倭姫
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一
伊勢国(三重県中部)は畿内(奈良県・京阪神)を本土とする大和政権にとって東海道(東海地方・関東地方)への窓だった。
大和政権は大和国(奈良県)の大和王権を盟主とし、各地の王国が連合した政権で、盟主である大和王権の君主は大王と呼ばれた。
初代の大王たる狭野は将軍の日別に伊勢国を平定させた。
それ以来、伊勢国は日別の子孫が大王のために支配し、大和王権の王朝が狭野の葛城王朝から三輪王朝に交替してもそれは変わらなかった。
大若子も日別の子孫として大王に忠誠を尽くした。
大王である御間城が将軍を四方に遣わした時は、東海道に遣わされた将軍たる武渟川に協力した。
武渟川は御間城から東海王国の征討を任されていた。
尾張国(愛知県西部)や美濃国(岐阜県南部)の肥沃な平野に広がる東海王国は、強大な勢力を形成し、優雅な宮廷土器を作るなど文化的な成熟度も高かった。
そうした東海王国を相手取り、武渟川は激闘を繰り広げた。
大若子も一軍を指揮して戦闘に参加した。
豪族でありながらも兵士と苦楽を共にする大若子の人望は厚かった。
大若子は武人としての能力も申し分なく、優れた用兵によって敵を撃破し、東海王国の征討に貢献した。
武渟川は東海王国を征討すると、王国を分割して従順な現地の豪族たちに管理させた。
伊勢国は東海王国に含まれていなかったので、大若子はそれに与れなかったが、その活躍を武渟川が御間城に報告していたので、中央の覚えはめでたかった。
彼は東海王国の旧領を管理する豪族たちに対し、睨みを利かせることを期待された。
御間城は東海王国が征討されると、息子の豊城を東海道に派遣し、毛野国(群馬県・栃木県南部)の毛野王国に攻め入らせた。
豊城は毛野王国に侵入させる軍の拠点を東海王国の旧領に置いた。
そこを管理する豪族たちの中には未だ面従腹背の者も少なくはなく、もし彼らが叛けば、豊城は敵中で孤立した。
そうならぬよう大若子は中央の力添えで軍を補充され、東海王国の旧領で叛乱が起こっても豊城とで挟撃できた。
それは大若子を信頼していなければ取られない措置だった。
大若子が裏切れば東海王国の旧領を管理する豪族たちが毛野王国と協力して豊城を足留めし、畿内に大軍が攻めてくることも有り得た。
中央にそこまで信頼されたことは大若子を感激させた。
畿内と東海道の境界にいた大若子の一族は、微妙な立場に置かれていた。
そのような彼らにとって狭野の命令が心の支えで、武芸を磨き続けて伊勢国の支配を維持し、大王への忠義にも篤かった。
御間城から活目に大王が代替わりし、倭姫が伊勢国にやってくると、大若子はその安全を保障せよと命じられた。
活目は御間城の息子で、豊城の弟に当たった。
彼は大足彦を太子とし、倭姫はその妹で、巫女として鬼神道に属してもいた。
鬼神道は震旦(中国)の科学者である方士の徐福が山門県(山門郡)に建設した学び舎で、八洲(本州・四国・九州)の知識人たる巫術者たちの協力も得ていた。
そこでは震旦の方術や八洲の巫術が教えられ、邪馬台国は王女をその巫女にしていた。
御間城が邪馬台国と連合して成立させた大和政権も、そうした伝統を引き継いでいたが、全く同じというわけではなかった。
邪馬台国を盟主として筑紫島(九州)の北部が連合した女王国は、俾弥呼(日向)という鬼神道の巫女が君主となった。
俾弥呼は鬼神道で学んだ邪馬台国の王女から選ばれ、その知識を統治に活かした。
しかし、筑紫島が戦乱で疲弊して女王国も衰退すると、俾弥呼の称号は鬼神道の首席である巫女を意味するものでしかなくなった。
そのような俾弥呼の一人たる百襲姫は粛慎(満洲)からやってきた御間城の東征に同行し、彼が三輪王朝を興すのに貢献した。
彼女は鬼神道を大和国に移転し、三輪王朝を女王国のごとく俾弥呼が統治する体制に変えようと試みた。
だが、それは大王の支配を脅かすものと見なされ、百襲姫は毒を盛られて狂死した。
鬼神道の巫術者たちは研究や教育に従事するだけではなく、各地に派遣されて情報を収集し、役に立つ技術を現地民に授け、彼らの支持を取り付けた。
それは女王国でも行われていたが、大和政権は鬼神道の巫術者たちに皇道の宣布も命じた。
皇道とは大和王権の建国理念で、天命を受けた皇尊に代わり、大王が天下を統べるべきとされた。
初代の大王である狭野は兄の五瀬を皇尊とした。
五瀬は大和王権を建国する道筋を狭野たちに示し、それこそが天命を受けた証とされた。
五瀬の言葉は神々から預かったものとされ、狭野たちはそれを宣べ伝える御言持ちを自称し、狂信的な士気の高さで大和国を征服して大和王権を建国した。
鬼神道もそうした皇道の教えを宣布することが求められた。
狭野は葛城王朝の大王だったが、大和王権を大和政権に発展させた三輪王朝も、皇道を受け継いでいた。
そして、三輪王朝の王女たる倭姫も大王の代理として皇道を宣教する御杖代となり、兵たちを率いて伊勢国にやってきたのだ。
二
伊勢国は八洲において照葉樹林が広がる地域の東限で、そこから以東は落葉広葉樹林が広がる地域だった。
風土の異なる地域では勝手が違ったので、宣教は遅々として進まなかった。
そこで、倭姫は宣教の最前線たる伊勢国に拠点を築いて自ら指揮した。
征服者である御間城の後を継いだ活目は、覇業の成果が長く保たれるように平和を望んだが、それを弱さと見なされ、却って叛乱を招いてしまった。
そのことを反省した彼は、太子の大足彦には強力な大王になるよう教育した。
大足彦はそれに応え、確固たる意志を以て精力的に王権の強化を目指した。
大足彦の妹たる倭姫もそうした兄に影響されてか、自身も強い体力と不屈の精神を備えており、三輪王朝の王女として大和政権に尽くすべく鬼神道に入門した。
倭姫は師匠である豊鍬から神宝たる八咫鏡と天叢雲剣を引き継ぎ、師に倣って各地を宣教してまわった。
伊勢国でも伊波比戸という神の末裔とされる人々が大和政権に反抗していたので、その宣撫に当たり、大若子もそれに助力した。
東海王国の旧領には大和政権に帰順しない者たちもおり、彼らは伊勢国など周辺の地域にも流れ、伊波比戸の末裔とされる人々もその一派だった。
大若子は太子の妹が決して安全とは言えない地域へ自ら赴いてきたことに驚いた。
また、反抗そのものは大若子が武力で抑圧したが、倭姫は宣撫によって人心を安定に貢献したばかりか、武力による抑圧にも有用な助言を行ってみせた。
他の地域における宣撫でも彼女は戦闘を経験していた。
それ故に倭姫は宣教の最前線であ伊勢国で拠点を築くに当たり、大若子に目を付けた。
百戦錬磨の猛者たる大若子は現地の兵卒たちから敬意と愛情を勝ち得ていたばかりか、その単純素朴な忠誠心は中央の重臣たちからも評価が高く、大軍を与えられていた。
それに、高齢となっても巧みに馬を操り、武骨な大若子は倭姫にとって個人的にも魅力が感じられた。
相談と称して倭姫は何かと大若子を訪ね、親しく接して彼をどぎまぎさせた。
彼女は大きな目をしており、美しい瓜実顔をしていた。
戦勝を記念する饗宴で倭姫は大若子に近寄って酒を注ぎ、その頬に触るほど髪を傾け、甘い香りで彼を包んだ。
大若子は自制心を保てなくなり、裳裾を脱ぎ捨てて倭姫の衣服も左右に掻き分けた。
豊かな胸乳や艶やかに光る体、紫色に色付く乳首などが現れ、倭姫は大若子の股間に口を寄せた。
彼女は彼のものを口に含んで舌を這わせ、両手で慈しむように揉みしだいた。
そのまま大若子は押し倒され、倭姫はその上に跨がり、頭を屈めて口吸いしてからゆっくりと腰を下ろした。
大若子の股間のものが倭姫の体の中心に没した。
中心部を刺し塞がれた倭姫は、喜悦の声を上げて喘ぎ、体を動かして腰を上下させた。
大若子は感情の昂まりに震えながら登り詰めた。
彼はぐったりした倭姫の乳房に顔を埋めた。
倭姫は大若子との媾合で娘を産み、大若子は自分の領地を倭姫に寄進した。
そこに倭姫は鬼神道を移転して伊勢太神宮(伊勢神宮)と改称し、斎王と名乗って五十鈴川の畔に斎宮という宮殿を建てた。
それにより彼女は女王国の残滓を払拭した。
百襲姫のごとく大王の支配を脅かすことはしないと示し、倭姫は中央の信任を得た。
彼女は大きな裁量権を与えられ、伊勢太神宮を一種の自治国家となし、その実質的な君主となった。
大若子はその宰相である大神主に任命された。
三
武渟川は東海道に派遣されて東海王国を滅亡させたが、彼の父である大彦も北陸道(北陸地方)に遣わされて越王国を滅ぼした。
越王国は翡翠の産地たる越国(北陸)を支配し、北ツ海(日本海)を介した交易で潤った。
大彦は息子の武渟川と同様、征討した越王国を分割し、その旧領を手刀摺彦ら従順な現地の豪族たちに管理させた。
しかし、越王国を懐かしむ者も少なくはなく、越中(富山)を拠点に阿彦峅が大和政権への抵抗を続けた。
阿彦峅は越王国の最後の王であった阿彦の息子だった。
彼は荒っぽいところはあったが、大和政権の目を盗み、大胆に密貿易を行って大いに儲け、頼れる親分として子分たちから慕われた。
阿彦峅の一族は北ツ海を介し、大陸とも交易していたので、震旦(中国)の任侠に倣った集団も結成した。
また、人材の面においても阿彦峅たちは大陸との繋がりが深かった。
そもそも、阿彦峅その人が大陸人と血縁関係にあり、姉は震旦の漢人のように支那夜叉と呼ばれ、その子も支那太郎と称された。
家来にも韓郷(朝鮮)の韓人たる強狗良や大谷狗、粛慎の粛慎人である鄭鶴や徐章がいた。
阿彦峅は余所者の大和政権を快く思わない庶民からも多大な人望を集めた。
彼はある程度の勢力を蓄えると、大和政権に叛乱を起こした。
阿彦峅の猛攻に手刀摺彦たちは歯が立たなかった。
報せを受けた大和政権は、越国の近くで大軍を擁する大若子を鎮圧に向かわせた。
大若子は角鹿(敦賀市)に到着すると、現地の豪族たちを集めながら、阿彦峅と戦うための陣容を整えた。
だが、阿彦峅は大陸の兵法に通じ、大和政権の目を盗む組織網を作り上げていたので、神出鬼没な戦い振りで大若子を翻弄した。
大若子に同行していた倭姫は、苦戦する彼に力を貸した。
倭姫も大陸の兵法には明るく、更には巫術者たちに情報を収集させ、阿彦峅の動きを追跡し、相手方には虚報を流布した。
敵よりも優位な点を潰され、阿彦峅は追い詰められていき、大若子により討伐された。
叛乱を鎮圧した大若子は、民心を安定させるため、庶民の宣撫を倭姫に頼んだ。
倭姫は越国にも大和政権の神話を宣べ伝えた。
神々が統治していた時代、諸神の女王である天照の下で世界は悪もなければ、苦もない楽園だった。
しかしながら、邪神によって世界は諸悪と苦役に満ちた時代に堕落してしまった。
それを哀れんだ天照は、水稲耕作に象徴される文明を創始し、人間を稲作に従事させ、文明化することで彼らを救おうとした。
そもそも、人間はその身を養う米の精気から生じ、米作りとは人が本来性を回復させるものだった。
統治とは稲の栽培を保護することで、天照は皇尊に天下を治めよとの神勅を下し、その天命を引き継いだからこそ大王は水田を広めるべく征服する。
大王に逆らうことは水田耕作を邪魔し、人間性を損なう野蛮で、邪神を利するものでしかない。
このような神話は服わぬ者たちにとっては欺瞞でしかなかっただろう。
けれども、それは大陸の学問で理論武装していながら、八洲の土着信仰にも寄り添っており、それらを皇道に結び付けていた。
それなればこそ庶民の心を惹き付けるところがあり、次第に彼らから越王国の記憶を消し去っていった。
大若子は倭姫と共に越国を去るに当たり、彼女が始めた伝道を美麻奈彦に託した。
美麻奈彦は現地の豪族でも特に才があった。
そうした美麻奈彦に後事を委ね、大若子と倭姫は伊勢国に帰った。
二人は大足彦が大王になって以後も、筑紫島への遠征に参加した。
倭姫と大若子が死んだ後、斎王は彼らの娘らに継承された。
大神主は大若子の弟たる乙若子の子孫が継ぎ、彼らは度会氏と呼ばれた。
註
*倭姫が兵たちを率い、伊勢国にやってくる:『皇太神宮儀式帳』
*伊波比戸のことで大若子が倭姫に助力する:『倭姫命世記』
*大若子が自分の領地を倭姫に寄進し、伊勢太神宮の大神主に任命される:『豊受大神宮禰宜補任次第』
*阿彦峅が大若子に討伐される:出口延佳『日本書紀神代講述抄』
*神々が統治していた時代、天照の下で世界は楽園であったとされる:小林與平・與兵衛「神代復古誓願書」
*人間が米の精気から生じ、天照が創始した稲作を皇尊が保護する:安藤昌益『自然真営道』
*美麻奈彦が大若子から伝道を托される:野崎伝助『喚起泉達録』
*筑紫島への遠征に倭姫と大若子が参加する:埴生神社の社伝