慎吾と世界
はじめは、ただの風邪だったみたいだ。しかしその後に適切な療養が為されず、免疫力の極端に低下したところで、世界は悪性のウィルスに感染してしまった。
両肺共に炎症を起こし、人口呼吸器を取り付けて、その後は意識もままならない程の重体に陥る。もし転院できて、高度な治療を行えていたのなら、世界の未来はまた違っていたのかもしれない。あの日を最後に、世界の容態は極端に悪化していき――
そのまま、眠るように息を引き取ったそうだ。
知ったのは亡くなった日の翌日のこと。その時には既に世界の遺体は引き取られ、その後に俺は、死に顔をさえも見ることは叶わず、葬儀もされぬまま世界の身体は火葬されたそうだ。
仮にこれが他人事で、ニュースか何かで見聞きした話であれば、”叔父と叔母を許さない、俺なら絶対殺してやる”とでも、息巻いていたかもしれない。でも、今の俺にはどうでもよくって。叔父と叔母というより、世界のいない、この世界そのものがどうでもよくなってしまって――
気付けば、俺は車道に飛び出していて、トラックに轢かれて意識を落とした。
その間、俺は夢を見た。
世界と共に、憧れの異世界を回る旅。世界が主人公で俺は脇役。現世のしがらみから解放された世界は、異世界を自由気ままに旅している。数多のチートに、ご都合主義の溢れた展開。人が見れば呆れてしまう、とびっきりの主人公補正の数々。
でも、いいじゃないか。世界なら、あんなに耐えて頑張った世界なら、それを得られたっていいじゃないか。
世界は決してチョロインではなく、むしろチョロいのは脇役の俺の方で、いつも世界にべったりな俺は、幾度も世界に助けられ、惚れ直して――
結果的に、世界と俺は結ばれたんだ。
目覚めると、そこは世界の入院した病院だった。外に見える景色は、奇しくも世界が望んだ同じ病室の窓で、同じベッドだった。親には散々泣かれて怒られて、でも俺は未だ余韻に浸っていて、できればそのままずっと、永遠に夢を見ていたかった。
トラックの運転手にはとても悪いことをした。事故の非は俺にあり、そのことは誠実に伝えて、再び俺は横になる。生への執着は皆無だったが、世界の見ていた外の景色、それを見ていると、遠い世界に少しでも近付ける気がして。だから俺は飯も食わずに、黙ってそれを見続けていた。
家族も帰り、黄昏の差し込む病室で、俺の世界はぴたりと時を止めている。
「水上さん、ご体調はどうですか?」
「…………」
「水上さん、ご飯、ちゃんと食べないと――」
「…………」
「水上さん、伊勢原さんから、預かっているものがありますよ」
「…………え――」
ようやく気付いて振り返ると、そこには前に詰め寄った看護師の姿あった。その手には、一通の手紙が握られている。
「伊勢原さんは、ほぼ寝たきりの状態になりながらも、意識のある時には必死にこれを書いてました。そして亡くなる前の日、家族に渡ることを恐れたのでしょうね。これを私に預けました。私はあなたの住所も知らないですが、見舞いに来る制服から、伊勢原さんと同じ学校の生徒ということは知っていました。だからそれを届けに学校へと。だけどまさか、その日に事故に遭うなんて――」
看護師は、手紙をそっと膝の上に置いた。そして最後に――
「これは遺族でも誰でもない、あなたのものです。水上さん、どうぞ伊勢原さんの想いを受け取ってください」
それだけを言い残し、病室を後にしたのだった。
渡された手紙、それは世界の最後の言葉。これを見てしまえば、今後の世界との繋がりが終焉を迎えてしまうようで、思うように手が出ない。しかし世界はそれを望んでいない。失くしたはずの情熱が、僅かに心の中に宿りはじめる。そして勇気を振り絞り、その手紙を開くと――
病室には真新しい、世界の香りが広がった。
親愛なる慎吾へ。これを慎吾が見る頃には、既に私はこの世を去っているだろうな。命の灯火は残り僅かで、直接話せないのがとても寂しい。だけど、唐突な別れとなった両親と比べて、私はきっと幸せ者だよ。
慎吾、楽しかったぞ。慎吾と共に過ごした時間、その一瞬一瞬が色褪せることなく輝いている。世の中はこんなにも素晴らしいものだと、慎吾は気付かせてくれたんだ。
もう少し見ていたかったが、私は一足先に異世界に行くよ。一人で辿り着けるか不安だけど、きっと辿り着いてみせるんだ。だからな、慎吾。お前もいずれこっちに来い。生涯で求めた異世界だが――
慎吾のいない世界は、つまらないよ。
あんまり遅いと、私は途轍もなく強くなってるかもしれないな。私の足を引っ張るなと言いたいとこだが、それでいいよ。慎吾は慎吾で、まずはそちらの世界を十分楽しめ。私はもう、十分楽しませてもらった。だからな慎吾。今まで本当にありがとう。
水上慎吾は伊勢原世界にとって、真に神様だったんだ。