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作者: 仁科悠三


「…研治…兄さん?」

と、背中の方から遠慮がちな声がした。半年ぶりに帰省した新潟駅前のスーパーでのことだった。研治が振り返るとそこに立っていたのは50代と思われる見覚えのない中年女性だった。太っているというほどではないが、ややふっくらとした体形にキリっとした整った面立ちをしている。

 「やっぱり、研治兄さんだ。…城之川研治さん…でしょう?」

そう言われて頷いたものの、研治には相手が誰だか皆目わからない。誰だろう…と記憶をたどり始めた途端、ヒントが頭にひらめいた。

 自分のきょうだいは二歳上の姉がいるだけである。妻にも妹はいない。これまでの生涯で自分のことを「兄さん」と呼んでくれたのはただ一人しかいない。

 「ひょっとして…美代子…か?」

 女性はうれしそうに大きく頷いた。

 「研治兄さん、久しぶり」

 「久しぶりだな。子供のころから会ってないからもう50年近くになるか」

 「そう、研治兄さんが東京の大学に行ってここを離れてからは会っていないはずだから45年くらいは経ってる」

 「そんなになるか。子供時代から一挙にオジサンとオバサンか。時間が飛んだなあ」

 「こんなオバサン面、研治兄さんには見せたくなかったんだけど、懐かしくて、つい、声をかけちゃった」

 「それはお互いさまだ。おれも還暦は過ぎた。そうか、あの美代子がこうなったか」

 「恥ずかしいからあんまり見ないで」

 「おれが東京に出た後、美代子んちも確か新潟から引っ越したんだったよな」

 「そう、あたしが中学二年の時、お父さんの仕事の関係で名古屋にね。研治兄さんは新潟に戻っているの?」

 「いや、新潟は離れたままだ。実家は残っているけど」

 「今はどこに住んでるの?」

 「神奈川の川崎」

 「あたしは東京の三鷹」

 「なんだ。近いと言えば近いじゃないか」

 「あ、声をかけておいてごめんなさい。あたしこれから、小学校の時の友達のお葬式なの。研治兄さんとはせっかく会えたからいろいろお話したいけど、今は時間がなくて………そうだ、今夜電話してもいい?」

 そういえば美代子は喪服姿だ。告別式の時間が迫っているらしい。

 研治と美代子はあわただしく携帯の番号を交換すると、その場は別れた。



 研治は現在62歳。高校を卒業するまで生まれ故郷の新潟で過ごし、東京の大学に進学した。卒業後は機械メーカーに就職、2、3の地方営業所の所長を務め、60で定年、今は再雇用で横浜工場の管理部門に週3回出勤している。30歳の時、営業所で一緒に働いていた同僚の加奈子と職場結婚した。その時加奈子は33歳。新潟の両親は初め3つ年上と言うことでいい顔をしなかったが、帰省するたびにきびきびと立ち働く加奈子を見て両親の評価は徐々に上がって、結局「良い人をもらった」ということに落ち着いた。

 現在加奈子は65歳。まだまだ老け込む齢ではないが、若年性の認知症が3年前から始まり、ケアマネジャーと相談の上、1年前から介護施設のお世話になっている。月に1度、1泊2日で自宅に帰ってくるため、研治もボーっとしていればいいというわけではない。帰宅時の世話くらいしっかりしないと罰が当たると思っている。

 研治と加奈子の間には30になる息子が一人。仕事の関係で広島に住んでいる。趣味の合唱サークルで見つけた嫁との間には2歳の一人娘、研治にとっては孫がいる。盆と正月くらいは川崎に帰ってきて欲しいのだが、足は遠ざかり気味だ。研治は今は川崎の一戸建ての自宅で一人暮らしをしている。

 新潟の実家は両親とも亡くなり、ただ一人の姉、幸子は新潟市内に嫁ぎ、時々空き家になった家を訪れて、窓を開けて風を入れたり、管が詰まらないように水道を流したりの実家の管理をしてくれている。しかし幸子の婚家は郊外で実家までは遠いため、いつまでも姉に頼るわけにもいかず、今回のように年に1、2回帰省して自分の目でチェックする。いずれは処分しなければならない実家だが、新潟の親戚の冠婚葬祭他帰省時に泊まる拠点として重宝している。

 美代子は57歳になっているはずだ。たしか斉藤美代子だった。研治とは家が近所の幼馴染ではあったが、やや齢も離れ、男女の違いもあって小さい頃に一緒に遊んだという記憶はあまりない。ただ、美代子が小学校に入学した時、新学期に一緒に登校してくれる上級生の役が6年生になった研治に回ってきたことがある。それくらいのつき合いである。一学期の前半だけの役だったが美代子はどういうわけか研治になついて、家の近所でも、学校でも研治の姿を見かけると「研治兄さん」と言ってすり寄ってきたものだ。研治は邪魔くさいような、迷惑のような、照れくさいような、それでいて幼いとはいえ女の子に好かれるという甘酸っぱい、まんざらでもない気持ちになったものだ。しかしそれも同じ小学校に在籍した1年ほどのことである。

 その後研治は高校を卒業して東京の大学に進学し、新潟を離れた。帰省した際に母親から美代子の家の話を聞かされた。斉藤家は研治が新潟を離れた1年後に父親の転勤で名古屋に引っ越したということだった。斉藤家の消息は研治にとって特に興味のある話でもなく、ふーんと聞き流した。というのが美代子について研治が知っていることの全てであり、長らく記憶の底に忘れられていた情報であった。



 美代子から研治の携帯に着信があったのはスーパーでバッタリ会った日の夕方6時半過ぎであった。

 研治は5時過ぎに実家の風呂を沸かして久しぶりに実家で入浴した。子供の頃の浴槽はタイル貼りだったな、今のバスタブに取り換えたのはもう20年以上前のことになるかな、などとゆったりと昔の記憶をたどった。差し込むまだ明るい春の陽光を浴びながら、自分の裸を点検、まだ年寄りの身体にはなっていないことを確認した。

 風呂から上がって、姉の幸子が昼に持ってきてくれた夕飯のおかずを肴にビールを飲んでいるタイミングでの美代子からの電話であった。

 「もしもし、研治兄さん?」

 「おう、美代子か。いや、美代子さん、と言うべきかな」

 「昔のままの美代子でいい。よかった。電話に出てくれて」

 「うん、今風呂から上がって一杯やっているところだ」

 「そう、晩酌のお相手してあげられればいいんだけどね。あたしもお酒好きだから」

 「なに、いいさ。美代子も葬式だったんだろう、お疲れさん」

 「うん、最後まで付き合ったからくたくた。夕食は本当は外においしいものを食べに行きたかったけど、やめ。コンビニで弁当と缶ビールとご褒美のスイーツを買ってきたからこの電話の後でお風呂に入ってから一人で寂しく食べるつもり」

 「そうか。ご苦労さん」

 「…ところで、あらためて研治兄さん、お久しぶりでした。あんなところでバッタリ会うなんてすごい偶然。あたし久しぶりの再会に興奮して、葬式の間中もずーっと研治兄さんのことを考えてた」

 「大げさだな」

 「でも研治兄さんの高校の時までのことしか知らないのよね、あたし。そのあと、研治兄さんがどんな人生を送って来たかは全く知らない。研治兄さんのこと知りたい…聞かせて…」

 「おれのこと?」

 「そう、新潟を出てから今までのこと全部」

 「たいして面白くないと思うけど」

 「いいの。聞かせて」

 研治は美代子が知らない大学時代から今までの半生のことをかいつまんで話した。

 美代子は研治のこれまでと現在の状況を一通り理解した。

 「そっかあ。研治兄さんのとこは奥さんが大変なんだね」

 「まあ、でも慣れたよ」

 「これから年を取っていくと大変よ」

 「うん、それは覚悟しないといけないな。娘は遠くにいて当てに出来ないし」

 美代子は今どんな生活を送っているのだろう、と美代子への興味が湧いてくる。

 「美代子、子供の時から50年近く経っているのに今日スーパーでよくおれだってわかったな」

 「ああ、それはね、研治兄さんあの前に電話してたでしょ?」

 「うん、会社から仕事の件で問い合わせの電話がかかってきたんだ」

 「電話に出た時の、はい、『城之川です』って声が聞こえたのよ」

 「そうか」

 「あたしドキッとして声の主を探したの。城之川って苗字、このあたりでも珍しいんじゃない?あたしはここに長くは暮らさなかったけど」

 「そう言えばそうだな。おれも親戚以外では聞かない苗字だ」

 「あたしにとって城之川と言えば研治兄さんしか知らないから。でも他の城之川さんかも知れないから電話中の研治兄さんをじっと観察していたの」

 「ちっとも知らなかった」

 「しゃべり方、声の調子、姿勢、何よりもにじみ出る雰囲気があの頃のカッコいい研治兄さんそのものだったから本人だって確信して、電話が終わるのを待って思い切って声をかけたの」

 「そうか、よく声をかけてくれたな、美代子」

 研治は本当に妹がいるような気持になる。


4


 「それで美代子の方は名古屋に行ってからどうしたのかな?」

 「あたしのことなんてつまらないです。ごくありふれた人生」

 「そんなことはない。どんな人生でも本人にとっても周りにとってもかけがえのない人生だ」

 「そうかしら」と言いながらも美代子は自分のこれまでを電話口で語り始めた。

 中学2年で名古屋に引っ越した美代子は郊外の公立中学校、県立高校と進み、卒業後は京都の短大に進学した。京都で一人暮らしを始めて1年経ったころ、父親は再び転勤となり母親と共に横浜に引っ越した。京都と名古屋の間は新幹線だとすぐなので美代子はしょっちゅう両親のもとに帰っていたが、横浜ではそうもいかず、美代子も両親も少し寂しい気がした。斉藤家の子供は美代子一人だった。

 短大を卒業した美代子は東京の信用金庫に就職し、横浜の親元から通勤した。当時の金融機関では女子社員は親元通勤が条件だったのだ。23歳の時6つ年上の同僚と恋愛結婚し、坂下美代子となり、家庭に入った。上が女、下が男の2人の子供にも恵まれ、美代子が30の時に夫婦は三鷹市にマンションを購入した。

 「順調な人生じゃないか」

 「ここまではね」

 「娘は順調に大学を出て、さっさと結婚して今は札幌に住んでる。子供はあまり欲しがってないみたい」

 「そうなんだ。で、息子さんは?」

 「こっちの方なのよ、問題は」

 「問題?」

 「元々繊細な性質だったんだけど、高校2年の時不登校になってしまって。先生とうまくいかなかったみたい」

 「そうか」

 「不登校の生徒を受け入れてくれる高校を探してなんとか高校は卒業したんだけど、大学には行かずじまい。今では会津塗りの職人のところに弟子入りして住み込みで頑張っている」

 「会津塗りの職人?へーえ、それはまた」

 「本人が見つけてきて、やりたいって言うから」

 「ふーん。立派じゃないか、息子さん」

 「本人には職人の手仕事が合ってるみたい。たまに帰ってくると目が活き活きとしてまるで別人」

 「よかったじゃないか」

 「そう。よかった。やっと彼は自分の居場所を見つけたんだと私は思っている。食べて行くのは大変だと思うけど」

 「じゃあ、今は旦那さんと二人暮らしなんだ」

 「それがね、亭主は病気で3年前にあっけなく逝っちゃったのよ。今はのびのびと一人暮らしを楽しんでます」

 「なんと。それはそれは。美代子も苦労したね」

 「人生いろんなことがあります。研治兄さん」

 「あるだろうね、お互い。多分これからも」

 「なんだかあたし、研治兄さんの前だと自分を良く見せようとか、恥ずかしいから隠そうとかそんな気持ちにならない。なんでも正直に言えるような気がする」

 「うん、おれも美代子には何でも包み隠さずしゃべれそうな…そんな気がしてきた」

 「不思議ね、あたしたち」

 「なんなんだろう」

 「それで、今回こっちに来たのは?お葬式とか言ってたけど」

 「小学校の時に仲良くしていた女の子がいて、年賀状もずっとやりとりしていたその友達が一週間前にガンで亡くなったのよ。自分の死期を悟っていた彼女は、娘さんに自分が死んだらあたしのところへも知らせて欲しいって言い残していたらしいのよ。娘さんから連絡をもらってあたしは今日のお葬式に参列するために東京からやって来た、というわけ。昨日の夜に新潟入りして、駅近くのビジネスホテルに宿を取って、今そのホテルの部屋から電話してるの。でも、研治兄さんと同じタイミングで新潟に来るなんてね。」

 「そうか、美代子はこっちにはいつまでいるんだ?」

 「明日、東京へ戻るつもり。研治兄さんは?」

 「両親の墓参りとかやるべきことはやり終わったから、おれも明日帰る予定だけど…」

 「そう。じゃあ…研治兄さん、一緒の新幹線で帰ろうか?」

 一瞬、施設にいる妻の顔が浮かぶ。妻以外の女と一緒に旅するという微かな背徳感。でも同じ新幹線に乗るだけの話だ。どうということはないではないか。美代子もそこまでのことも思っていない軽い提案だろう。

 「…それもいいかもな…」と研治が同意しかけると美代子がさえぎり、

 「あ、いや、そうだ、その前に研治兄さん、帰るの一日遅らせられる?」と美代子。

 「明後日予定はある、しかし変えて変えられないこともないが…なんだ、いきなり」

 「あたしも帰りを一日遅らせるから、明日新潟で………デートしない?晩ご飯をゆっくり食べてもう一泊し、明後日一緒に帰る。どう?」

 どう、たって美代子はともかくこっちは別居しているとはいえ妻のいる身だ。時間さえ許せば大丈夫という問題でもない、とも思ったが、ここは勢いで美代子につきあうのも悪くないと思い直し、

 「まあ、いいけど」と研治が答えると美代子はこっちの気持を見透かしたのか、

 「たまには、仕事のことも家庭のことも全部忘れて命の洗濯をしたほうがいいのよ。せっかくのチャンスなんだから」と畳みかけてくる。

 研治は「わかった」と返事をし、明日の待ち合わせ場所と時間を取り決めて電話を切る。時計を見ると7時半を回っている。長い電話になった。携帯電話を充電しなければならない。

 研治は会社に電話し、まだ残業していた同僚にこっちの滞在が延びたので明後日は出社できない旨を伝えた。さらに姉の幸子に連絡し、高校時代の友達と明日の夜飲むことになったということにして実家にもう一泊することを告げた。そして明日も明後日も幸子は実家に来る必要はないことを伝えた。



 翌日朝、研治は待ち合わせ場所である美代子が泊まっているホテルへと向かった。実家から歩いて30分ほどの道のりである。美代子は早くもロビーのソファに座って待っていた。上は春らしいクリーム色のブラウスに青が基調のチェックのジャケット。下は細身のジーンズ。よく似合って40代と言ってもおかしくない。美代子の姿は黒一色の昨日と違って研治の目には少しまぶしい。後刻フェリーの中で研治が美代子の服装について「春らしくて若々しい」と褒めた時、美代子は「旅の目的はお葬式だけど、せっかくだから久しぶりの一人旅を楽しもうと思って道中はこんな格好で来たの。今日のデートにピッタリでよかった」と嬉しそうに言ったものだ。

 ロビーに入って来た研治の姿を見つけた美代子は「おはよう」と手を振る。

 研治は「おはよう。さてどこへ行こうか」と美代子の向かい側のソファに腰を下ろす。

 「あたし、あれからいろいろ考えてみたんだけど、丸一日あるからやっぱり佐渡にしない?」

 「佐渡か、いいね。久しぶりだ。美代子に任せるよ」

 佐渡には子供のころから何回も行っているが、もう何十年も行っていない。最後に行ったのは20歳の時に大学の友人を案内した時だったか。

 「ここのホテルでも日帰りツアーのチケットを購入できるんだって。そうする?」

 「ツアーは楽でいいね。そうしよう」と研治は賛成し、フロントで2名分のツアーチケットを購入する。フェリーは1時間後に新潟港を出港する。二人はタクシーでフェリーターミナルに向かう。

 佐渡の両津港でフェリーを降り、待っていた観光バスに乗り込む。定番ながら佐渡金山跡見学や、たらい船体験、窯元や酒蔵巡りなど昼食をはさんで盛りだくさんの観光コースだ。

 春陽5月の観光シーズンに妻ではない女性連れで佐渡観光を楽しむという昨日まで思いもよらなかった展開に研治はまだ気持ちがついていかない。今の状況をにわかに信じかねている、と言うのが正直なところだ。同行した他のツアー客から見たら自分たちはどのように見えているのだろう。長年連れ添った熟年夫婦が仲良く佐渡観光しているようにしか見えないはずだ。でも実態は昨日、44年ぶりに偶然再会した幼なじみなのだ。「不倫」と言うわけではない。ただ、少しばかりの後ろめたさはある。しかしそれを上回るドキドキ感と高揚感もある。美代子もさすがに「研治兄さん」と呼びかけるのは控え、「研治さん」とか「ねえ」と呼びかける。美代子も他人の眼を意識しているのだ。

 フェリーは夕方6時過ぎに新潟港に戻ってツアーは解散した。夕食にはちょうどいい時間だ。港からタクシーで今夜の夕食場所に向かう。昨夜のうちに選んでおいた少し格式のある料理屋だ。本当はもっと庶民的で地元の呑兵衛にも人気のある居酒屋にしたかったのだが、万一、知人に出くわすとまずいと思い、その店を選んだのだ。今から考えると美代子と会うことに人の目を避ける隠微な気持ちがすでに昨夜のうちから働いていたのかもしれない。

 日本海の海鮮が自慢のその店はもう半分くらいの席が埋まっていたが、奥の小座敷が空いていたので二人はそこに腰を落ち着けることにした。



 子供の頃の美代子しか知らないので、もちろん一緒に酒を飲むのは初めてだ。美代子はぐいぐいと盃を空けた。日本酒が好きなようだ。新潟は酒どころでもある。旨くないわけがない。

 「ちょっとペースが速いんじゃないの」と注意すると、

 「大丈夫。あたし強いから。ホテルも近いし、あとは帰って寝るだけだから今日は飲みましょう、研治兄さん」と美代子は全く聞く耳を持たない。

昨日長い電話で十分に語り合ったお互いのこれまでの半生であったが、やはり話題はお互いの配偶者の話になる。

 「研治兄さんの奥さんてどんな人なの?」

 「どんな人って、普通だよ」

 「美人?」

 「いやあ、違うな」

 「うそ」

 「うそじゃないよ」

 「確か3つ年上だったよね」

 「そう」

 「研治兄さんって年上好みなの?」

 「そういうわけでもないけど、男って若い頃は年上の女性に憧れるもんなんだ」

 「そういうわね。研治兄さんも?」

 「まあね」

 「でも憧れと実際に結婚する人って違うんじゃない?」

 美代子は研治より5歳も年下であることを今更ながら残念に思う。

 「なれそめを聞かせて」

 「面白くないよ」

 「いいから」

 「ありふれた話だけど………会社の事務の先輩の女性で何かにつけ仕事のサポートをしてもらっているうちに親しくなった。時々二人で飲みに行くようになって深い仲になった」

 「深い仲って…体の関係が出来た…ってこと?」

 研治は頷く。

 「そして、子供が出来たことがわかって、慌てて結婚した」

 「出来ちゃった婚か。研治兄さんもやる時はやるのね」

 「よくある話だけどね。…そういう一緒になったいきさつもうちの親が最初加奈子のことを気に入らなかった理由の一つだと思ってる」

 「研治兄さん、奥さんにうまく絡めとられたわけね」

 「まあそれは否定しない。でも今ではそれでよかったと思っている」

 「………」

 「美代子の方は旦那さんとは?」

 「あたしも普通の職場結婚よ」

 「…でもね…酔ったから言っちゃうけど…結婚前にはあたし結構いろんな人とお付き合いした。年の離れた人が多かった。40歳の人とも短い間だったけど何回かデートしたし」

 「ほう。美代子はその時いくつ?」

 「21だった。あたしってある程度年上の男の人に興味がわくのね。研治兄さんの時から」

 「おう、おれも付き合った男のリストに入れてくれるのか。光栄なことだ。で、結局結婚したのは6つ上だっけ、の同僚、いや上司かな?」

 「そうね、上司と言えば上司。真面目ないい人で、三鷹にマンションを買うし、子供は可愛がってくれるし、旦那には恵まれたと思ってる。でも60で亡くなるとは思わなかった」

 「そうか、旦那さんは残念なことをしたな。美代子は未亡人か。まだ50代だから再婚とか考えないの?」

 「とてもとても。せっかく手に入れた一人身の自由を目一杯楽しまなくっちゃ。でも毎日家にいても退屈だから近所の電子部品の工場で週4日パートで働いているの。働かなくても亭主が残してくれたものもあるから生活は何とか成り立ってる」

 「仕事してるのか。それはいいことだ」

 「あー、あたし、ちょっと酔ったみたい」

 「だから飲み過ぎなんだよ。ちょっとペースを落とそう」

 「研治兄さんて、昔あたしのことをどう思ってた?」

 「どうって、幼馴染だよな。近所の幼い女の子」

 「幼い幼馴染か、まあ、学校へ一緒に行ってた頃はあたしも6歳の幼児だったし、そうよね」

 「何が言いたいんだ?」

 「あたしはね、毎日研治兄さんと一緒に学校に行けるのがすごくうれしかったの」

 「そうか」

 「あたし、クラスの他の女の子にいつも研治兄さんの自慢をしてたもん」

 「自慢?」

 「そう、カッコいいでしょって」

 「恥ずかしいな」

 「クラスの他の女の子も研治兄さんのことカッコいいって言ってた。あ、昨日葬式だった友達もそう言ってた、たしか」

 「ませた小学一年生だな」

 「女はね、6歳くらいで男の人を好きにもなるし恋もするの」

 「恐れ入りました」

 「だからね…私の初恋の相手は…研治兄さんなの」

 そう言い切って美代子は下を向く。顔の赤みは酒の酔いか羞恥か。

 「…それは知らなかった…」

 「朝いっしょに登校することがなくなっても近所や学校で研治兄さんを見かけると胸がときめいたもの。あたし、研治兄さんのお嫁さんになりたいって小学生の頃は真剣に思ってた。中学生になっても。これが初恋でなくて何なの」

 「………」

 「だから研治兄さんが東京に行ってしまった時は本当に悲しかった」

 「………」

 研治は美代子のことを近所の子供としか思ってない時に美代子はここまで自分のことを思いつめていてくれたとは…。そうだったのか、知らなかったとはいえゴメンな美代子。

 研治の中で美代子が「ただの近所の幼い女の子」から「性愛対象の大人の女性」へと位置を変えた瞬間であった。



 話が弾んで思いのほか食事に長い時間を費やしたため、料理屋を出た時は9時を回っていた。

 美代子の泊まっているホテルまで歩いて15分ほどなので、ぶらぶら酔い覚ましがてら歩いて送っていくことにした。美代子は足もとが覚束ないふりをして、研治に寄りかかる。研治は美代子の肩を抱いて支えながらゆっくりと歩を進める。途中から美代子は研治の手を握ってくる。繁華街とはいえ地方都市の店じまいは早い。人通りもまばらなことが二人を大胆にさせる。

 ほどなく美代子のホテル前に到着する。明日一緒に帰る新幹線と待ち合わせ時間もすでに打ち合わせてある。このまま「じゃあ、明日」とここで別れても何ら不都合はない。しかし二人の口からはそのような言葉は出てこない。二人とも動こうとしない。料理屋での美代子の「初恋告白」で二人の空気はすっかり変わってしまった。今夜このまま別れたくない。そして美代子の口から出たのは、「部屋に行きましょう」の言葉だった。研治も何の違和感もなく美代子の言葉を受け入れ、行動を共にする。

 二人は美代子の部屋に入ると無言のままで求め合い、躊躇することなく一線を越えた。

 一時の激しい動きが落ち着いてベッドに横たわった二人はぽつりぽつりと会話を再開する。

 「これって、不倫だよね」

 「まあ、そういうことになるけど、今それを考えるのはよそう」

 そう言うほかない。もう、こうなってしまったのだ。

 「そういうふうに言ってもらうと気が楽になる。研治兄さんをこんなことに巻き込んでしまってごめんなさい。後悔してない?」

 「後悔はないよ。二人の自然な気持の盛り上がりの結果だ。どちらかが悪いということでもない。しいて言うなら二人とも悪いし、二人とも悪くない。自分にこんな情熱が残っていたことに自分でも驚いている」

 「ありがとう、あたしは今大感激してる。50年来の夢がかなったから」

 「夢?」

 「そう、研治兄さんへの初恋が実り、一晩だけど研治兄さんのお嫁さんになることが出来た」

 「そうか………。おれも子供時代しか知らない美代子の熟女ぶりを目の当たりに出来てよかった。男冥利に尽きるよ」

 「熟女だなんていやらしい」

 「若い女にはないコク、のようなもの…という意味かな」

 「コク、ね。うまいこと言うわね」

 「まあね」

 「研治兄さん、…新潟から戻ってからもこうしたい?」

 「こうって?」

 「わかってるくせに。………二人で会うこと」

 「それはやめた方がいいと思うな」

 「どうして?不倫だから?奥さんに悪いから?」

 「関係を続ければ二人とも地獄に落ちる。絶対にそうなる」

 「………そうよね。わかっているのよ、あたしも。言ってみただけ」

 「今日が最初で最後にしたほうがいい、と思う」

 「じゃあ、今夜はもう少し付き合って」

 「わかった」

 泊まって欲しいという美代子を、明日も会えるのだから、となだめてホテルの部屋を辞し、研治が実家に帰り着いたのは日付が変わる少し前であった。



 翌日、新潟駅で午後1時過ぎに落ち合った研治と美代子は遅い昼食をとり、新幹線の車中の人となった。乗車の際に求めた缶ビールを開けて乾杯する。東京までは2時間もかからない。あっという間に東京駅に到着する。東京駅に到着すれば東海道線と中央線に別れなければならない。今日ばかりは新幹線の速さが恨めしい。5時間くらいかかってもいいのに。

 二人とも言葉少なである。研治は刺激的だった昨日一日の行動を頭の中で振り返っている。妻ではない女と、佐渡に遊びに行き、新潟に戻って酒を飲み、抱いた。それだけのことだ。大したことではない。そう思おうとするが、慣れないアバンチュールの興奮の火種はまだ研治の中にくすぶっている。隣にはその相手が座っていて窓の外の風景を見つめている。何を思っているのだろう。新潟のスーパーで再会した時から期せずして3日間連続で顔を合わせている女性だ。愛おしい。抱きしめて口づけをしたいが車中ではそれも出来ない。女性に対しこんな狂おしい気持ちになったのは久しくなかったことだ。

 昨夜ベッドの中で美代子から、今後も関係を続けたいかと問われ、即座に否定したが、あれはあくまでも大人の分別から出た建前だ。本心ではない。今になってはっきり否定してしまったことを後悔する気持ちも芽生え始めている。十数年ぶりに男女の交わりを持った研治の「男」が目覚めたのかもしれない。しかし、そこは還暦過ぎの大人、分別が立ちはだかる。昨日言ったように関係を続ければ決していいことにはならない。それは充分にわかっている………。

 せめて名残にこれくらいは、と研治は美代子の手を通路から見えないように万感の思いを込めて握る。

 手を握られた時、美代子も今日までの3日間の自分の行動を反芻していた。一昨日スーパーに行ったのは喪服に合わせる黒のストッキングを持ってくるのを忘れたことに朝、ホテルの自室で身支度をしていて気がついたからである。忘れてこなければ買う必要もなく、スーパーには行かなかった。あの時研治兄さんに電話がかかってこなければ、その瞬間に自分がそばに居合わせなければ…研治兄さんと会うことはなかった。すべて偶然の積み重ねである。美代子は神様が会わせてくれた、いや神様が出会いを意図的に仕組んだのではないかと思ってしまう。これは偶然ではなく必然の出会いであるのだ。だから、昨日の朝から夜までの出来事も、今日こうして一緒にいるのもすべて一昨日の出会いという神様からの贈り物から始まったのだ。そう思うと少し疚しさが薄まった。神様が計らったままに行動したのだから。私たちのせいではない。もしかして神様とは亡くなった友人かも知れない。彼女が自分を新潟に招き寄せてくれたのだから。それに違いない。

 あたしの目から見る研治兄さんは年は取ったけれど昔のようにカッコいいままだった。まったくの偶然の出会いの果てに研治兄さんとあたしは昨夜、深い仲になった。この歳になって『愛人』と呼べる人が出来たような気がする。おそらく人生最後のときめき。研治兄さんはあたしのことをどう思っているだろうか。この後も会えるかと聞いた時、研治兄さんは「NO」と言った。あたしは正直言って東京に戻ってからも会いたいと思っていたから少しがっかりしたけど、研治兄さんの言う通りここは一回きりにしておいた方がいいというのは分かる。会えばまた抱いて欲しくなるに決まっている。あたしは一人身の気軽な身体だけど、奥さんのいる研治兄さんはそうではない。不倫地獄に引きずり込む権利はあたしにはない。

 でもあたしの携帯の中にも研治兄さんの携帯の中にもお互いの電話番号は残っている。これから時折電話で話をするくらいならかまわないはずだ。お互い一人暮らしだし、何の遠慮もいらないはずだ。そのうえで、もし再び会おうということになったら、その時はその時だ。そこで改めて是非を考えればいい。いずれにしてもこの3日間の研治兄さんとの甘美な思い出は自分の人生の中でも特別なトピックとなった。永遠に輝きを失わない私達だけの秘密だ。

 美代子は顔を車窓に向けたまま、研治の手を強く握り返した。

 新幹線はそろそろ荒川を渡って都内に入る。二人の旅の終わりは刻一刻と迫っている。


(終)

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