第百六話 詩恩くん、終業式を迎える
テストのお疲れ会から一週間近くが経過した。あの日から交際し始めた紫宮さんと近衛くんの関係は順調に進んでいて、家の人からも交際を認められたそうだ。ただ、彼らも節度ある付き合いをするよう忠告されたらしく、学校ではこれまで通りの主従関係を続けている。
(下手を打てば別れさせられるどころか、近衛くんが解雇されるでしょうからね)
正々堂々を信条としている紫宮さんも近衛くんと別れるのがよほど嫌なのか、己の信念を曲げ何も無かったかのように振る舞っている。
(お二人も大変ですね)
もっとも今日からしばらくの間、そういった心配をしなくてもよくなるのだが。何故なら今日は一学期の終業式で、現在進行中の式とHRが終われば夏休みに入るからだ。僕も桔梗ちゃんと過ごす初めての夏休みを楽しみにしていて、気もそぞろになっているくらいなのだ。
(それにしても、もう十分くらい話してますね。外じゃないだけマシですけど、蒸し暑さでボンヤリしてきました)
終業式の定番である、校長先生のありがたい話がさっきから続いている。それも何度も話が脱線するため非常に長引いていた。本日は朝から蒸し暑く気温はすでに三十度を、湿度も八十パーセントを越えて非常に蒸し暑い。冷房も稼働しているけど僕達のいる場所には届いておらず、周囲の生徒達は汗を拭っていたり、校長先生に悪態をついていた。
(せめて椅子くらい準備して欲しかったです。僕でさえ辛いですから、桔梗ちゃんはもっとでしょうね)
ふと心配になり隣の桔梗ちゃんに目を向けると、青ざめた顔と虚ろな目をしてふらついていた。話が始まるまではいつも通りだったのに、たった数分の間で体調が悪化したようだ。まずいと感じた僕は急いで保健の先生を目で探したが時既に遅く、ポスンという音と共に僕に寄りかかるようにして桔梗ちゃんは倒れぐったりとしてしまった。
(き、桔梗ちゃん!? と、とにかく急いで休ませないと!)
僕はすぐさま身振り手振りで近くにいた天野先生に状況を伝え、駆けつけた保健の先生と一緒に応急処置を施したあと、桔梗ちゃんを負ぶって保健室へと連れて行った。先生の指示の元背負った桔梗ちゃんをベッドに寝かしつけた。
「呼吸は問題なし、脈も安定してるから異常もないわ。しばらくしたら起きると思うから、様子見てて」
「わかりましたけど、先生はどうされるのですか?」
「この暑さだし他にも貧血になる生徒が出るかもしれないから向こうに戻るわ。悪いけどあとはよろしく」
そう言い残し先生は僕に桔梗ちゃんのことを任せ、慌ただしく体育館へと戻っていった。桔梗ちゃんの症状が深刻でないことがわかってようやくひと息つくが、同時に僕はある事実に気付いた。
(つまり、保健室はしばらく僕と桔梗ちゃんの貸し切りなんですよね)
だからといって何もするつもりは無い。精々起きた彼女と話をするくらいだ。全校生徒が体育館にいるため、普段はどこかしらから聞こえてくる喧噪も今は無い。完全に静寂に包まれた保健室で、僕は眠る桔梗ちゃんの髪をそっと撫でた。
「んっ......」
「桔梗ちゃん?」
「あれっ、ここは......」
「保健室です。桔梗ちゃんが終業式の途中で貧血になったので運んできました」
目覚めた桔梗ちゃんに今いる場所と、そうなった経緯を伝える。彼女からも話を聞いてみたところ、かなり早い段階で意識にもやがかかっていて、倒れたことすら覚えていないらしい。
「すみません、ご迷惑をおかけしまして」
「いいんですよ。ですけど、そういうときは早く言ってください。言うのが難しいなら手を握るとかでもいいですから、とにかく何か僕宛にアクションを起こしてくださいね?」
「わ、わかりました」
貧血自体は不可抗力ではあるけれど、今後同じようなことが起きても大丈夫なよう、しっかりと釘を刺しておいた。彼女の返事は頼りなさげだけど、理解はしてくれていると思う。
「以上、お説教は終わりです。あとは保健の先生が戻るまで、話をしましょうか」
「あの、戻らなくてもいいのでしょうか?」
「いいも何も、無理してまた倒れたら大変じゃないですか。で、僕は桔梗ちゃんが動かないように監視していると」
もちろんこんなのは建前で、本音は面倒だし暑いから戻りたくないだけだ。それに学校で桔梗ちゃんと二人きりになれる貴重な機会なのだから、せっかくなら有効活用したい。
「しーちゃんって意外と不真面目なところありますよね?」
「否定はしません。ですが僕にとっては終業式よりも桔梗ちゃんが大事ですから」
「はぅぅ」
そもそも僕と桔梗ちゃんの関係を知っている人が多い上に、寄りかかるように倒れる瞬間も見られているのだから、ここで彼女を置いて式に戻ったらそれこそクラスメート達から、特に女子から袋叩きにされるのは間違いない。
「というわけですし、時間潰しに話でもしましょうか」
「そうですね」
終業式が終わって保健の先生が戻ってくるまでの間、僕と桔梗ちゃんはとりとめのない話をした。その後教室に戻り明日太達に桔梗ちゃんの体調に異常がないことを伝えたあと、HRで天野先生から通知表を受け取り夏休みについての注意事項を伝えられ、一学期の日程がすべて終了した。
「さてと、帰りますか桔梗ちゃん」
「そうですね」
「なら、坂の下まで一緒に帰るぞ」
「だね。蘭先輩達もだから、六人になるのかな?」
「ええ」
明日太達や雪片先輩達と一緒に六人で下校し、坂の下で明日太達と、アパートの前で桔梗ちゃん達と別れ、雪片先輩と階段を上る。
「なあ詩恩」
「何でしょう、雪片先輩?」
「今日から夏休みだ。することも多いだろうが、しっかり楽しめ」
「ええ。雪片先輩もですよ?」
「わかっている。それともう一つ言っておくが、早めに冷蔵庫は空にしておけ」
「? よくわかりませんが、了解です」
最後によくわからない助言をして、雪片先輩は自分の部屋に入っていった。元々夏休みの大半をアパート以外で過ごすことになるのでそのつもりだったけど、一体どういう意図だったのだろうか?
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明日から一話更新になります。




