冬
その日は突然訪れた。
ぴりっとした冬の冷たい空気を徐々に感じる季節になって、私もいよいよ受験のラストスパートという時期にシンが言った。
「タッキー。俺、この街から引っ越そうと思う」
「え」
思いもよらないシンの言葉に、返す言葉が出てこなくなる。
「…夏に来たばかりなのに?」
どうにか聞きかえしたけれど、少し声がかすれてしまう。
「もうこの街ですることは無くなっちゃったし」
声のトーンでシンがもうすでに、行ってしまうことを決めてしまったのが分かった。それが私を悲しくさせた。
私はこの街にシンを留まらせる理由にはならないことも。シンとの時間は、受験勉強の中で少ない癒やしのような特別な楽しい時間だった。シンだって楽しそうにしていたと思っていた。その時間が失われてしまうことは、私は動揺した。思ったよりもショックを受けている自分にも。
「することって何?」
「…アンを探すこと」
シンはそっと話しはじめる。
「俺とアン、結婚を反対されて住んでたところから逃げたのね。でも連れ戻されるのが分かってたから、バレないように落ち合う場所を決めたんだよね」
「アンさん見つからないの?」
「そう。今度こそ、ここだと思ったんだけどね。違ったみたいだ」
シンはふうっとため息をついた。
「いつになったら会えるんだろ。おじいちゃんになる前までには会いたいんだけど」
シンがふっと笑ったけど、とても寂しい笑顔だった。
「いつ引っ越すの?」
「今週中かな…」
「今週もう一回くらい会える?」
「そうだね。金曜日に会おうか」
最後に会う約束を取り付けて、私は図書館を出た。
心の準備が出来ていなくて焦る。嫌だ。シンと離れたくない。
ああ、私はシンが好きなんだ。こんなときに自覚するなんて。
夕方の冷たい空気の中を自転車で走っていく。
多分、次に会ったらシンにはもう会えない。そんな気がする。
涙が出そうになるのを堪えながら自転車を漕いだ。
国道沿いの空き店舗の前を通ったとき、ふと建物の前に佇む人影が目に入った。
見覚えがあるシルエットに、私は思わず声をかけた。
「おじさん…?」
そこ立っていたのは、以前ここのレストランでシェフをしていたおじさんだった。
「君は…」
おじさんは私のことが思い出せないのか、じっと顔を見つめている。
「滝原です。よく、お店に行かせてもらってました」
「ああ。滝原さんのところのお嬢ちゃんなんだね。大人になってて分からなかったよ」
久しぶりに会ったおじさんは、さらに年齢を重ねていたけれど笑顔は変わらず素敵だった。
「どうしたんですか?」
「実はこの土地も建物もすべて、売ることに決めてね。売った後は建物も壊すことになったみたいだから、最後に見ておこうと思って来てみたんだよ」
「そうだったんですね」
「ホントはね、もっと前に売ってもよかったんだけどね…」
そう言っておじさんは建物を見つめている。
「結局、現れなかったなあ…」
「現れる?」
「いやね。お嬢さんは、「あっちゃん」覚えているかい?うちでアルバイトしていた」
「はい。覚えてます。綺麗でハキハキしてて…」
「そうなんだよ。なのに海に出かけたときに亡くなってしまってね」
「はい」
「あっちゃんはね。駆け落ちする約束をしていたらしくてね…」
おじさんのその言葉に、私は何も言えなくなった。
「彼が迎えにくるまで、この街で待ってるんです、とずっと言ってたんだよ」
「カレ」ガムカエニクルマデ、コノマチデマッテルンデス。
「あっちゃんが亡くなった後も、その彼が訪ねてくるんじゃないかと思っていたんだけどね…結局現れなかったねえ」
そんなはずは…
だって…あれは私が小学生のときで…
おじさんと最後どのような話をして別れたかは覚えていない。
私は急いで図書館に引き返していた。
図書館に到着した時は、ちょうど閉館時間を5分くらい過ぎたところだった。受付の司書の人に、忘れ物をしたので取りに行かせて欲しいと嘘をついて、中に入れてもらった。
バタバタと階段を駆け上がり、自習室のドアを勢いよく開ける。
閉館時間を過ぎて誰もいないはずの自習室に…その人はまだいた。
シンが振り返る。
「タッキー…どうしたの?」
全速力で自転車を漕いで走った私はハアハアと肩で息をして、言葉が出てこない。
言ってしまったら、本当に本当にシンは行ってしまう。
このままここにいて欲しいのに。
本当はそう言いたいのに。
…でも。
でも言わなきゃ。
「シン。多分シンの探している人、時間が違うよ。私が小学校5年生のときに、海水浴で亡くなったの。あの国道沿いの空き店舗がレストランだったころに働いてた。だから、それより前の時間に行ってあげて」
シンが息を飲むのが分かった。
「…なんで分かったの」
「なんか分かった。前からシンはここのひとじゃないってどこかで分かってた」
いつも気がつけば自習室にシンはいた。空気のように。そしていつも知らない間にいなくなっていた。
「…俺は会うべき人にちゃんと会ってたんだな。まさか教えてもらうなんて」
「うん。あと早くしないとシンを探してる人にも見つかっちゃうよ。私のこと怪しいって思ってるかもしれない」
「…そっか。ありがとう。タッキーに会えなくなるのは寂しいよ」
「もう会えないの?」
「うん。気づいちゃった人には会わないほうがいいんだよ。どこかで何かのずれが発生するかもしれないし。だから今度こそ本当にさよならだ」
金曜日の約束は無くなってしまった。
「そっか・・・うう。涙出る。幸せにならないと許さないからね。」
「…うん。絶対なるよ」
「あと、アンさんに伝えてほしい。すごく憧れてたって」
「分かった。あいつ喜ぶよ」
そういってシンは私にハグをした。
「タッキー。本当にありがとう。君も幸せになるんだよ」
そう耳元でささやいて、私の頭をぽんぽんと撫でながら、シンは最後に飛び切りの笑顔を向けた。
手のひらでそっと視界が遮られて、私も思わず目を閉じる。
目を開いたら、シンはもういなかった。
それ以来シンは2度と自習室に現れなかった。