片道切符
終業式の後、今年最後の部活動も終わりを迎える。帰り際に年賀状を送ると伝えて、それで各々の帰路に着いた。あけましておめでとうと、SNSで伝えるのが常識となった昨今で、年賀状を書くなんて、とても新鮮なことだった。その後は冬休みに入り、寒波が町を襲う中で新しい歳が訪れる。
清々しいはずの新年翌朝、だけど心は曇り空だ。世界からのはがきを待てど待てど、結局年賀状は届かなかった。心模様が空模様に移ったのか、次第に雲行きも怪しくなって、その日は大晦日に続いて、記録的な雪が町を覆った。たかが年賀はがきを買う金もないなんて、あまりに不憫だ。せめてお年玉くらいは俺の手で、世界に渡してあげることにしよう。
そうして明けた冬休み。学校へと向かい、そして放課後。いつもの空き教室で世界を待つ。予めストーブを付けて、世界が凍えることのないように。
…………
………………
……………………遅いな。
いつまで経っても、世界が姿を現さない。連絡を取りたくても、世界はその手段を持っていない。風邪でも引いて、今日は欠席してしまったのだろうか。
まちあぐねた俺は職員室へと赴き、世界の安否を伺うことにした。世界は俺の一つ歳上で、確か安藤先生が担任だと言っていたのを覚えている。
「失礼します。安藤先生はおりますか」
すると先に目を向けたのは、俺のクラスの担任の小林先生の方だった。
「水上さん? 水上さんが二年の担任になんの用かしら」
「えぇと……その、安藤先生の担当の伊勢原世界について聞きたくて」
「伊勢原さん…………水上さん、伊勢原さんと繋がりがあるの?」
「えぇ、まぁ少し」
「そうですか。伊勢原さんは携帯、持ってなかったものね。実は――」
今の世の中、スポーツでもなければ走ることなんて早々ない。でも俺は走ったんだ。インドアな俺が全力で走れば、すぐに息なんか上がってしまう。それでも足は止めないんだ。肺がせり上がって、嘔吐いてもがむしゃらに。足が軋んで、悲鳴を上げてもひたすらに。世界の下へと駆けて行く。
「世界!」
「し、慎吾……」
清白に染まる部屋の片隅で、病的に白い世界が、俺を見るなり目を丸める。もともと細身な身体なのに、たった二週間でこんなにも痩せてしまうなんて。
昂る感情を抑えきれず、一体何があったのかと声を張った。でもここは病院で、他の患者も預かる病室だ。慌てる俺に眉を吊り上げ、鋭い目付きを露わにする。
「駄目だぞ、慎吾。病院では静かにしないとな」
ばつが悪くて、しゅんとしてしまう。いい歳して情けないが、項垂れる様を見た世界は、ふっと息を漏らすと手で招いて、近寄る俺の頭に手を乗せた。
「ありがとうな、慎吾。来てくれてとても嬉しいぞ」
恐る恐る面を上げると、世界の笑みが輝いている。血の気は薄く蒼白で、痩せこけてしまった世界の微笑み。それでも一切変わらない。いや、日を追うごとに笑顔の価値は、俺の中で高まっていくんだ。
「驚いたよ、世界が入院しているだなんて……そんなことは始業式でも――」
「言わないだろうな。少しばかり、複雑な事情だからね」
世界の言う複雑な事情。浮かぶのは叔父と叔母の二人だけだ。世界の居づらい、家庭の問題が頭を過った。
「な、なんだよ……複雑って……」
「叔父と叔母がね、家庭のプライバシーってやつだよ。だから先生方も、声を大にはできないんだろう」
やはり叔父と叔母だ。一体どこまで世界を苦しめれば気が済むというのだろう。
「ごめんね、慎吾。年賀状とても嬉しかった。返したかったけど駄目だったよ。はがきを買わせて欲しいと頼んだのだけど、遂には年を越えてしまって。その夜にもう一度だけお願いしたら、酒も飲んでいたし、虫の居所が悪かったんだろうね。酷く怒られてしまったよ。一日外に締め出されて、そこから体調が悪化してしまって」
はは……何かと思えば、年賀はがきをおねだりして……怒られるなんて。そんなことってありえなくて、そしてその罰が――
「い、一日外って……まさか、あの寒さで……」
今年は大寒波が押し寄せて、家の中ですら酷く寒かった。そして元旦の夜は大雪だ。その中で外に放り出すんて……死んでいたって……おかしくない!
「はは、さすがにちょっと堪えたな。おかげで今なお、気分は最悪だよ」
「今も悪いって……もう入院して、一週間近く経つはずじゃ……」
「入院したのは昨日のことだよ。おつかいを頼まれたのだが、道端で倒れてしまってね。それで通報されて病院に。それまではずっと、家にいたよ」
ぶっ倒れるまで病院にも行かせないなんて。どころか買い物を強要するだなんて。俺が安易に、年賀状など送ると言ってしまったから。だから世界はこんな目に。
「世界……ご、ごめん……本当に……俺がはがきを送ったばっかりに――」
「し、慎吾!」
「ほ、本当に、ごめっ……う、うぁあああぁぁあぁぁぁ」
「やめて! 慎吾! それは違うの。それだけは本当に!」
人生で、はじめて人を殺したいと思った。叶うならば叔父と叔母に、天罰を下して欲しいと心から願った。そして俺は世界の事情を、一番分かってやらなければならないはずなのに――そう、自身の行動を呪った。
身体を震わせ、取り乱す俺の背を擦るのは、健気で尊い世界の掌。世界の方がずっと辛いのに、俺がしっかりしなけりゃいけないのに。だけどその時の俺は、そんな世界の優しさに甘えてしまったんだ。
「大丈夫だよ。ただ風邪をこじらせただけなんだ。入院もできたことだし、きっとすぐに良くなるよ。そしたらまた学校で――な」
そうして俺は惜しみながらも、世界の病室を後にした。移るとまずいからと、あまり長時間の面会はやめることにした。しかし離れたくない。そう思って振り返ると、世界は名残惜しそうに見つめている。きっと世界も、気持ちは同じなのだろう。