世の中のほとんどの名作リストは男性を対象にしているとしても
北村紗衣についてネットで検索をかけていたら次のようなつぶやきに出くわした。北村紗衣の本の紹介のようだ。つぶやきの下には、北村紗衣の本の写真が添付されている。以下に引用してみよう。
【世の中のほとんどの名作リストは男性を対象にしているのですから、あえて女の子のためのおすすめリストを作ることは意味があると思っています。 ー『女の子が死にたくなる前に見ておくべきサバイバルのためのガールズ映画100選』(北村紗衣)本屋ルヌガンガ@lunugangabooks】
この文章を見て、私は今まで感じてきた嫌な感じを味わった。もっとも世間の人間はこの程度の理屈で満足だというのも常々痛感してきたので、今更驚く事はない。
このつぶやきをしている人を「本屋ルヌガンガ」というアカウントで、フォロワーが一万超いる。また、このつぶやきは2024/11/27時点で、リツイートが2053、いいねが18444ついている。要するにかなりの共感を集めている。
私が疑問なのは「ほとんどの名作リストは男性を対象にしている」という点だ。本当にそうだろうか?
名作というのは女だろうが男だろうが、どういう国の人であろうが、それらの人間の本質を貫くものだからこそ名作であるので、名作リストが男性を対象に作られていようが、「女性」のあなたの地点から名作を勝手に読んでいけばいいじゃないか、と私は思う。
しかしこの本屋ルヌガンガという人は名作がどうのこうのではなく、「名作リスト」の作り方に文句をつけているのかもしれない。しかし名作リストが男性の為、女性の為などという風に作られている事そのものが馬鹿馬鹿しいではないか。
もちろん、本当はこんな風にまともに怒る方が間違いである。そもそも、北村紗衣という映画も小説も表面的にしか読解できない人物を称賛している地点で、名作がどうのこうのという人ではないのは知れている。
私は試しに本屋ルヌガンガのアカウントを覗いてみたが、最近の軽い本ばかりを紹介していて、名作と深く向き合った印象は全く受けなかった。この手の人にかかれば、現代の軽い作品も名作という事になり、それこそ北村紗衣ですら名作の担い手という事になるのかもしれない。
それにしても「世の中のほとんどの名作リストは男性を対象にしている」とはどういう事なのだろうか?
女性のエミリー・ブロンテが描いた「嵐が丘」は女性が書いた女性の為の作品なのだろうか? もしそうだとしたら、主人公の悪漢(ちなみに男)のヒースクリフの暗い情熱は、女性にしか描けない代物なのだろうか? 主人公は男であるがそれを理解できるのは女性だけなのだろうか?
「名作リストが男性を対象にしている」というのは、女性はそういうリストにある名作はつまらなくて読めないという事なのか。読んでも意味がないという事なのか。
それとも女性は、女性の為の作品しか読みたくないという事なのか。あるいは男性が男性の為の作品を紡いできたのが、この世界の歴史的な名作の全てという事だろうか。
まあ、おそらくこれらの人が言いたいのはそういう事だろう。しかしこれらの人はプラトンを真剣に読んで「うむ、これは男性が書いた男性の為の本だ」などと真剣に判断してきたのだろうか?
ふーん、そうか、と私は思う。ならば、私が、エミリー・ディキンソンの詩に感動したり、エミリー・ブロンテの小説、シモーヌ・ヴェイユの言葉に感激したりするのは、私が男性である故に間違った感情なのだろうか?
※
…さて、もちろん、こういう人達に本気で腹を立てても仕方ない。こういう人達は私のような文学オタクなどどうでもいいからだ。
こういう人達が向いて話しているのはもっとライトな人達なのだ。プラトンだのシモーヌ・ヴェイユだのは知ったこっちゃない。それよりも現代の軽い本を読んで楽しくおしゃべりしましょう、という事なのだろう。
そんなわけで、これ以上腹を立てても仕方ないので、本屋ルヌガンガという人は忘れて、私は私の言いたい事を書こう。もっとも私が腹を立てているのは、こうした薄くて軽い理屈で歴史的に紡がれた名作を一刀両断できると考えている点にある。
例えば、バッハの音楽を考えてみればいい。バッハはキリスト教徒であり、西欧人である。それならばバッハは「キリスト教の西欧人の為の音楽」なのだろうか?
私はこんな風に考える。バッハの音楽はバッハのパーソナリティや、バッハ自身の属性を越えて開かれた普遍的なものである。というより、そうした普遍性を開いていくという行為こそが、我々がバッハの音楽を「聴く」という事なのだ。
だから誰かが「あなたは西欧人でもキリスト教徒でもないのにバッハを理解できるのですか?」と聞いてきたら、私は次のように答える。
「いえ、私のような異邦人でも理解し、感動できるからこそバッハは偉大なのだと思います」
女の為とか男の為とか、どれだけせせこましい事をやっているんだと言いたくなる。もっとも、女性が虐げられてきたという歴史的事実はあるのでそれ自体はそれなりに正当性はあるのだろう。
しかしそれをあらゆる領域に展開して全てに対して「女」とか「男」のレッテルを貼らないと気が済まないというのは、それこそかつて「男」達がやってきたイデオロギーの暴虐と変わらない。
バッハの件についてもう少し踏み込んで言うなら、東洋の現代の日本人である私がバッハに感動するという事、そこには批評という創造行為がある、という事になる。
おおよそ、フェミニストだの共産主義だの保守主義だのといった主義に凝り固まった人達には想像もできないだろうが、作品を読解し、批評する事とは作品に内在する可能性を実現する事なのだ。
それはバッハにおける普遍性、その美を取り出し、我が物とする事だ。
バッハの音楽について私が語るという事は、それだけで、バッハの音楽、音楽家としてのバッハが一時代の一地域に縛られる存在ではない事を証している。
批評とは作品をイデオロギーで縛り付け、自分の頭で考えられず、自分の属性を拠り所にする精神の弱い人々に媚びる事ではない。むしろ批評とは作品をイデオロギーから解放するものなのだ。
私がバッハの音楽を聴き、バッハについて語るとはそういう事なのだと思う。バッハが男である事がなんだろうか。バッハの音楽を聴いているあなたが女である事がなんだろうか。
何のリストを指しているのか知らないが、仮に男性が作った男性の為の名作リストがあったとする。しかしそのリストに載っているのが真に名作なら、それは女性の「あなた」をも感激させる作品でなければならない。
女性のあなた、女性の視聴者、女性の読者であるあなたは、仮にその名作が男性が作った男性の為の作品だとしても、それが名作である限り、それは時代や地域、性別を越えた普遍性を持つはずだ。そして女性のあなたがその普遍性を開くような読み方をしていけないわけがないだろう。
女性の読者であるあなたが、そういう読み方、聴き方をするなら、その時あなたは女性であるという属性を越えてもっと大きな歴史的普遍性に参与しているのだ。私はそう思う。
※
バッハの例だけではわかりにくいのでもう一つ例を出そう。
正直に言うと私はそこまで評価もしていないし、好きでもないのだが、わかりすい名作の構造を露呈していると思うので、ヘミングウェイの「老人と海」を例に出そうと思う。
「老人と海」のストーリーは単純だ。以下ウィキペディアからの写し。
【キューバに住む一人の老漁師が84日間もの不漁の後、巨大なカジキを3日間にわたる死闘の末に捕獲するが、その後にサメに襲われ、獲物を食い尽くされてしまうという話】
ストーリーとしては単純だ。
この作品は、ある種の人達が読むと「男性による男性の為の作品」という事になるのだろう。それに付け加えれば「男性の老人」の為の作品という事になりそうだ。
しかしこの作品が、最近の日本のシルバー保守主義のように、「男性老人による男性老人の為のもの」であったなら、この作品は決して名作とは呼ばれなかっただろう。
ヘミングウェイがこの作品で表現しようとしたものは、作品のストーリーと同じように単純だろう。老人は海でカジキと戦い、サメと戦う。老人は何も得られず、徒労のまま家に帰る。
この短い作品で表現されているのは人間の人生そのものだろう。人間の人生というのは何かと戦い、得られたものは最後に失われ、そうして全ては終わるのだ、という事だ。
しかしこの戦いが徒労で終わるから全てに意味はないのかと言えば、そうではない、戦う事自体に意味があるとも読める。このあたりは、人生は全て無為だとも考えられるから、両義的に読め事が可能だろう。
もう少し視点を近くすると、これは老いを描いた作品だ。人は老いるが、老いと、自然と戦うのが老いた人間の生き方だ、という事だ。老人がカジキと、サメと戦うのは、老人自身が自らの老いと戦っているという事でもある。
「老人と海」は単純な構造をしているので比較的説明しやすいが、こうした「名作」において、作品は具象的な事柄ではなく、その奥に抽象的な領域を残しているのがわかる。
「老人と海」を女性が読んで「私は男のように戦わないから関係ないわ」という人がいたとしたら、それは盲目だ。「老人と海」は、人生とは戦いであり、それは徒労に終わるがそれでも戦わなくてはならないというそういう人間の運命を描いたものだろう。
女性にも女性特有の戦いがあるだろうし、女性がどうというのはではなく、女性もまた一人の人間だから、一人の人間としての戦いを人生の中に見出していかなければならない。
そしてその全ては結局は老病死という何の意味もない事へと結実していく。それは仕方ない事だ。しかしそういう運命は女性に限らず男性に限らない。
名作というのはおおよそこういう風に、深い抽象的なイメージをその奥に隠し持っている。それ故にそれを現実の自分に還元して生きる糧にする事ができる。
浅く軽い本は浅く軽く自分を慰めてくれるだけだ。それでいいというのなら別に構わないが、浅い軽い現代の論理で名作を断定するのはやめて欲しいと私は思う。人間の形作ってきた歴史全体を「男性優位」という一言で一刀両断にはできない。
…いや、本当はそうではなく、仮に歴史全体、名作というものが全て男性本位であろうと、現代に生きる女性が、そうした作品を自らにも開かれているものとして理解する時、そうする事によってそれらの「男性優位」のイデオロギーの呪縛が解かれ、女性と男性を越えた人間的な真実に、過去の様々なものを還す事ができる。そう考えた方が良いだろう。
そしてそれができれば、「男性向けの名作リスト」などという概念は不要になる。本来的に目指されるべきはそういうものだろう、と私は思う。もちろんそんな事をやろうというもの好きはほとんどいないのを私は十分知っている。
それぞれが小さな自分の穴に閉じこもって、自分を利してくれるものをじっと待っているのだから、それらの人間に「共感」できる小さな代物を作る方がありがたがられるだろう。しかしそれら全ては人々の小さなパーソナリティに見合った実に小さな小細工であり、名作として歴史に残る事は決してない。




