魔女の戦い
ラビィは“適度”な運動を続けた結果、見事に気配を消す術を編み出した。そもそも壁にそってひっそりと、ゆらゆら抜き足差し足進んでいけば、まさかこんなところに“あの”ラビィ・ヒースフェンがいるだなんて誰も思いもよらないのだろう。
目立つぼさぼさの銀の髪は一つにまとめて、正直なところ、すっぱり切ってしまった方がいいような気もしている。前向きに検討しよう。そんな中で、ラビィの出没により一時騒然となっていた屋敷は、やっとこさの平和を取り戻したらしく、時折メイドや使用人達が集まって、ホウキを片手に楽しげな噂話に花を咲かせている。
そんな彼ら、彼女らに、ラビィはひっそりと近づいた。ふんふん、と聞き耳を立ててみる。情報収集も必要だ。なんて言ったって、ネルラと繋がっているものが誰なのかわからないのだから。そうして驚いた。あらまあ、と珍しくもお嬢様らしく、口元に手を当ててみた。
***
「あの、お嬢様。なんで毎回、俺がいるときに厨房にやって来るんですかね?」
「それはあなたが一番下っ端で、一番遅くまで残っているからなんじゃないかしら」
ご苦労さまなことね、と素直に心根を伝えると、使用人はヒャンッと飛び上がって震えた。別に驚かせるつもりはなかったのだが、お疲れ様と言うべきだったかと少々後悔したが、毎度のことながら、誰がネルラと繋がっているかわからないのだ。ラビィがまともになったと知られるわけにはいかない。尊大なお嬢様のふりはすでに板についている。
そういえば、とラビィはぐるぐると鍋をかきまぜながら、ふと思い出した噂話を、使用人に伝えてみた。
「ねえあなた、知ってる? 最近夜な夜な鍋を掻き回して、どろどろの白い液体を楽しげに運ぶ魔女が出るんですって」
「えっ、それって、お嬢様なんじゃ……?」
秒の反応だった。素直すぎて職場でやっていけているのか他人事ながら心配になる。それはさておき、メイド達もこの使用人と同じく、「まあどう考えたって、“あのひと”のことよね」と言葉を濁している様子だった。
通常の行動をしているだけのつもりが怖がられるとは一体いかに、とさすがに落ち込む気持ちは少々あれど、ネルラにはいいカモフラージュになる。ネルラからの受けたラビィへの命令は、『ヒースフェン家の令嬢として、ふさわしくない行いをすること』だ。だから無闇矢鱈に我儘を言ったり、人を傷つけるような言葉を発するより、頭がおかしい人間としてふさわしくないと思われたほうがずっといい。
とは言いつつも、噂の出どころが気になる。一応ラビィとしては、こっそり、ひっそりと闇に紛れているつもりで、おかゆを持ちながら自室に向かうためにはヒースフェン家のプライベートな空間を使用している。以前は弟であるフェルに発見されたが、避けられているのか今では顔を合わせることもない。
となると、ラビィが、かゆと呼ばれるこれを作ることを知るのは、このチキンな男の使用人一人なのだが。
「あなた、私がこれを毎日作っていることを、誰かに伝えたことがある?」
「ヒエッ! ないですよそんなの! お嬢様の話をしたら呪われそうじゃないですか。入って日も浅いから、そもそも話す相手もいないんですから」
「あなたはちょっと口を慎んだ方がいいわ」
人によってはすでに首を掻っ切られていてもおかしくないからな。
といった具合に正直すぎてこれで嘘をついていたら、ネルラ以上の大物である。となると、わざわざラビィの動きを監視しているものがいる。その人間こそが、ネルラに近い人間だ。ふう、とラビィは息を吐き出した。そろそろ椅子がほしい。自室からやってきて、調理をしてとさすがに立ちっぱなしが辛くなってきたものの、これも試練と思うしかない。
「さすがに白ごはんとお塩のみもどうかと思うのよね。タンパク質がほしいわ」
「た、たんぱくしつ?」
ちなみにこの国にはまだ栄養の概念はない。あっても肉を食べれば食べるほど、体が強くなるというようなアバウトな概念くらいだ。いそいそ冷魔庫から卵を取り出し、ボールに割った。この体で卵を割るのは初めてなはずだが、うまい具合に黄身がぷるぷると震えていて、満足した。もう少し体が強靭になれば、これをそのまま飲み込んでみよう。そうして、箸で解きほぐしおかゆのなかに流し込んだ。「ヒイッ!!」 使用人が卒倒した。
「卵をご飯と一緒に!? 死にますよ! それは悪魔の組み合わせです! その組み合わせで死んだ人は何人もいるってばあちゃんが言ってました! 俺、お嬢様が死んでしまったら……俺……
特に困りはしませんが、寝覚めが悪くなります!」
「驚くほど正直ね」
入って日が浅いから話す人間がいないのではなく、別の要因があるのでは。
というか悪魔の組み合わせとはサルモネラ菌のことだろうか。この世界に細菌が存在するかはともかく、確かにご飯と卵は魅力的な組み合わせだ。幾人ものチャレンジャーたちが命を落としていったのも無理はない。
「新鮮なら大丈夫だし、それに今は加熱しているから」
ほかほか柔らかいご飯に混ざるのは、優しさと言ってもいい。とは言ってもこの場にそれを理解できるものもおらず、ただ震えているチキンが一人いるだけだ。
明日の朝、お嬢様の目が覚めることを祈っております、と両手を合わせて不吉なことをつぶやく使用人はともかく、次の日も元気にラビィは瞼を開けた。最近、体中にそこはかとない筋肉痛が襲ってくる。その痛みを感じる度に、ラビィは薄っすらと口元に笑みをのせた。なぜならこれは“筋肉痛”なのだから。苦労の賜物だとニヤつきがたまらない。
コンコンコン、とノックの音が響いた。「入って」 声を告げると、黒髪をぴっちりと真面目に結い上げた少女がするりと近づく。未だにラビィはベッドから起きて寝間着なままだ。「マリ、着替えるわ。離れなさい」 ぺこりと彼女は頭を下げて、そっと衝立の向こうに隠れた。
ネルラは、ラビィに着替えは一人で行うようにと命令している。なぜなら、隷従の印を誰にも見せるわけにはいかないからだ。もちろん、今はそんな印があるわけないが、ボロを出すわけにはいかないし、この貧相な体には、ふくよかな脂肪などどこにもない。浮き出た肋骨を撫でて、同じ年頃の娘に体を見られるのは、本当に、本当に僅かだけれど、羞恥があった。
だからネルラに命じられるまでもなく、着替え程度一人で行ってきた。
マリは朝の紅茶を静かにテーブルに置いた。彼女の紅茶は、ネルラよりもずっとおいしい。凍りついた彼女の瞳を見るとぞっとはするが、その程度だ。この屋敷の使用人たちは、誰しもが同じような目で彼女を見てきた。
学院が始まるまで、紅茶を一杯運んだら、後は一人にするようにと、マリにはそう命じている。それでは失礼致します、と退室しようとするマリを横目で見ながら、すっと紅茶に口をつけた。そして瞬時に理解した。
「待ちなさい」
突き刺すような、鋭い声は今まで何度も叫んできた。ネルラを相手にしてわざと人前ではそういった態度をするようにと強制されていたからだ。マリが訝しげにこちらを振り向くことを確認して、ラビィは手のひらのカップをゆるりと持ち上げ、落下させた。床に叩きつけられたカップが、取っ手をなくして転がっていく。床一面に広がった紅茶から、むせ返るような甘い匂いがむわりと漂う。
「あなたが、これを用意したのね?」
マリは静かに眉を顰めた。肯定の言葉だ。
――――見つけた。