物書きとセリフ
ここに、ひとつ『セリフ』がある。
ソレを言う登場人物は、やはり見目麗しい容姿を持つ者で、少しばかりおとぼけた頭の持ち主が良い。そして世界の全ては自分の味方と信じており、その上高貴なる身分というのが似合っている。
そしてセリフを述べる者は勿論、前途ある若者でなければならない。
だがここで問題がひとつある。時代を何時にするか。ここは私の妄想が、一番発揮しやすい近世、そして日本が舞台にしておこう。ダンスホール、活動写真、長い黒髪をバッサリとカットしたモダン・ガール達からは、コティのバイオレットの香り。
そのセリフを述べる者の性別は、男女何方でも良いのだが、ソレを公衆の面前で投げつけられる者は、若くしなやかな肢体を持つ乙女が良いのではないか?あくまでしがない物書きの好みなのだが。
楚々とした華族の美女がいい。髪は流行りに惑わされる事無く、舶来の繻子のリボンを飾り、長く艷やかに背に下ろしている風情が好みだ。季節の色の御召し、袖口から覗く手首は白く、華奢。心のままに握りしめれば、パリンと。儚い音立て壊れる玻璃の如し。
萌え出る木々の葉の色を濃くした翡翠の帯留めが似合う、両親と仕える者達に十重に二十重に守られ、屋敷奥深く慎ましく暮らす令嬢。
薄紅色した大輪の牡丹がしどけなく開ききる前、丸く頑な蕾をフッと柔らかな色が割り顔を見せ開き始めた頃の様な、顔。
双の黒曜石には、意志の強さが北極星の如く煌めき宿り、ピチュピチュ、三人寄ればなんとやら。巷の街スズメの様に姦しく囀らない柔らかな唇は、初夏の桜桃の様にぷるんと艷やか。
しかしその淑やかな見かけとは裏腹に、たわわな胸の膨らみの内に紅蓮の焔をチロチロと、静かに燃え立たせているのが良い。
娘の名前は『美香子』としておこうか。
――、走り梅雨の頃。眠りに誘うかのような初冬の雨とは違う、南国からの熱気をたぷたぷと含んだ雲から落ちる水滴は、賑やかに地に落ちそこに生える草葉を養い、根は下に茎は上に葉は横ヘと伸ばす。
もうもうとした靄を吐き出す、蒸れる様に生い茂る木々。みっしりと雫を溜め込み下に下に、項垂れる梢。
夜の刻。
池の蛙が忙しげに、ケロロゲロロと鳴いている。場所は、某華族の屋敷の大広間である。彼女は両親が用意した、仏蘭西から取り寄せた洋装を艶やかに着こなし、結い上げた、からすの濡れ羽色の髪には真珠と桃色水晶の飾り。
薄く叩いた白粉、紅も至極あっさりと。彼女の庭に咲く、山梔子の花を摘み水に漬け込んだ物を、香水の代わりに素肌に打っている美香子。涼やかで甘い香りが薄らと装う彼女を包んでいる。
蒼海が育んた一粒の真珠。上つ方にそう評される彼女。
手にした扇を広げ、僅かな動揺を見せまいと顔を隠した美香子。彼女の両親が守る様に娘に寄り添う。父親の厳しい視線が、目の前の存在より、向こう側へと飛ぶ。
そこには美香子の舅姑となる、この屋敷の主夫婦の姿。妻が何やら家令に密やかに命を出している。視線を受けた夫は黙礼を返す。
前もって、両家の間で密書のやり取りが成されていたのか。息を呑みざわめく客人は、誰一人としてこの視線の動きに気が付いていない。
物見高い人々の注視は三人に釘付けである。伝手を頼り潜り込んだ、目敏い『日々新聞』の記者は、柱の陰に隠れこの場の様子、やり取り、容姿それぞれに纏う衣装迄、事細かく書き記して行く。
美香子の目の前には、男を支柱か何かと間違えている様な女の姿。しなしなと蔓を伸ばすかの様に頼りがいが無さそうな、生ちょろい腕に絡まっている。
この館の後継ぎであり、両家の一族総意で取り決められた、美香子の将来の伴侶になる男が、絡まり女と甘く視線のやり取りをする。
伏せた目の絡まり女。儚げな風情を装ってはいるが、一瞬、ちろりと美香子に視線を向けた時は、勝ち誇った色を浮かべていた。
静かに立ち、動かない美香子。
それに対して苛つく絡まり女。
男に何かを甘える様に囁く。
女に優しく頷き応えた男。
男はもう一度、その『セリフ』を会場全ての注視の中で、意気揚々と発しようとした時。
彼の父親が動いた。
「そうかそうか、自由恋愛を貫くとは……、お前どう思う」
彼の母親も問いかけられ続く。
「よろしいんではなくて。真実の愛とやらが大切なのでしょう。認めてあげたらいかかですか?」
父親は重々しく頷く。ひときわ大きくざわめきが、あちらこちらから上がり、まとまり天井に広がる。一族の総意を踏みにじった息子は顔を輝かせ、絡まり女は、紅光る唇を綻ばせ喜ぶ。
彼の母親が二人に話す。
「何度も教えて来ました。幾度も教えて来ました。長子の貴方。何が大切で何を守るべきかを……、母としてわたくしはどこかで過ちを犯していたようですね。でも貴方はわたくしの血を分けた息子。ですから貴方を縛る『枷』を外して上げましょう、これは母として最後の務め」
彼の父親が二人に告げる。
「自由恋愛に殉ずる覚悟をしかと見せて貰った。真実の愛と引き換えに約束された将来を棄てる覚悟、しかと受け取った」
怪訝な顔をする息子と絡まり女。
「お前と美香子殿との縁組は、この場で無し。これでいいな」
怪訝な顔をしながら頷く、息子と絡まり女。
そこへ家令に連れられ、正装に身を包んだ彼の弟の姿。庶腹の息子はこの屋敷に引き取られ育てられていたが、外に出てくる事はなかった。
「ああ、用意は出来たか。よく似合う。丁度良い、今宵は両家の主だった者達は、この場に居合わせておる。無様な茶番をお見せしてしまいました。主として、ここに詫びを入れます」
頭を深く下げた夫婦。
「これまで引き立てて頂いた、我が長男は真実の愛を貫くという、素晴らしき道を選び、今宵この家を出立する事になりました」
父親の淡々とした言葉に、ザァァと、一気に顔色を変えた息子と絡まり女。
「これよりこの先、我が地位、我が屋敷、先祖より頂いた家名を守り行く者は、ここにいる、我が息子でございます、これより先この者を長子とする所存」
家令に言い含められている、弟は涼やかに笑みを浮かべると礼を取る。
「して、今宵、長子、淳之介と美香子殿との婚約が、先程無事、整った事を発表致します。若い二人の新しき門出に、ここに集う皆様の承諾を頂きたく願います」
……、ひと息。ふた息。
パチ、パチ、パチパチパチパチパチパチ!
拍手が湧き上がる。この屋敷の弟の存在は、実際のところ誰もが知っていた。
兄より遥かに利発だと。誰も異を唱えない。
愛に生きる事を今宵宣した、元長子と絡まり女の悲鳴を打ち消す様に、大きく大きく拍手か重なりうねる。
「さっ、楽団の皆様、祝福のワルツを、淳之介さん。美香子様をお迎えに、お披露目をなさい」
三拍子が流れる中、美香子に近づくと、英国式の礼を取る新しき長子淳之介。
美香子は……、父親から密かに聞かされていたとはいえ、小さくほっと吐息をついたのは。
広げた扇の陰。全てを吐き出すと緊張で硬くなっていた肢体が、解けて柔らかくなるのを感じた。
そしてパタンとそれを閉じると、みずみずしい花笑みを浮かべ、絹の長手袋をはめた手をひざまずく、新しき将来の伴侶に差し出す。
ここにひとつの『セリフ』がある。
某華族の長子は有る夜、それを人集まる舞踏会で言った。
某華族の令嬢に。
一族の総意を踏みにじる所業を犯した。何もあの女を娶ろうと考えなくても、妾の独りとして何処かで囲えばよかったものをと……、
屋敷を追われた二人のその後を知る者達は、ヒソヒソとしばらくは囁いていたらしい。やがて当たり前なのだが零落した者の事など、誰も見向きはしなくなり、美香子は約束されていた婚礼の日に、白無垢姿で無事に嫁いだのである。
――、徒然と書いてしまったが……、その『セリフ』を作中に書くのを、私はどうやら忘れている様だ。
終