第十二話 詩恩くん、隣人に諭される
翌日、目覚まし代わりのアラームの音で僕は目が覚めた。時刻は朝の六時半と、休みの日にしては早い時間だ。この時間に目覚ましをかけたのは、起きてから洗濯と掃除にどのくらいかかるかわからなかったからだ。
(さあ、まず最初に空気の入れ換えからやりましょうか)
部屋の換気のためカーテンと窓を開けると、早朝の風が部屋へと吹き込んできて僕の頬を撫でた。風は思ったよりも冷たかったが、その冷たさが心地よかった。換気している間に蒲団を畳み押し入れにしまい、寝ている間邪魔になるので立て掛けてあった一人用の小さなテーブルを設置する。
(これで朝の準備が出来ました。あとはご飯が炊けるのを待つだけですね)
炊飯器からピーッという電子音がする。どうやら炊けたみたいなので蓋を開けご飯を茶碗へとよそった。見た感じではふっくら炊けたように思えるが味はどうだろうか。そう思い一口目を口に運んだのだが、すぐに嘔吐いてしまう。
「うぇぇ、洗剤の味がします......」
口の中に広がったのは、米の味ではなく食器洗い用の洗剤の味だった。一体何故そんな味がするのか、心当たりを探ると一点思い当たる節があった。
(そういえば炊飯器を使う前に一度上蓋と釜を洗いましたね)
しばらく使ってないので、使う前によく洗えと言われたのでそうしたのだが、恐らくそのときに上蓋か炊飯釜のどちらかの洗剤を流せてなかったのだろう。さらに米を研いでいる時点では泡だっていなかった事実を鑑みて、多分上蓋の方が原因だろうと思われる。ただそうなると現在炊飯器の中にある米はすべて駄目になっている可能性が高い。
(もったいないですけど、仕方ないですよね)
食べ物を粗末にしたくないけれど、無理して食べて食中毒になるのもよくない。二度と米炊きを失敗するものかと心に刻み込み、僕は炊飯器のスイッチを切ってから洗剤味の米を全量廃棄した。
(はぁ、気を取り直して他の家事をしましょうか)
落ち込みつつ米を炊き直し、掃除と洗濯に取り掛かったのだが、洗濯機に洗濯物と洗剤を入れ、スイッチを押すのと同時にインターホンが鳴った。
(こんな朝早くに、どなたでしょう?)
一応桔梗ちゃんに町を案内して貰う約束はしているけど、予定は一時間後だ。そうなると誰か来たのだろうか。玄関の戸を開けると、そこには千島先輩が立っていた。
「おはよう桜庭」
「千島先輩、おはようございます」
「昨日はよく眠れたか? 俺が帰ってからの物音で眠れなかったとか無いよな?」
「大丈夫ですよ。そのときには熟睡してました」
昨日千島先輩がバイトから帰ったときには、すでに僕は眠りに就いていた。恐らく引っ越しの疲れが溜まっていたのだろう。
「そうか。バイトがあるときは大体あの時間になるから、お前には迷惑をかけることになる」
「構いませんよ。昨日は寝てましたけど、あの時間なら普段は起きてますから迷惑じゃないですよ」
「そう言ってくれると助かる」
「いえいえ。僕からも一ついいですか?」
「何だ?」
せっかく千島先輩の方から訪ねてきたのだ、このチャンスを逃す手は無い。彼に助けられた恩は、感謝の言葉一つで終わらせられるほど小さくないのだ。
「千島先輩、困ってることとか僕にして欲しいことはないですか? 恩返しがしたいです」
「そう言われても、俺としてはお前に礼を告げられた時点で終わった話だからな。まあ困っていることならあるが」
「あるんですか? 出来ればでいいのでお教えいただけますか?」
「ああ。だがその前に」
千島先輩は一度言葉を切り、僕に向けて人差し指を突きつけてきた。
「俺のことを恩人じゃなくて、鈴蘭と同じように普通の先輩として扱え。それが約束出来ないなら教えない」
つまり千島先輩のことを恩人として扱うと、彼に対する恩返しが出来ないということになる。先輩のことを困らせるのは本意ではないので、素直に従うことに決めた。
「わかりました。これからは千島先輩のことを、普通の先輩として接しますね」
「それでいい。それで本題だが、後輩から恩返しをさせて欲しいと迫られていて困ってる。しかもその後輩は女子にしか見えない上に、乱れたパジャマ姿で玄関に出るほど無防備なやつなんだ」
「えっ、ああっ!!」
言われて初めて、パジャマの前が大きくはだけていることに気付く。これは困って当然だ。急いで服を整え、千島先輩に平謝りする。
「すみません。お見苦しいものをお見せしました......」
「まったく、俺や彩芽さん、時水さん以外の男にそんな姿見られたらお前襲われるぞ?」
「以後、気をつけます」
「わかってるならいい。それとだ、義理堅いのは結構だがほどほどにしろよ」
「と、言いますと?」
「恩返ししたいって思っている間は、相手にどこか遠慮があるってことだからな」
言われてみるとそうかもしれない。だとすると、千島先輩以上に桔梗ちゃんに恩返ししたいと思っている僕は、きっと彼女にものすごく遠慮しているのだろう。
「もっとも、俺も偉そうに言えた立場じゃないがな。長話したな。それじゃ、またな」
「ええ」
彼が去り際に呟いた言葉には、やたらと実感がこもっていた。千島先輩も不器用そうな人なので、僕がここに来るまでに色々あったのかもしれない。そう思いつつ、僕は部屋に戻り着替えてから家事の続きをしたのだった。
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