が三輪王朝に交替すると、繋がりは失われてしまっていた。
大足彦は御刀媛を現地妻とし、日向国との交流を復活させた。
御刀媛は狭野の兄たる御毛沼の子孫だった。
日向国は狗奴国に圧迫され、大和政権に助けを求めており、大足彦と御刀媛の婚姻は西征の前から取り決められていた。
日向国に拠点を据えた大足彦は、狗奴国の王がいる囎唹(曽於市)を攻め、予め取り交わしていた密約に従い、女王国ともども南北から熊襲の隼人を挟み撃ちにした。
女王国および日向国と膠着状態にあった狗奴国は、大和政権も敵に回しての二正面作戦を強いられて苦境に陥った。
狗奴国の王である熊襲魁帥こと厚鹿文は娘たる市乾鹿文と市鹿文の姉妹を大足彦に遣わして和平を求めた。
大足彦は返礼の使者に刺客を紛れ込ませ、厚鹿文を暗殺させてそれを市乾鹿文の手引きによるものとし、市鹿文に姉を討たせた。
市鹿文は父や姉よりも地位の低いのが不満で、大足彦と計らって狗奴国を裏切り、父が殺された責任を姉に擦り付けた。
大足彦は市鹿文に熊襲の隼人を取りまとめるよう命じ、囎唹から球磨(人吉市)へと移った。
厚鹿文の死で熊襲の隼人は殆ど服属したが、球磨では熊津彦や川上梟帥ら狗奴国の残党が抵抗を続けていた。
熊津彦こと兄熊および弟熊の兄弟は大足彦の調略され、内紛を起こして自滅した。
けれども、川上梟帥こと取石鹿文は粘り強く抗っていた。
彼は厚鹿文の弟である迮鹿文の息子で、追い詰められた状況にありながらもその陽気さで士気を保った。
もっとも、単なるお調子者ではなく、新たに山城を建てると、景気付けに思い切り呑んで騒いだが、城の周りを見張りの兵で抜け目なく固めていた。
そこで、小碓が軍師として従軍していた叔母の倭姫から女物の衣装を借りて女装し、女性の兵士たる女軍ともども遊女である遊行女婦として山城に潜入した。
宴の席には遊行女婦が狩り集められていたので、小碓は怪しまれずに取石鹿文へ近付き、乳房を露わにして淫らな姿態を見せた。
そして、取石鹿文が小碓の胸乳をまさぐってくると、小碓は隠し持っていた剣で取石鹿文の首を斬り、女軍も同様に彼の衛兵らを殺していった。
それから、潜伏していた久米部が突入して片を付けた。
事切れる瞬間に取石鹿文は最後の茶目っ気を見せ、狗奴国の王たる渠帥者として梟帥の称号を小碓に授けた。
梟帥は勇者を意味し、その称号を授与することで取石鹿文は小碓の勇敢さを讃え、大和政権の王子たる彼を臣下のごとく扱った。
自陣へと戻った小碓は、敵将を討ち果たした興奮の冷めやらぬ様子で血に塗れた女装のまま七拳脛と媾合った。
七拳脛はきりきりと張り詰めた小碓の若茎を咥え込むと、その付け根にある袋も揉み、すっと切り込んだように陰裂にも指を潜り込ませ、彼を魚のごとく跳ねさせた。
三
狗奴国を平定した大足彦は肥前(長崎・佐賀)に到り、反抗するそこの土雲を誅殺して筑後(福岡県南部)に移った。
そこから川に沿って豊後に抜けると、更に豊前へ進み、女王国の国境を威嚇するように行軍した。
そうして彼は女王国に大和政権の優位を認めさせ、山陽道(山陽地方)を通って畿内に凱旋した。
ただし、小碓は大足彦に命じられ、山陰道(山陰地方)を通って出雲国(島根県東部)に向かった。
出雲国にはかつて出雲王国という独立国があり、そこは農耕民たる出雲族の国で、北ツ海(日本海)を介した貿易や砂鉄による製鉄で栄えた。
しかし、山地が多いことから耕地面積は少なく、人口も希薄であったため、瀬戸内の航路が開拓されると、沃野の広がる吉備国(岡山県・広島県東部)や大和国に遅れを取った。
やがて出雲国は大和政権の軍門に降り、天孫族の出雲氏が治めるようになったが、出雲王国の誇りは失われなかった。
王国の末裔である出雲建が肥河(斐伊川)の上流に山塞を築くと、出雲氏や彼に味方する豪族を部下たちと共に襲い、独立の気運を盛り上げた。
大足彦は軍を二手に分け、一方を小碓に託し、出雲国の独立を阻止するよう命じた。
小碓は軍を出雲国に進駐させ、自身は女性の奴隷たる婢の身なりをすると、出雲氏の下から逃げてきたと偽り、出雲建の陣営に加わった。
彼はその愛らしい美貌を買われ、出雲建に侍ることとなった。
間近で見る出雲建は常に穏やかで、繊細なくらい相手の心情を気遣い、家臣らをそれぞれの個性に合わせて盛り立てるのが上手かった。
彼は侍女に扮した小碓にも気遣いを示した。
小碓は出雲建の真心に接し、大足彦の心配りが演技であることに気付かされた。
それでも、出雲建が肥河で沐浴するのに侍ると、その鉄剣を木剣に掏り替えて騙し討ちし、彼の死で混乱する敵陣を自軍に壊滅させた。
大足彦は出雲国から帰ってきた小碓を神に等しい英雄と讃えた。
しかし、小碓は父から褒められてももう嬉しくはなかった。
大足彦が今度は東への遠征を命じると、小碓は儀式めいた口調で空々しく承り、大王は自分を使い潰すつもりかと倭姫に零した。
最早、小碓は七拳脛ら戦友たちに愛されていればそれで良かった。
彼は七拳脛ともども寝床に入ると、床に片頬を突き、背を弓なりに反らせ、尻を高々と上げた。
七拳脛は桃の実のごとき小碓の尻を鷲掴みにしながら、その陰裂に屹立を挿入れた。
小碓は東征を終えると、伊吹山の賊を征伐しに行ったが、敵の毒矢に射られた。
彼は毒に蝕まれ死期を悟り、無名の兵士のように葬るよう七拳脛に言って死んだ。
七拳脛は小碓の遺言に従い、その墓守として余生を過ごした。
註
*悪樓が小碓に討ち取られる:暁鐘成『金毘羅参詣名所図会』
*讃岐国に留まった王子が讃留霊王ないし讃王と呼ばれる:讃留霊王神社の伝承
*取石鹿文が厚鹿文の弟である迮鹿文の息子とされる:『秀真伝』
*川に沿って大足彦が筑後から豊後に抜ける:『豊後国風土記』
*大足彦が豊後から豊前へ進む:『肥前国風土記』
*小碓が伊吹山の賊を討伐しに行く:『東春日井郡誌』
*大和政権の勇者が毒矢に射られて死ぬ:白鳥神社の伝承