兎とハリネズミ2
ラビィは震えた。そうして目を見開いた。
あまりにもネルラが、“想像通りの行動をするものだから”。
きりきりと、自身を縛り付ける鎖を感じる。「さあ、ラビィ、泣きわめいて。びっくりするほど面白く、狂って叫んで頂戴。そうして最後には私にこうべをたれるの。ごめんなさい、私が間違っていました。さあ、言ってごらんなさい?」 ネルラはそっとラビィに囁いた。ラビィはぱくり、ぱくりと小さな唇を動かした。そうして、言葉を吐き捨てた。
「――――いやに、決まってるでしょ」
本来なら、ネルラの言葉をきいて、すぐさま狂って、叫んで、ネルラの許しを求めているはずの彼女だ。「なんで私がそんなことをしなくちゃならないのよ」 なのにラビィはゆっくりとスカートを叩きながら立ち上がった。座り込んだままのネルラを見下ろすその姿は、まるでいつかと反対だった。
「ラビィ……?」
「ねえ、ネルラ。あなた、私がこの中庭に、何度も来ていたことはきっと知っていたわよね」
おそらくサイはバルドに、ある程度の報告をしていただろう。そうすると、ネルラの耳に届いていることも、想像に難くない。もしくは自分自身でも、ラビィの動向を調べていただろうか?
「私が、何の意味もなく、そんなことをしていたと思う?」
体力をつけるため。
もちろん、名目ではそうだった。けれどもそれなら、何もこの場所でなくともいい。毎日毎日、サイを付き合わせるにも限度がある。「私の魔力は水ということは、知っているわよね。まあ、あなたに比べると、びっくりするほどちっぽけだけど」 自分で言うには悲しいほどに貧相な魔力だ。こんなに魔力が少ない貴族が、ラビィ以外にいるのだろうか。彼女が使える魔法は、せいぜいカップ一杯程度の水しかない。
うまくいくかどうかなんてわからなかった。けれども、せずにはいられなかった。
逃げたいと、そう幾度も幾度も考えていたのに。
「私は、何度も池の水に魔力を注ぎ込んだの」
自身の両手を見つめた。こんなことをしても、何の意味もない。ラビィには、ただ、彼女の前から姿を消すことしかできない。そう思っていたのに、来る日も、来る日も、ラビィは池の水に魔力を注ぎ込み続けた。
「意味が、わからないわ」
ネルラはラビィを見上げた。そうして、呆然と呟いた。ラビィにだってわからない。ネルラが怖かった。逃げ出したかった。姿を消してしまいたかった。なのに本当は諦めたくなんてなかった。未練がましく、ただラビィは、がむしゃらに進むしかなかった。
「私には、あなたみたいな頭も、魔力も、なにもないから。本当に、何もなかったのよ。びっくりするほど。だったら、歯を食いしばってでも、努力し続けるしかないじゃない」
悲しいことに、彼女にはなんの才能もない。ラビィにあるものは、ただ一つの根性のみだ。だから、何度も何度も繰り返した。たったカップ一杯の魔力を、大きな池が満杯になるほど、毎日注ぎ込み続けた。本当に、何度も、何度も。
サイに体を鍛えてもらうようになって、体力がついて、勉強をして、魔力の操作を理解して、さらに効率が上がった。無駄なことなんて、本当はなにもなかった。
「だからネルラ。私はこの場にいる限り、あなたよりも大きな魔力を持つことになるわ。だから、この場所を選んだの」
――――ラビィには、ネルラの魔法はきかない。
そんなはずはない、とネルラは首を振った。理解ができなかったのだ。だって、ネルラが知っているラビィと言えば、いつもびくびくして、おどおどして震えているくせに、それを必死に隠そうと虚勢をはっている、そんな脆弱な少女であるはずだ。それが、どうして。こんな骨と皮の女を相手に。
自分が負けるわけがない。当たり前だ。それは決まっていることなのだから。奴隷は一生奴隷のままだ。ラビィの体のいたるところに魔力という鎖をがんじがらめにして操ってきたはずだ。今までも、そしてこれからも。「馬鹿なこと言わないでよ」 少しでも穴を探そうと、ネルラは必死で瞳をきょろつかせた。
「池に魔力を注いだ? そんなのしたところで、ただの魔力を含んだ水になるだけじゃない。何の意味もないはずよ」
いくらでも魔力は池の中に拡散されていくだろう。けれどもそれだけのはず。「それはそうよね。私もそこは少し不安だったんだけど」 ラビィはため息をついて、ぺとりと頬に手のひらをあてた。
「媒介をね、刻んで投げ入れてみたの。うまくいったみたいで安心したわ」
「はあ?」
――――魔力の媒介、という言葉が存在する。
魔力の総量は、人の一生を通しての変化は成長をするごとに微々たるものだ。だからこそ、魔法を使えるものは、サイにとっては長剣であり、マシューにとっては手袋というような自身と関わりの深い何かを探し、媒介を基軸とすることで魔力を効率よく循環させることができる。
「もしかしたら、と思っていたんだけど、間違いなかったわ。私、以前はもっと髪の毛が長かったでしょう?」
念の為にとっておいたの、とラビィは自身の肩口までしかない毛先を触った。ふわふわと銀の髪が揺れている。「自室に隠しておくのも大変だったわ。下手にマリが見つけたら、悲鳴を上げて捨てられてしまうかもしれないし」
そんなことはどうでもいい。ネルラは、心底そう感じた。
ここまで話されたとしても、ネルラは自身の敗北など、微塵も考えてはいなかった。どうにか突破口があるはずで、ラビィは、自身に踏みつけられて生きるものであるはずだと、その“思い込み”が消えるはずがない。
なのに、なぜだろうか。胸の底から、小さな震えが湧き上がった。それはどんどんと大きくなる。ガタガタと体の震えがとまらない。
――――逃げないと
聞こえた声を否定した。
そんなわけがない。こんな骨と皮の、なんにもできないこの女から、なぜ自分が逃げなければいけないのか。大勢に、聖女と崇められた。必要だと求められた。ラビィよりも、ネルラの方が“上”にいる。もっと上位の存在なのだ。だから、だからこんなこと、ありえるはずがない。
ねえネルラ、とラビィは小さく呟いた。
「あなたはただ、違うと言えばよかったのよ。しらをきれば、私とあなたならみんなあなたを信じるでしょう?」
この女は、何を言っているのだろう。
「私はあなたに、この魔法をかけてもらいたかったの。そうじゃなきゃ、あんな意味のない言葉、いつまでも叫ばないわ」
あのときラビィは、なんの意味もない言葉を叫んでいた。ネルラは気づきもしなかったが、あえて聖女の呪いの魔法の存在を彼らに告げず、彼女が動くことを待った。こうして欲しかったのだ。すべてはラビィの手中にある。
「あなたって本当に、いらないものはその場で踏みにじらなきゃ気がすまないのね」
そう最後に告げて、ラビィは自身の服に手をかけた。ぷちぷちとボタンをあけていく。いつもは下に着込んでいるはずのそれもない。
「やめて」
嫌な予感がした。
「やめて、やめてよ!!!」
ネルラは必死に叫んで、ラビィに飛びかかろうとした。その彼女の腕を、耐えきれずにサイが掴み上げた。ネルラと相対する際に、できるだけ息を潜めているようにと、ラビィにそう命じられていたからだ。彼にとってみれば、我慢の限界だった。
ラビィはサイにちらりと目配せをした。そうして、何が起こっているのか理解もできず、聖女の醜態に困惑するばかりの彼らに、自身の胸元を見せた。丁度、彼女の心臓部分だ。そこに赤黒く、目もそむけたくなるようなあざが、あった。そうして、ぱちりと微かに弾け飛ぶ音がした。
何人もの人間が、小さな悲鳴をあげた。何かがおかしい。忘れていたことを、無理やり思い出したような、そんな感覚だった。もやがかかった頭の中が、少しずつ晴れていく。初めに声を上げたのは、マシューだった。
「隷従の、印……」
知っていた。そのはずなのに、理解ができなかった。禁忌と呼ばれる魔法であった。そのことを知っているもの、知らないもの。わかるもの、わからないもの。
様々な人間がいた。
「これは、呪いの魔法です。聖女と呼ばれるものが使うことができる魔法です。私は十年間、彼女に使役されていました」
そう告げると、するするとラビィの胸元から、刻印が消えていく。「ネルラは、聖女です。けれども、決して聖女と呼ばれるべきものではないわ」「やめて!!!!」
ネルラはじたばたと暴れた。ラビィに飛びかかるのだろうかとサイは眉を顰めたが、その様子もない。「離しなさいよ!」 サイはゆっくりと手を離した。するとネルラは必死に頭をかきむしった。自慢のさらさらの髪の毛はない。周囲からはざわつきと、ネルラという存在そのものを疑問視する声が聞こえている。フォクスの仕業は、ほんの一部だ。
ネルラは振り返った。突き刺さるような彼らの視線に、彼女は震え上がった。
誰も彼もが、白白とした目をして彼女を見ている。
「嘘よ」
何人も、見覚えのある顔がある。「フェル、嘘よ。全部ウソ。ラビィがでっちあげたものに決まってる。ねえ、わかるでしょ」 フェルは無言のままネルラを睨んだ。その瞳には、軽蔑の色が滲んでいる。「奥様、旦那様!」 ラビィの父と母だ。彼らはネルラにも目をくれず、ラビィの名を呼んだ。「バルド様!!!」 少年は、ただネルラから顔をそむけた。
「嘘だって、私が言っているじゃない!!!」
誰も信じてはくれない。これだけ声を張り上げても、ネルラの声が届かない。こんなのおかしい。ネルラからしてみれば、世界が狂っているとしか思えなかった。
この世は、間違っている。
「……あなたは、一体何がしたかったの?」
ずっと、ラビィが問いかけたかったことだ。一体、何を。ネルラは自身の思考が、ゆっくりと流れていくことに気がついた。生まれたときから、彼女は薄汚れていて、親の顔も知らなかった。金で売り買いされて、ほんの僅かな食料を奪い合って生きてきた。彼女は人ではなくものだった。けれどもある日、人であると告げられた。聖女という、特別な人間なのだと“教えられた”。
そして、王家を滅ぼすようにと。
彼女の魔法は、人を選ぶ。魔力の低い人間にしか意味がない。だからバルドの影の日を知ることを目的として、ヒースフェン家に向かった。まずは彼の婚約者であるラビィを籠絡しろと告げられたからだ。
その日、ネルラはぼろぼろのみすぼらしい姿でヒースフェン家の屋敷の前に立ちすくんだ。ヒースフェン家の主やその婦人はとてもお人好しであると聞いていた。だから、主が通り過ぎるそのときに、お恵みをいただこうと思ったのだ。
身なりの良い紳士がいた。彼がそうなのだと、すぐにわかった。馬車から降りた青年の足にすがりつこうとしたときに、誰よりも早くネルラに駆けつけたのはラビィだった。
天使のような少女だと思った。
輝くような銀髪をなびかせて、ぱっちりとした真っ赤な瞳と透き通るような肌を見て、こんな人間がいるのかと驚いた。ラビィの周囲は、きらきらとしているように見えたのだ。「あなた、大丈夫?」 そうして、ネルラの骨と皮ばかりで、薄汚れた手のひらをためらうことなく握りしめた。とても可愛らしい顔をしていた。「お腹がすいているの? 大丈夫よ。ねえ、お父様?」
無邪気に父に声をかけた。そうして、ラビィはネルラに寝食を提供した。ネルラがヒースフェン家で働くことができるようにと公爵に願ったのも彼女だった。
「ねえ、ネルラ。もしよかったら、私とお友達になってくれないかしら。年が近い女の子のお友達が欲しかったの」
ネルラがうなずくと、ラビィは花が咲くように笑った。ネルラの細い手のひらをぎゅっと掴んで、嬉しげに笑っていた。そんなラビィを見て、ネルラはとても、とてもとても。
憎たらしかった。
こんな人間が、いるのかと思った。可愛くて、お金持ちで、貴族で、何の苦労もなくて、婚約者がいて、両親がいて、愛くるしい弟までいる。ネルラが持っていないもののすべてをラビィは持っている。憎くて、憎くてたまらなかった。どす黒い感情が胸の中で渦巻いた。だから壊してやろうと思った。彼女のすべてを壊して、取り上げて、苦しめないと気がすまなかった。
王家など、本当はどうでもよかった。ネルラは、ラビィを叩き潰すことができれば、なんでもよかったのだ。彼女を悲痛の海に投げ込みたかった。
彼女に魔法をかけるつもりはなかった。ただ、気がつくとネルラはラビィを見下ろしていた。彼女の胸には、赤黒いあざが浮かび上がっていた。ラビィの魔力が、低いことはネルラにとって僥倖だった。けれどもそれはラビィの物語の始まりでもあった。
(これで、私はこいつの“上”になった)
ラビィはネルラの奴隷となった。奴隷は一生、奴隷のままでいなければならない。
――――つまりは、ネルラのように。
そう、決まっているはずなのに。目の前の少女は、じっとネルラを見つめていた。骨と皮の女だ。そう思っていたはずだった。なのによくよく見てみれば、頬は以前よりもわずかにふっくらとして、顔色もいい。今の今まで、ネルラは気づきもしなかった。気づきたくもなかった。彼女にとって、ラビィは哀れな少女であるべきだったのだ。
「あんたは、一生私の奴隷でいるべきなのよ……!!!」
わけもわからず叫んでいた。お友達になってくれるかしら、と過去には問いかけた彼女は、ただ悲しげな瞳でネルラを見ていた。「あなたは、たくさんの人に好かれていたのよ」 例え、それが演技だとしても。ラビィという存在を、踏みにじっていたとしても。
「あなたには、あなたの魅力があったはず。なぜ、それがわからなかったのかしら」
――――そんなことは、どうでもいい。
なのに、なぜだろうか。涙が溢れた。狂うほどの悲鳴をあげて、ネルラはただ頭を抱えて崩れ落ちた。聖女と呼ばれたものの成れの果てが、そこにあった。
それはひどく、惨めな姿であったと。そう人々に語り継がれ、ラビィ・ヒースフェンと言う少女の名もまた、多くの人々の記憶に残った。
白銀の髪を持つ、細い体の、可愛らしい少女であったと。




