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ヤマト奇談集  作者: flat face
弥生時代
1/19

阿辰

「さて、またつぎのような奇談も語り伝えられております」(『千夜一夜物語』)


   一


 東を極めた世界の果て、そこに()(しま)(本州・四国・九州)という島々があり、その島民は()(じん)と呼ばれた。

 倭人は(しゆう)の時代から(しん)(たん)(中国)に薬草を献上するなどしていた。

 八洲は物産が豊かであって人口も多く、魅力のある市場だったので、震旦の商人たちが植民し、海岸や河口の舟着き場に都市が幾つも作られた。


 やがて商人団の頭が王となり、沢山の国家が出来ていった。

 これら八洲の都市国家は(しゆん)(じゆう)(せん)(ごく)の時代には(えん)に服属した。

 燕は(みし)(はせ)(満洲)や(から)(くに)(朝鮮)にも進出しており、八洲での利権も確保していた。


 (しん)()(こう)(てい)が燕などを滅ぼして震旦を統一し、(ろう)()(ぐん)(臨沂市)の海港に行幸すると、(あん)()(せい)なる方士が彼に紹介された。

 方士は方術という科学技術に精通した者で、その知見を活かし、商売を行ってもおり、琅邪郡の出身たる安期生も八洲で事業を展開していた。

 内陸育ちの始皇帝は琅邪郡で初めて海を目にし、心を動かされていたため、里帰りしていた安期生の話にも関心を持った。


 安期生が八洲に戻った後も、彼は海の彼方に思いを馳せ、震旦の商人たちが海外で営む市場を手中に収めようとした。

 そうした始皇帝に方士の()(せい)が八洲への遣使を建言した。

 盧生は安期生の弟子で、始皇帝と同じく(かん)(たん)(邯鄲市)の出身でもあり、宮中に出入りしていた。安期生を始皇帝に紹介したのも盧生だった。


 始皇帝は盧生の言を容れ、秦の支配下に入るよう促すため、八洲に使節団を遣わすことにした。

 正使に任じられた盧生は、副使に同門の方士である徐福を推薦して認められた。

 徐福も師の安期生と同じく琅邪郡の出身だった。


 盧生は出世するため、方士をしていたが、徐福は純粋な知的好奇心から方術を研究していた。

 盧生はそのような徐福の学識を高く評価しており、八洲を調査しないかと彼に持ち掛けた。

 徐福も世知に長けた盧生を信頼していたので、彼の誘いに乗った。


 盧生と徐福に率いられた船団は、数多の兵士や職人を乗せ、西(せい)(れき)の紀元前二一〇年に(つく)(しの)(しま)(九州)へ渡り、(きん)(りゆう)(金立町)なる都市に至った。

 そこは安期生が八洲で拠点としているところだった。

 盧生たちが金立に着いた時、安期生は既に亡くなっていたが、金立の王である(げん)(ぞう)が盧生たちを迎え入れた。


 源蔵は()の王たる(たい)(はく)()()の子孫で、安期生の事業を援助していた。

 その事業は八洲の土地を開発するもので、方術の理論が実際にどこまで役立つかを確かめるための実験だった。

 安期生の事業は成果を上げ、八洲に領地を有する源蔵にも利益をもたらした。


 源蔵にとっては盧生たちも有益な存在だった。

 始皇帝に臣従する振りさえすれば、盧生たちが連れてきた兵士や職人が味方に付き、その軍事力や技術力によって他の都市国家よりも優位に立てた。

 八洲は震旦から遠く離れているので、始皇帝に臣従すると言ってもそこまで束縛されず、得るものの方が多かった。


 それゆえ、いずれ盧生たちが始皇帝からの支援を取り付け、金立にやってくると安期生から聞かされても源蔵は反対しなかった。

 盧生が八洲への遣遣を始皇帝に建言したのは、以前から安期生と共に練っていた計画によるものだった。

 安期生は震旦からも後援され、事業をより推し進めたいと願い、盧生は八洲で高い地位を得たいと望んだ。


 秦の宮中に出入りしていた彼は、そこでの出世に限界を感じており、それならばと八洲で更なる高みを目指そうとしたのだ。

 鶏口となるも牛後となるなかれ。

 (じゆ)(きよう)の祖である(こう)()も震旦で駄目なら、倭人らのところに住みたいと欲したではないか。


 八洲ならば秦の軍事力や技術力を利用し、もっと上の身分を狙えた。

 源蔵に歓迎された盧生は、幸先が良いと喜び、その嬉しさを徐福と分かち合った。

 徐福の方も幸先が良かった。


 源蔵は安期生の事業と同様、徐福の研究にも援助すると約束した。

 それで盧生たちの機嫌を取れるのならば安いものだった。

 また、もし徐福が成果を上げてくれるのなら、なおのこと好都合で、安期生の弟子ならばそれも期待できた。


   二


 盧生たちは直ぐ金立に受け入れられた。

 源蔵の後ろ盾を得ていることもあったが、盧生たちの連れてきた兵士たちは、金立の人々を畏怖させ、職人たちは生活水準を向上させて彼らから感謝された。

 金立を建てたのも震旦の者たちではあったが、秦の軍事力や技術力は彼らを上回っていた。


 源蔵はそうした盧生たちを利用し、筑紫島の北部に勢力を広げていった。

 そこは震旦に近接し、沿岸航行によって容易に震旦と交通できたので、震旦の商人たちが海湾に面した地域に都市国家を数多く建設していた。

 それらの諸国を源蔵は秦の代理という建前で傘下に収めていった。


 諸王はかつて燕の保護下で平和に交易しており、燕の滅亡による混乱で交易に支障が出ていたので、源蔵が建前を守る限りは彼の支配に従った。

 表向き源蔵は己の版図を秦の外藩として(しん)(おう)(こく)と名付けたが、それは飽く迄も建前でしかなかった。

 源蔵も含めて諸王に始皇帝の臣下となるつもりは皆無で、秦には交易の安全を保障するだけでいてほしいのが本音だった。


 更には盧生たちも八洲を秦の領土にせよという始皇帝の命令を実行しなかった。

 盧生と徐福は勿論、兵士たちや職人たちも土地や倭人の奴隷を分配され、震旦では得られぬ待遇に満足して八洲へ入植した。

 秦王国の王は源蔵だったが、秦の正使たる盧生はそれに不満を抱かなかった。


 急速に拡大した秦王国は、制度が伴っておらず、盧生がそれを穴埋めした。

 秦の制度を参照して盧生は統治に辣腕を振るい、秦王国の実権を握った。

 源蔵は盧生に頼らなければ秦王国に君臨できなかった。


 しかし、盧生にはその余勢を駆って源蔵に取って代わる気はなかった。

 幾ら軍事力や技術力に優れても盧生たちは数が少なく、源蔵たちを敵に回せばまず生き残れなかった。

 他方、副使である徐福はそのような政治の世界から距離を置き、八洲の薬草などを調査していた。


 金立の領内にある(きん)(りゆう)(さん)は、(かん)(あおい)などの薬草が豊富だった。

 徐福は源蔵の娘たる()(しん)(こう)(しゆ)により金立山を案内され、そこに自生する薬草を採取してもいた。

 阿辰公主は倭人の巫術者たちから八洲の薬草などについて学んでいた。


 巫術者は祈祷や呪薬などの巫術による治療を生業とし、倭人で唯一の知識層だった。

 阿辰公主は巫術者たちとも付き合いがあり、彼らから倭人のごとく()(たつ)と呼ばれ、自らもそう称した。

 源蔵は娘が倭人の風に染まるのを咎めなかった。


 先祖の太伯は南の海に移り住むと、現地の風習たる断髪や刺青を取り入れた。

 南では海の中で邪魔にならないよう断髪し、刺青で鮫や鰐を威嚇していた。

 役に立つなら異文化であっても取り入れる気風は、源蔵や阿辰にも受け継がれていた。


 周の()(おう)は后の(ゆう)(きよう)を大臣の一人に任命したが、阿辰も父王を手助けしていた。

 そういった阿辰からすると、研究に没頭して世慣れぬ徐福は可愛らしく、世話のしがいがあった。

 まだ若い阿辰は切れ長な一重瞼で、色が抜けるように白く、髪を左右でお団子のごとく結い上げており、人目を惹き付ける美人だった。


 かくのごとき阿辰に世話を焼かれ、徐福は恋に落ちた。

 阿辰も徐福をいじったりからかったりする内に次第に本気となっていき、やがて彼と愛を交わした。

 徐福が阿辰の上に覆い被さり、阿辰が顔を仰け反らせ、くぐもった声を上げると、徐福は一気に昇り詰めて果てた。


 源蔵は徐福が阿辰の婿になることを認めた。

 徐福の研究は様々な丹薬を作り出し、安期生の事業と同様、成果を上げて源蔵に利益をもたらしていた。

 源蔵は徐福が(やま)(との)(あがた)(山門郡)に方士や巫術者の養成所を設立することも援助した。


 琅邪郡を治めていた(せい)は、都の(りん)()(臨淄区)に学者を招き、(しよく)(もん)という城門の付近に住まわせ、論争や著述に従事させた。

 それは「(しよく)()(がく)」と称され、徐福は研究に理想的な環境としてその再現を夢見ていた。

 彼は実質的に山門の王となり、夢を実現させたばかりではなく、阿辰との間に双子を儲け、幸せの絶頂を迎えたが、盧生はそれを祝福しなかった。


   三


 盧生も阿辰に恋をしていた。

 源蔵を手助けしていた阿辰は、盧生と接触する機会も少なくはなく、阿辰の美しさと賢さに盧生は憧れていた。

 それ故に彼は阿辰が徐福の妻となるのを受け入れられなかった。


 盧生は初めて徐福に憎しみを抱いた。

 彼は徐福が諸国を調査するために旅立つと、密かに刺客を放ち、事故に見せ掛けて暗殺した。

 また、何かと理由を付け、徐福に近しい者たちも秦王国から追放していき、盧生は源蔵に阿辰との結婚を願い出た。


 源蔵は盧生が徐福を殺害したのであろうと薄々勘付いてはいた。

 しかし、徐福を失った上、盧生までいなくなるのは避けたかった。

 異文化を取り入れる柔軟性の裏返したる節操のなさで源蔵は盧生の犯行を黙認することにした。


 盧生は阿辰を娶ることを源蔵に許され、彼女を徐福から奪うことに成功した。

 だが、親友を裏切ったことは盧生を苦悩させた。

 盧生はそれに耐えきれず、阿辰との媾合に逃避した。


 彼は阿辰の白い裸体にのし掛かると、花梨の実のごとき豊かな胸乳を鷲掴みにし、体を忙しなく動かしながら彼女と媾合(まぐわ)った。

 阿辰は盧生に抵抗せず、口から吐息を漏らし、腕を彼の首に絡み付かせた。

 絶頂に登り詰めた二人は、肉塊のようにいぎたなく床の上で折り重なった。


 夫の徐福が盧生に殺されたであろうとは阿辰も察していたが、それをおくびにも出さなかった。

 彼女も盧生がいなくなると、秦王国が失うものは、大きいと考えていた。

 公主として国家の損失を招くようなことは出来なかった。


 盧生の手腕は阿辰も認めており、阿辰と媾合うのに逃げていても盧生は国政を放り出したりはしなかった。

 そうした盧生を阿辰は憐れみ、この人には自分がいなければならないと思うようになった。

 彼女は王宮で盧生を支えるだけではなく、閨房でも彼に尽くし、その子を(みごも)った。


 しかしながら、盧生は重い精神的疲労を抱えての激務と荒淫が祟って急逝した。

 源蔵が盧生に代わって秦王国の手綱を握ろうとしたが、秦が滅びていたこともあって上手く行かなかった。

 始皇帝が死んだ後、全国各地で反乱が起こり、僅か十五年で秦による震旦の統一は幕を閉じた。


 後ろ盾の秦が無くなり、各都市を従わせていた建前が喪失されると、秦王国を構成する都市国家が次々と独立していった。

 諸王に離反された源蔵と阿辰は殺された。

 それでも、(なの)(あがた)(博多区)の()(こく)では盧生と阿辰の子孫が王となった。


 ()(こく)(おう)たる()()は紀元後五七年に()(かん)(こう)()(てい)に入貢した。

 漢は韓郷を支配しており、もし韓郷が反乱を起こしたなら、八洲と連合して韓郷を腹背から挟撃できる態勢を整えておきたかった。

 奴国は金印紫綬を授けられて、属国としては異例の待遇を受けた。


 ()(との)(こおり)()()(こく)も一〇七年に王の(すい)(しよう)が後漢に朝貢した。

 奴国も回土国も秦王国から独立した国々だった。秦王国の遺民は(とよの)(くに)(福岡県東部・大分県)に国を構え、そこでは震旦と同じ暮らしが行われた。

 また、徐福が山門に開いた学び舎も保持された。


 盧生は徐福の理想が実現された学び舎を死守しており、それは徐福に対する盧生の罪滅ぼしであるのかも知れなかった。

 阿辰も徐福の遺産を守ろうとした。

 徐福との間に儲けた双子を阿辰は盧生に害されぬよう国外へ逃がした。


 双子は盧生が徐福に近しい者たちを追放していたので、彼らと合流して八洲の各地を渡り歩いた。

 一行は自らを徐福と称してその志を継ぎ、(たに)(わの)(くに)(三丹地方)を通って()(いの)(くに)(和歌山県)の(くま)()(さん)(ざん)()()(さん)を訪れ、最終的に()(がるの)(くに)(津軽地方)へ至った。

 そこで党派の分裂が起こり、分派は(しん)(けん)(こう)に逐われた郡公子の一族を名乗った。


 献公が晋を混乱させ、太子を除く公子の一群が国外に脱出したのだが、分派は自らを彼らに擬えた。

 津軽国では()()()(ぞく)()()()(ぞく)が抗争していた。

 郡公子の一族を自称した分派は、それに介入することで津軽国に地歩を築いた。



   註


*倭人が周に薬草を献上する:王充『論衡』

*八洲が燕に服属する:『山海経』

*始皇帝が安期生のいる八洲に盧生と徐福を遣わす:劉向『列仙伝』

*太伯の子孫が八洲にいる:張楚金『翰苑』

*孔子が倭人らのところに住みたいと欲する:『論語』

*八洲で徐福が薬草を採取する:欧陽脩『日本刀歌』

*源蔵の娘である阿辰が徐福と恋に落ちる:金立町の伝承

*徐福が双子を儲ける:佐久市の伝承

*八洲で徐福が王となる:司馬遷『史記』

*夫差の子孫である宇閉が後漢の光武帝に入貢する:「松野連系図」

*帥升が後漢に朝貢する:范曄『後漢書』

*秦王国にて震旦と同じ暮らしが行われる:『隋書』

*徐福の一行が旦波国を通る:『新大明神口碑記』

*紀伊国へと徐福が来訪する:申叔舟『海東諸国紀』

*熊野三山へ徐福が来る:曲亭馬琴『椿説弓張月』

*富士山に徐福が訪れる:義楚『義楚六帖』

*晋の群公子が津軽国に至る:『東日流外三郡誌』


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