第55話「万代宮にて」
蓬王朝の皇帝が住まう宮殿――万代宮は、蓬王朝が建国されてから建てられたものではない。
万代宮ははるか太古――人と神とが完全に分かたれていない伝説の時代から存在し、歴代王朝の皇帝たちはそこに住まうのが常であった。時には王朝が分裂したり並立したりする事もあったのだが、最終的に統一された際は万代宮を拠点としている。例外はこれまでの歴史を紐解いても見当たらない。
こうなると、皇帝が万代宮に住んでいるというより、万代宮を支配する者が皇帝と言っても良いのかもしれない。民草にもその様な認識があり、それまでは時の王朝の苛烈な支配に対して大人しく従っていたとしても、皇帝が遷都をして宮殿を替えたとすると、即座に反乱を起こしたりした例が過去に幾度となくある。不思議な事に、反乱を起こしたのは都の民だけでなく辺境の民も含めてだ。それも互いに呼応した形跡はなく同時多発的にである。不思議な偶然であるが、このことを重視する賢明な皇帝たちはどれだけ宮殿が古くなろうとも、決して宮殿を替えるなどとは言いださないのであった。
もちろん修繕は繰り返されており、太古の宮殿がそのまま残っている訳ではない。増築される事や大規模な改修がされる事もある。
修繕が施された時代の様式が混在しており、さながら枢華世界の歴史が詰め込まれた歴史書の様でもある。中には辺境の遊牧民が王朝を築いた時の様式も残っている。これらを全て受け入れる懐の深さこそが、枢華世界を支配した王朝がそれぞれの時代で世界に影響を与える大国であった証なのかもしれない。
そんな万代宮に侵入した者がいた。
万代宮の警備は万全である。これまでの歴史で賊が侵入した例は極めて稀であり、その際も内部に協力者がいての事だ。
最近は反乱騒ぎがあったが、これは王朝の内部に何代もかけて臣下として浸透していったからだ。その彼らとて外部からの手勢を引き入れる事が出来ず、事が露見した時に一人の将軍と偶然参内していた一人の娘によって壊滅的な被害を受けてしまった。この事は、万代宮が外部の敵をどれだけ阻めるかを示している事象だ。
万代宮を守る禁軍は統率がとれ、精鋭揃いである。彼らを正面突破する事は不可能に近いし、監視の目を掠めて侵入する事も容易ではない。今は夜であるが、それくらいの事で警備は緩んだりしない。
だが、現に一人の男が侵入してしまったのだ。
その男、背丈の何倍もある城壁を難なく飛び越え、しかも宮殿内に着地した時も全く音を立てる事は無かった。まるで神通力を備えた仙人の様である。もっとも、この男を見たとしても仙人だと思う者はおるまい。外見は長身の優男であるが、その体格は意外とがっしりしている。服装はボロボロであるが、元は高価な仕立てであった様であり、見る人が見ればそれを判断できるだろう。ここまでなら仙人にもありそうな外見だ。何も仙人が全て枯れた老人では無いからだ。
仙人でないと印象を与えるのは、その雰囲気だ。仙人は俗世間から超然とした者もいれば、意外と俗っぽい者と幅広い。だが、共通して言えるのは、清浄な霊気を纏っている事である。これは、何の修業も積んでいない常人にも本能的に感じ取れることである。
それに比べてこの男が纏う空気は正反対である。
澱、歪、腐、汚、鬱
そんな言葉が自然と頭の中に浮かんでくる様な雰囲気だ。そして見ていると、いつの間にか自分も取り込まれてしまいそうになるだろう。
警備の兵が遭遇しなかったのは、本来ならば失態であるが、実質的には幸運であった。
この男、蚩尤と呼ばれている。依り代となっている男は単なる人間であるが、入り込んでいる蚩尤は本来神の座にいる存在だ。その力は万全でなくとも、兵士の百や千位は造作もなく粉砕するに違いない。
夜で人気の少ない万代宮の中を、蚩尤は悠々と進んで行った。夜間とはいえ世界の中心とも言える宮殿の内部である。警備兵の巡察もあるし、夜間に勤務する役人もいる。そのいずれとも出くわさないのは蚩尤が発している妖気によって、本能的に避けてしまっているからなのだ。
そのため蚩尤は何の妨害も無く、目的の場所まで進もうとしていた。
いや、蚩尤の前に立ち塞がる人影が二つ現れた。
「ここから先には進ませないぞ。蚩尤」
「あなたには、また封印されてもらいます」
「ほう。我が前に畏れる事無く出てくるとは、貴様らただの人間では無いな? 鬼の類か。どうやら冥府の者ども、我の復活で屍人が冥界に溢れるのが嫌らしい」
蚩尤の前に現れたのは、少年と少女であった。言わずと知れた、袁閃月と劉陽華である。二人は冥界から現世に戻ると、蚩尤が万代宮を目指していると予想をつけ待ち構えていたのである。
「って、なんかあいつ見覚えが無いか?」
「そうね。呉開山に見えるわね」
蚩尤が封印された墳墓に何者かが侵入し、体を乗っ取られる事で蚩尤が復活したと二人は聞いていたが、まさか見知った人物がそうだったとは予想外であった。
「くくく、どうやら我の依り代と知己の様であるな。我の完全復活を阻みに来た様であるが、この体に攻撃出来るか……ぬうっ!」
「知った事か。お前を止めなくては世界が危険なんだ。手を抜くわけがないだろう」
「そうね。それにそいつはどうでもいい奴だし、ちょうど良かったんじゃないかしら? 別の人だったら少し躊躇したかもね」
「貴様ら、巫山戯ているのか?」
「まさか。そんな余裕は無いし、必死なだけだ。さあ、どちらかが力尽きるまで付き合ってもらうぞ!」
閃月は金鞭を構えると、一気呵成に蚩尤に仕掛けていった。
 




